100年後の人のために
目次
1.● 恒久平和はかなりハードルの高い願望
2.● 戦争放棄の条件
3.● 戦争放棄した国の戦争回避の覚悟の現状
4.● 戦争回避の車座対話
5.● 恒久平和のための為政者と国民の必須条件
6.● 武力の程度
7.● 戦争は武力以外の要因が8割を占めるという問題の対処
8.● 国民として学ぶべきこと・為すこと
9.● 日本人同士で戦ったこれまでの日本戦史の実態から何を学んでいるか
10.● 天変地異の間隙を縫って先祖は生き延びた
11.● 室町時代の頃からの私の先祖の員数は10億7,000万人を超える
12.● 日本史から戦争回避のヒントが読める時代があった
13.● 憎悪の根を絶つという問題について
14.● 江戸後期の寺子屋で10歳くらいの子供たちが学んでいたこと
15.● クラウゼヴィッツの『戦争論』と哲学者梅原猛の教え
16.● 「寛容」と「愛語」
はじめに
記者が短い質問を米国大統領にした。大統領は「ノー。」と答えた。その直後ロシア大統領は「戦争ではなく、特別軍事作戦だ。」と言って2022年2月24日ウクライナに侵攻した。
なぜ「ノー。」と言ったのか。この一言は、誰が得して誰が損したか。現代を生きる人類全体にとって、適切な「ノー。」であったか。なぜそれ以外の道を選択できなかったのか。
彼を擁護する訳ではないが、彼は国家評議会の会合に出席した後、モスクワで記者団の取材に「我々の目標は軍事紛争を拡大させることではなく、逆に戦争を終結させることにある」と発言。続けて「我々はこの目標に向けて努力してきたし、今後も努力を続ける」と述べたという。
この彼の主張に、北大西洋条約機構(NATO)メンバー国の一人、米国大統領が交渉を一言で断絶した。勝者のおごりからか。これも失言か。または取引でか。
この一言は、
他の30か国を代表する意思であったか。北米2か国と欧州29か国の計31か国の創意であったか。関係各国の国民の総意によるものであったか。
その創意を得る話し合いが、ロシアを含めて、中国も日本もベラルーシも南アフリカもインドもブラジルも台湾も徹底して行なわれたか。
多くの犠牲者を出し、その後の戦費や復興のために支出されるであろう費用とコストと経費に見合う利益は何か。それは人類共有のものか。共有のうえ、更に幸福になることを目指しているか。次世代の人々に誇れるものであるか。100年先の人々にお手本になっているか。
これら問題解決に、国連は決定的に機能・役割を果たし得ていない。
ならば、すなわち第二次世界大戦勝利国の絶対権力を排しての、
現行の国連に替わる枠組みを必要とするのであろうが、できなければそれまでのこと、これで終わるつもりか。
唐突のような話に聞こえるかもしれないが、
1820年からのコンピュータ時代は人工知能(AI)におよび、203年後の今日、将棋界で 7冠王藤井聡太を生み出した。近日内に 8冠にもなろうとしている。
これまで昭和では木村義雄、大山康晴はもちろんのこと、谷川浩司や羽生善治が目指すべき人であったが、
これからは藤井聡太のようにAIを克服できる者だけが生き残れる時代になったと言えよう。
求められる人物像がこれまでとは替わって、これからは藤井聡太のようにAIを克服できる者が求められることになるであろうの話で、もちろん将棋界に限らず、芸術家も経営者も自治体役人も、教師も営業マンも他の世界でも同様に、人間ならではの世界に深く浸食し、AIが多くを征服することを示唆している。
AIなどを安易に受け入れると、各界の一握りの人たちだけの時代がつづく世界になり兼ねない。
現代はこうした時代の転換期にある。
そうなったとき、避けて通れない戦争問題を、AIが克服するとはとても考えられない。恒久平和はどのようにすれば実現するかの答えは出るのだろうが、一握りの中の限られた人がAIを駆使したところで、人類の大半が願望する恒久平和を享受することはないだろう。
世界で未だに止むことのない紛争や戦争の世界にAIが入り込むと、世界はどうなるのだろう。
誰が歯止めを掛けなければならないのであるが、その誰かは、
為政者一人ではなく、今生きている人すべての、その一人ひとりの強い意思で、止めさせなければならない。
このことを国は子供が10歳になったとき、親や兄弟をふくめ一家族単位で教え込まなければならない。
これを修身だ道徳だ宗教だと言うつもりはない。これからの時代を見据えての新しいパラダイムを打ち立てての、自然の一員として生き物と共生する思想に裏付けられた社会倫理の確立が急がれているように感じられてしかたない。
これまでの倫理観では考えられない事件が毎日起こっているが、これまでの概念に依る法的手段で裁くことでは成り立たなくなっている。
裁判所が破棄してはならない重要資料を法の名のもとに処理する感覚も気になる。
これら意識の低さが容易に犯罪を招き、貧困が蔓延し、紛争や戦争を招いているとも言えないだろうか。
2023/ 5/17現在 補筆・修正
残念ながら、恒久平和はかなりハードルの高い願望であって、人間の醜い本性が存するかぎり紛争や戦争はなくならない。
強い者は、武力行使する最悪のことを想定して、短期間で決着させるための武力行使の準備を秘かに整えてタイミングを推し量るようである。
軍人は戦争をしたがる傾向があると言えないか。彼らは武器を持って居れば使ってみたくなるのではないか。狙った的に当てる精度を高めたくなるであろう。その力量を試したくもなるだろう。
その彼らは、国を家族を守るという崇高な使命を担って戦争決定権者の命令の元、戦場の最前線で命を懸けて闘うのだろう。
戦争を未然に防ぐ政治的叡智を持たず、我がままで、独裁的で、慈しむことをしらない為政者が、他の者の意見を聞かず、シビリアン・コントロール(文民統制)が機能しなければ、武力行使の準備を急ぎ、武器使用の状況をつくりながら話し合い(交渉)のための準備もして当たるが、問題解決する政治的叡智を失って、話し合い(交渉)を放棄して、極限状態に陥ったとき、理屈をつけて弱い者を一方的に殺傷能力を持つ武力で攻撃し、淘汰しようとするであろう。
突然勃発すれば決戦の手は止まらず、そうなったとき、戦争はすべきでないとか、平和は希求すべきだとかの道徳や倫理も真理も歴史の教訓も理想論は一切通用しないようである。本来人間として基底とすべき基本姿勢を為す倫理的理念は、役立たず終いとなる ・・・ 。
決戦は戦場を替えながら繰り返される。だが勝利した結果は絶対的なものでないことは解かっていたとしてもそれを考えようとせず、敵が壊滅して抵抗不可能になるまでこれでもか、これでもかとやり遂げる。国際的に禁止されている武器も約束を破って利用し、正当化し、敵の戦意がくじけるまで攻撃を続ける。
だが、強者と云えど、勝利する保証はなく、賭けの要素を含むだけに、戦略が要求されるが、絶対の戦略もなく、敵の動きを捉えてのT・P・Oに合わせて、主戦場を選択し、絞って、戦闘能力を計算し、兵站を整え、情報戦でかく乱し闘う。戦闘はこのような仕組みで展開されているようである。
その途上、 戦後の政治的見通しは権力者の眼中にない。講和条約へ署名した後も、再び勃発することもあり得るだろう。
要諦は、「問題解決する政治的叡智を失わせず、話し合い(交渉)を断念させず、極限状態に陥らせないこと」の「戦争回避のシステム」であろうが、
この時機に国際社会が一丸となって説得することが要求されるのであろうが、それができないところに現実がある。それでも智慧を生み出す努力はせざるを得まい。
これまで紛争や戦争を引き起こさなかった国は、その火種を事前に消し去る政治的叡智が働き続けた結果が主であるから、その努力を繰り返さなければならない。
その意味で、戦争放棄の憲法は、崇高な理想であって、維持するにはそれなりの努力が必要となる。
現実的な問題とすれば、憲法を守り抜くために、戦争を回避する智慧が求められる。
回避するには、為政者らの崇高で強固な政治的叡智によって、相手国との武力のバランスを保ちながら、衝突しないように努めるこの意志を貫く推進力と戦争回避のシステムを維持する国民の力に委ねられるから、国民は国民としてその義務を具体的に果たさねばならない。
それは単に観念的な考えや、掛け声や抗議の行進程度では果たせないのではないか。
それほど、人間にとって紛争や戦争は常に隣り合わせの問題で、相手がいつエスカレートするかわからない、と言えるようである。
「崇高な戦争放棄の憲法を持つ」私たちにしてみれば、自衛隊だけに頼らずに、スイスに合わせて、国民一人ひとりの
「戦争は行わないという強い意志」と
「攻めてこさせない強固な姿勢の表明」と、
「開戦となれば負けないという強靭な精神」
をもつことは不可避ではないか。その意味で、「徴兵制」か、「それに準ずる制度による防衛」は重要ではなかろうか。一考に値すると思うのである。
国民にとって他人事ではないのではないか。
では、
戦争放棄した国として、敵が攻めて来たときのことを想定して、国民にたいし認識させるべきことは準備できているのだろうか
紛争や戦争という暴挙に至る問題はなぜ解決できないのか
その目的となる問題の解決手段は、暴力以外にはないのか
戦争を回避するには、為政者たちは何をどうすればよいのか
為政者たちが持ち得なければならない政治的叡智は実効性の高い内容であるか
それは彼らによって共有されてコントロール機能が働いているのか
・・・ 枚挙に暇がないが、国と国民を守る立場の人たちと、国民が、戦争放棄した国の戦争回避の覚悟について、世代を超えて、地域社会の中で車座の対話を行った方がよいのではないか。
手段を戦争のかたちで行使しても、そもそも「解決すべき目的」を勝ち取ることにはならない。
言い換えれば、
開戦すればあらゆる手、つまり信じられないほど残虐な手を使ってでもひたすら勝つことに専念することになるため、勝利することが目的化して、戦争を引き起こしたそもそもの問題は据え置きされて、解決すべき目的は戦争によって解決されることはない。
一旦戦争に突入すると非人道的なことも正当化されてしまうから勝者には戦犯は問われない。恐ろしい残虐行為も勝者には軽い処罰または寛大な処置程度であるから、徹底的に終始勝利することをする。偽情報やフェイクニュースが飛び交うのもその一つだ。勝てば官軍である。勝てば何とでも理屈がつき、負ければどんなに冷遇されるかわからない。だから始末が悪い。
だが勝利したからと言って、戦争を引き起こした問題が解決する訳でもない。問題は問題として戦後も戦前のまま放置される。
そればかりか、
戦争を引き起こせば、敗者はもとより勝者も新たな問題が発生する。
為政者たちはこれらのことを踏まえたうえで政治をおこなっているのだろうか。
為政者の必須条件は戦争を回避する政治的叡智の具現化であり、
国民はこれを具体的に推し進める人を選挙で選び、
さらに国民の声で為政者の過ちを正すシステムを保持しなければならないなど
をはじめとする課題を見出さなければ、
恒久平和は現実化しないのではないだろうか。
だが、
交渉で解決できないことから戦争が勃発する現実から、相手の攻める意欲を欠く武力は必要となるのだろう。
相手の攻める意欲を欠くために使用しようとする武力はどの程度必要なのだろうか。
指揮官は、このためのシミュレーションを作戦の都度、生産性を考慮するのだろうが、その作戦に為政者たち政治家は、具体的にどのように対応して武力の程度を決定づけるのだろうか。
一方で直視しなければならないことの一つに、
「戦争は武力以外の要因が8割を占める」という視点である。
この「8割を占める諸課題」を、政治に携わる者たちや関係省庁およびマスコミや関与者および地方自治体は、それが何で、いつのタイミングで何からどのように解決することが望ましいか、実現に向けて、準備できているのだろうか。
それらと国民は共有認識すべき点は何があるのだろうか。具体的にしっておきたい問題である。おそらくそのなかにこそ、「戦争回避の秘訣がある」だろうと思われる。
激論している光景を観たことがあるだろうか。
わが国は戦争を放棄した国家ではあるが、自衛せねばならない。
問題は武器を整え兵力を増強するのみの自衛では国は護れないから、国民として学ぶべきことがあるのだと思う。
一国民ができることは「選挙での投票と言論」の2点でしかない。
特に、言論において具体的に何を声高に主張するかも重要であるが
為政者の過ちを正すシステムを保持することに関しての訴求するために
私たちは戦争と平和について如何なる知識と知恵を持つべきか、である。
そのために例えば、
日本人同士で戦った最後の内戦は西郷隆盛と新政府軍が戦った「西南戦争」であったが、
その明治10(1877)年から今日(令和 5(‘23)年)までの、146年間日本人同士の内戦は回避された。
その後、そして今後はもうそのような日本人同士が骨肉の争いをするとは考えにくい智慧を持った。
それは一体何であろうか。
だが有史以来、幾多の内戦で、日本人同士が殺し合って来た歴史が厳然とある。
私たちはその歴史から何を学んで今日生かしていると言えるか。
この観点で現在「日本戦史から見て戦争回避は可能か」について調べあげている。
政治・軍事過程・権力構造の変化・社会経済的変動・思想・文化・世相の動向 ・・・
それに、
私たちの先祖たちは、太古から祖父母まで、 自然災害(落雷、火山噴火、噴石、火砕流、溶岩流・火砕流、火山泥流、
火山ガス、台風、竜巻、暴風、突風、豪雨・集中豪雨・大雨、豪雪、雪崩、降積雪など家屋の損壊、河川洪水、川の氾濫、土石流、
地震、津波、液状化、降灰、高潮、山体崩壊、山崩れ、地すべり・土砂崩れ・斜面崩壊、土石流や岩屑なだれなど土砂災害、
猛暑、熱波、干ばつなど自然災害、山火事、地震火災)
および大火、火災、猛獣や害虫被害、伝染病・感染病、疾疫などの流行、大病・大怪我、飢饉・餓死、暴動、大事件、犯罪、暴力と不慮の事故そして自殺の実態などに見舞われ、
想像を絶する数の「戦い」・「合戦」
に私たちの先祖は怯えながら、キッパリと逃れて来た。天変地異の間隙を縫って先祖は生き延びた。
そのなかには具体的に被害に遭った人もあったろうが、
30代前は室町時代の頃か ・・・ 。
その頃から父母を含めての直接の先祖の数の、10億7,374万1,824人が
間違いなく青壮年期に元気で生きていて、関わって、
言わば上記の災害と幾多の「戦い」・「合戦」・「乱」・「変」・「役」の間隙を縫って命をつないで来た。
そして血は今も、DNAを変化させながら、脈々と流れ続けている。生かされている。
これらのことを絡めて、縄文から昭和までの日本史の数々を見て、知って、足を止めて戦争回避と平和を思索してみたい。
15万年前の紀元前15万年には、日本列島でも砥石を使う狩猟生活が営まれていたその頃から、西南戦争までの日本における内戦の記録を洗い出す作業に現在取り組んでいるが、
平安時代や江戸時代などに既に内乱が収まって、日本人は争いのない平和で豊かな暮らしが何十年も続いた時期が幾つも存在したようであるこのことからも、「政治的叡智を以って戦争を回避するヒント」が得られると良い。そう思って膨大な量のデータや情報を整理中である。
いずれ、他に類のないスタイルの『日本戦史』をまとめあげたいとの思いで進行中である。
一方、戦争の本質である闘争は、人間の持つ憎悪にある。この「睨み嫌う念」を抑える智慧を持たないから、問題解決の手段を闘争に求め、それがエスカレートして戦争を引き起こす。
この元の「憎悪」の根を絶たない限り闘争という名の暴力は無くならない。
相手国が一方的に武力攻撃したとき、相手方の無謀な意志は確実に強要するから、その目的と程度次第で迎撃しなければならない。
こうなれば否応なく戦争に巻き込まれ、人類が20世紀に学んだ筈の「戦争の無益さ」は無視され、二つの大戦以前と同様の経験を余儀なくされる。
今に生きる私たちは、戦争を回避するために何としても闘争を抑制しなければならない。そのためには憎悪の根を絶たなければならない。
では、そのために何が求められるか。
その問題解決の一つの答えは、「社会倫理の徹底」であると考えている。
人びとはこのテーマを、立ち止まって考え直してみないか、と言いたい。
いま、生き方が問われている。
あらゆる暴力を乗り越えて、共にすべてのいのちをまもるにはどうすればいいのか。
命の尊厳を尊び
人が「共生すべき自然のなかの人間としてどのように生きるべきか。
いのちの尊厳と人権実現を可能にし
日々の暮らしを幸せにしながら
共に支え合う社会づくりを目指さなければならない。
時代や環境の変化にたいし
責任持って現在を生きる者として
平和をこころから希求し
根本理念を基底に置いて適合する「力」を身に着け
深く考えて、
他の意見を聞いて
さまざまな価値観をしって、赦し合って、認め合って、共に歓び合って、共に創って
品性や徳性を高める ・・・
昔の子供たちは身分や貧富に関係なく寺子屋に通って、『小学』、『三字経』のほか、『十三経』を習い読んだ。
十三経は中国の典籍十三種で、 『周易』・『尚書』・『毛詩』・『周礼』・『儀礼』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』・『四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(詩経・易経・書経・春秋・礼記』・『文選』・『唐詩選』・『孝経』・『爾雅』 を言い、儒学の基本的な経典であるが、しるかぎり戦後教育はこれらを捨てた。寺小屋で学んだように、これらに替わることを10歳くらいまでに身につけることについても考えてみたいものである。
「共生」の生き方を基本として、常に先ずは相手の幸せを考え抜くことではないのか。
「法の支配」の固執で、憎悪の根を絶つことができるのだろうか。
決して禍根を残してはならない。
悪しき闘争を根絶するには、
「法の支配」よりも「社会倫理」を先行させないといけないのではないか。
「紛争や戦争は、政治の解決手段の一つで、政治の目的でない」ことはカール・フォン・クラウゼヴィッツに学ぶことができる。そして彼の著『戦争論』で、「手段が目的化しての戦争目的は自己(主に為政者)意志を敵に強要することであり、「解決にあたってなによりも政治的な叡智が必要である」。「戦争ですべてが解決するものではない」 云々と語っている。
ここで云う「意志を敵に強要する」の「意志」構成要因の基底に、人間の醜い本能の一つの、「動物以上に異常なほど始末が悪い感情の「憎悪」が存在し、哲学者梅原猛は「 ・・・ (文明の衝突を)避けるには、彼ら(主に為政者)が正義という思想の元にある自己の欲望を絶対化する思想を反省して、憎悪の根を断たねばならない」と説く。
この「憎悪」がエスカレートして、喧嘩や暴力的闘争や紛争・戦争を引き起こし、打ちのめすという本能的・動物的な感情の一つが起因となる。
これにたいし「寛容であれ」と私たちは教わるが、この「寛容」も、単に「諦(あきら)め」ではない難易度の高い課題である。
動物には与えられなかった人間ならではの知恵と政治的叡智 ・・・ 知る事によって得る知恵、経験・体験によって得る智慧叡智。意識的に行動して様々な「気づき」を得て、考えて、考え抜いて「ヒトの幸福ため」を考えれば、戦争など引き起こさない。
戦争ですべてが解決するものではなく、政治の目的は達成せず、目的化した戦争という最後的且つ実行してはならない一つの手段しか思いつかない、政治的な叡智のない為政者が、動物以上に異常なほど始末が悪い感情の「憎悪」が剥き出しになってやってしまうのが紛争や戦争というものではないのか。
難題な「寛容」という課題に似て、曹洞禅開祖道元が著した『正法眼藏』巻四十五 「菩提薩捶四摂法」に「愛語」がある。
この、唐木順三譯『良寛』筑摩書房発行の「五 良寛の戒語と愛語」の抜粋を付す。
愛語とは 菩薩が衆生を見るとき、まづ慈愛の心を發して、その時、その人に應じた顧愛の言語を施すことである。おほよそ暴言、惡口を口にしない。世俗の中にも、長上の者に對して、その日その日の安否を伺ふといふやうな禮儀がある。また佛道に珍重といって相手の健康を願ふ挨拶の言葉がある。また長上のごきげんを伺ふといふ年少者の禮儀がある。
法華経の中の言葉、『衆生を慈念(いつくしみおもふ)することなほ赤子の如し』といふ思ひを心の中にもって、相手に物を言ふのが、ここにいふ愛語といふことである。
德のある人に向っては その徳をたたへる言葉を用ひ、德のない人に對しては、あはれみの言葉をかける。
愛語を好んで使ってゐるうちに、次第に愛語は増し育ってゆく。
さうすることをしてゐる間に 常日頃思ってもみなかったいつくしみの言葉が思はず口をついて出てくるといふことになる。
命のある限りは このんで愛語をつづけなさい。世々をつらぬいて決して退轉することなく、愛語をつづけよう。
怨む敵に頭を下げさせ、また有徳の人々の間をやはらげむつまじくするためにはまづ愛語の心が根本である。
顔を合わせて愛語を聞くときには 自然によろこびの心が顏に出てきて、樂しくなる。間接に愛語を聞くときには、肝に銘じ、なかなかに忘れられない。
よいか、愛語は愛心から起こる。愛心は佛の慈心を種子としてゐる。愛語には天を逆に廻すほどの力があることを学ぶべきである。
愛語はただ相手の優れた能力を賞めることだけではない。
天子を諌めて正道に戻すやうなさういふ愛語の用ゐ方もあるのである。
このテーマについてもこれから追求していきたい。
いずれにしても、
現在発生している問題のすべては、現代に生きる者が解決しておかなければならない。
いま生きている人々の義務として、
人間の本質と、限界特性の克服と、その好転と調和をもって共生する社会を目指すために今の人々は生きている
と考えないか。
日本国憲法 第9条は、今後どう扱われるのか。
(■ 戦争について考えてみる)