私の写真作法
■ 日常の事象からの一発スパイラル創作の愉しみ
わたしが撮影した写真の一部を、
このサイトに集めてみました。
わたしの写真のコンセプトは、
ひとことで言えば
「日常の事象からの
一発スパイラル創作の愉しみ」
といったところでしょうか。
少し補足しますと、
わたし自身、
絵画のように作為的に創作する芸術作品ぽい写真
を撮る
つもりはありませんし、
特別なコトやモノを
モチーフにはして居りません。
写真の魅力は、
何よりも記録性の迫真力にあると思っています。
わたしの撮る写真は、
日常の時の流れにあって、
ほとんどが見慣れた、
つい見落としてしまいそうな
身近にありふれた、
さりげない事象を題材にしています。
テーマ性のあるものも、
ないものもありますが、
基本的には、
平凡な生活や仕事の身の回りの中の、
「いいね」と感じたもの、
「美しい」とか「綺麗」、「可愛い」、
「面白い」とか
「印象的だ」などと感じた「事実・実態」
をモチーフにして、
それを素直に感じたまま、
ありのままをストレートに、
そして触発された瞬時に、
そのものの持つ本質とも思えるものを
スパイラル状にえぐり出して、
一発でもぎ取ることをモットーに
シャッターを切っています。
したがって
トリミングなど加工も想定せず、
数十分の1秒の一コマでレイアウト
を完結させる
手法です。二度撮りすることは稀です。
モータードライブでバチバチなどは
全くありません。
最近のカメラの連続撮影は、
私の好みではありません。
そして、撮影後は、
時間を掛けて読み取ってみたり、
感じ取ってみたりして、
自分自身で楽しんで来ました。
もちろん私は素人です。
特別
写真について専門的な勉強や技術を
磨いたことはありません。
しかし、
若い時から影山光洋、名取洋之助、
ユージンスミス、
そして
アンリ・カルチェ・ブレッソンや
ロベール・ドアノーの写真が好きで、
おそらく知らずしらずのうちに、
彼らの作品からほんの少しは影響を受けた
ような気もしています。
いつなんどき被写体と出くわし、
瞬時にテーマを発見するか知れない
ものですから、
トイレに行くときもカメラを持参し、
いつでもシャッターが切れる準備をして
カメラを抱いて寝たりの日々
であったくらい熱中したものでした。
かつて
京都苔寺の枯山水を背景にして
女優の浜美枝さんを
撮影した土門拳の作業現場で、
プロカメラマンの仕事振りを目の当たりにし、
眼に焼き付けた経験は忘れられません。
その日は曇天が続きましたので、
長い間撮影者たちは
雲間から光が差し込んでくるのを待って
いました。
ところが浜さんは、
微動だもせずに立ち続けていました。
かなりの時間が経過していましたが、
表情一つ崩していませんでした。
もちろん撮影者たちとの会話も無くです。
土門拳は、
弟子に命じて
下から長いホースを持って来させて、
苔に水道水を散水させ、
陽が差した適当なところで
「苔が生きてきた」
と一言洩らし、
撮影を開始していました。
照明の竿を弟子が二方向から伸ばし、
一人がピント合わせし、
最後に土門がカメラの布を被り、
レリーズを押す作業を
何度か繰り返して撮影が終了しました。
後日、浜さんは
このときのことをご自分の著書エッセイ集に
書き残していたのを読んで、
懐かしく思ったものです。
また、お名前は忘れましたが、
お弟子さん(土門拳記念館館長?)も
このときのことを
blogだったか何かに
克明に書いておられました。
その空間に、
たまたま観光客として立ち寄った私が居ましたが、
どこにも私の話題がありませんでしたので、
おそらく
お行儀よく立っていたからだと思います。
日本を代表するその著名な土門拳が
ヒロシマをテーマに撮影中、
プライベートでわざわざ訪ねたのが
広島の写真家佐々木雄一郎氏でした。
彼の、
地域に根差して幾十年も
ヒロシマの復興を題材にして撮りつづけた
記録写真の迫真性に共感したからでした。
佐々木さんは、
戦前軍の情報局でカメラマンをしていて、
終戦直後、
ブロニーフィルムを退職金替わりに貰って
故郷の広島に帰って来て、
行方不明になった肉親を捜しながら、
原爆の惨状を記録に残した人
と、
ご本人から聞きました。
神社の鳥居や門や塀などが、
360°どこから見ても
爆心地の方に向かって倒れている
のに気付いたことは、
爆風などを研究している方に、
大いに参考になったとも、
佐々木氏は話してくれました。
ブロニーサイズのフィルムを
ライカ判に寝床の暗い中で切って使用したそうです。
そうして、
自費でヒロシマを8万枚以上撮影して回った人です。
デジタルでなかった頃のことですから、
大変な出費でしたが、
家族の協力を得て、使命が達した生き方でした。
このように、
地元に根を下ろして記録撮影を続けている人に、
土門拳は敬意をもって訪ねたところに、
土門の大きさを感じます。
きっと二人の会話は弾んだことでしょうが、
「うらやましい」
と土門さんは言ってくれたとだけ
佐々木さんは私に話してくれました。
また、その佐々木氏のところへは、
ノーベル文学賞受賞の大江健三郎氏も訪ね、
その後朝日新聞社刊の佐々木氏の写真集には、
大江氏の小論文が添えられました。
自宅は、元宇品で、
別天地と呼ばれる風光明媚なところで、
狭い小道を登ったところに
ポツリと小さな小屋のような家屋に
ご家族三人で住んで居られました。
玄関というほどのものではありませんが、
ともかく入りますと、
半坪くらいの土間に折り畳みの椅子があって、
いつもここに腰掛け、
小上がりに佐々木さんと向かい合って
長時間お話させていただきましたが、
何といっても圧巻は、
その土間の周りの壁面は、
佐々木さんが撮影したヒロシマの写真の
半切や四つ切のプリントが
重なるように
周囲一杯に貼り付けていたことでした。
この椅子に座って、
これら写真を土門拳氏も大江健三郎氏も
首を回らして見たことでしょう。
その佐々木さんに、
かつて毎週お会いし、
写真のこと、広島県人の特性について、
そして
人世について、日本人について、
戦後のヒロシマの出来事など
人生の大先輩から多くのことを
お教えていただきました。
「いつまでも忘れられない日々を
重ねている被爆者の多い」
ことや、
「ヒトは、忘れてはならないことに対して、
いとも簡単に忘れてしまう」とか、
「忘れられない思い出を持っているにも関わらず
忘れようとする人が多い」とか、
「写真は
いつまでも忘れさせない良さがある反面、
辛さを抱える人にとっては
解放されない問題がある」
辛さを抱える人にとっては
など、
「忘れる」というキーワード一つとっても、
様々な見地で語って居られました。
時に同行して記録写真を学んだことも
良い思い出になっています。
何度か佐々木氏に同伴して、
ヒロシマの記録写真を撮影しました。
あるときおねだりして、
佐々木さんの写真を一枚パネルにして
頂戴しました。
多くの秀作のなかで一番気に入った写真を
です。
その写真は、
原爆ドームの壁に
米兵が刻んだNo more Hiroshimas」
の文字を背景にして、
向こう50年間、草木は生えないだろうと
言われていたヒロシマの地に、
しかも
原爆ドームの敷地内に、
けなげに咲いた一輪の野花が
かすかに揺れている写真です。
撮影者の佐々木さんが
引き延ばしてパネルに貼り付けてくれた
現物ですから、今も大切にしています。
それは現在も私の宝物になっています。
佐々木氏との出会いから、
私も単独でヒロシマをモチーフにして、
あちらこちらと撮影して歩きました。
このようなことがありました。
ある年の 8月 6日早朝 5時から
平和公園内のあちこちで
撮影していたときのこでした。
原爆慰霊塔の前で合掌する母娘を目撃し、
テーマの発見だと直感し
息を止めて近寄り、
決定的瞬間にシャッターを切ろうとした
その瞬間、
おかしい、普通でない
ことを覚り
カメラから目を外して周囲を見渡したところ、
離れたところから
民放の16ミリ撮影の現場であった
ことに気づき、
撮影を止めました。
後で判ったことですが、
やはり母娘は俳優で、演技だった
のです。
この時、
嘘の写真を撮らなくて本当に良かった
と思ったものでした。
墓地に出かけ、
墓標を撮影して回ったことがあります。
そこに刻まれた死者の没した年月日は、
多くが被爆一週間から二週間くらいで、
大抵の方は一年以内で他界されたようです。
どのお墓にも
原爆死と刻まれていましたが、
永い間、
原爆死は伏せていたため、
刻んであるのは最近のことだとも、
聞かせてくださいました。
このようなこともありました。
ある旧盆の頃、
平和大通り内の
広島高等女学校の慰霊碑の傍らに立てていた
竹筒の先端に和紙で囲んだ
広島独特の盆灯籠に、
「豊子ちゃん」
と手書きで書かれていたのを
佐々木氏が発見して、
涙を滲ませながら
ファインダーに目を当てていた姿も
思い出されます。
身内の方が書かれたのか、
学生時代の友人であったのか、
それは判りません。
しかし、
この夏ここにやって来て、灯籠を立て、
供養しているその人の、
万感が、「豊子ちゃん」の一言に
込められている ... 。
それを見た二人は絶句しました。
ですから
若い時から一貫して、
嘘の写真は一枚も撮って居りません。
つまり
演出や演技は一切しない姿勢を貫いて
今日に至って居ます。
この話を友人にしたところ、
島根県仁多郡横田町の
中学校の教師をなさっていた
酒井董美先生が感激してくれて、
毎年、何かの授業に
この時の私のことを生徒に聞かせていると、
いつも頂く年賀状で連絡いただいたくらい、
響きのあったことだったようです。
写真の魅力の一つは、
人に感動を与える芸術性にある
のだろうと思います。
しかし、
時を刻むという意味において、
やはり
記録性の持つ迫真力という根源的な強みは、
3.11の大地震で改めて証明されました。
すべてを失くした中から
拾い出された写しそこないの
家族写真を目にしたとき、
遺された人々にとって、
これほどかけがえのない財産はない
と思ったに違いありません。
影山光洋氏の家族写真は私の原点です。
そしてこの前、
幕末前の江戸の屋敷や、
人々の暮らしそして肖像写真を
写真美術館で拝見しましたが、
いつも見る写真展とは違ったパワーを
一枚一枚が与えてくれました。
立ち止まって、
一枚一枚に食い入るように見て、
脳裏に焼き付けていた自分に
思わず気づいて、
やはり写真はこうか、と思ったものでした。
3.11でもう一つ言えば、
「報道写真」の伝達力です。
国の災害対策特別本部は、
各社報道機関から送信されるありのままの姿を
時間軸で描く映像や写真を見ながら、
即座に策を講じて行くこと
が如何に大切かを
教えてくれました。
何気なく見過ごしてしまう
日常の移り行く事象や人々や
風景の中に、
独りよがりかもしれませんが、
ある感動をえぐりだしてくれる
瞬刻の
パワーを
カメラは写真に写しだすことを
担ってくれます。
ピンボケであろうと、
露出が合っていようとなかろうと、
デザイン性に欠けていようが、
被写体に向き合ってシャッターを切る
瞬間、瞬間 ...、
何もかもを忘れさせてくれる
メモ取りの道具として、
やはり
いつもカメラは手放せずに居ます。