おれがの、良寛さ。
良寛さの軽やかな生き方と美の根源の読み方
おれがの、良寛さ構成
▶ 1. 良寛さの読み方の文献選択
▶ 2. なぜ良寛さは解かりにくいか
2 - 1) ■ 良寛さんは謎の人 ・ 解かりにくい人
2 - 2) ■ 良寛さの複雑で掴みにくく、だが面白く、希少な人物 ・・・ の理由
▶ 3. 生家橘屋山本家
▶ 4. 橘屋を取り巻く環境
▶ 5. 良寛さの父について
5 - 1) ■ 出自の謎
5 - 2) ■ 出生の真偽/ 宝暦8年か 4年かの貞心尼の計らい
▶ 6. 栄蔵は漢学で何を学んだか
▶ 7. 良寛さは寡黙であったし、日記もないから、謎が極めて多い
▶ 8. 出奔は衝動的だったか、それとも必然の計画的であったか
8 - 1) ■ 出奔から禅僧良寛が誕生するに至る縁起の関係性
8 - 2) ■ 光照寺に逃げ込めば身は隠せない
8 - 3) ■ 名主の適性能力がない者が名主になって上手くいくはずがない
▶ 9. なぜ僧侶を選択したか。なぜ禅か。なぜ曹洞宗か。なぜ大忍国仙大和尚だったか
9 - 1) ■ 自分探し
9 - 2) ■ 大而宗龍(だいじ:他に「だいに」そうりゅう)禅師は出払うことが極めて多いので文孝が相見できる機会は限られていた
9 - 3) ■ 良寛さは貞心尼に「お会いしたい、師としておすがりしたい」と強く願ったことを蔵雲和尚へ送
った書簡で裏付ける配慮をした
9 - 4) ■ 良寛さが「おすがりしたい」と強く願った大而宗龍禅師は偉大な野僧
9 - 5) ■ 山に籠らず、結論は市井の民衆にあったことを円通寺で学んだ
▶ 10. 僧侶となったのは「たまたま」であった
10 - 1) ■ 禅に参じて僧となるが、そのきっかけはたまたまだった
▶ 11. 備中(岡山)玉島の円通寺縁起
11 - 1) ■ 良寛さがもたらした有形・無形の財産は、円通寺の修行からだった
▶ 12. 法系略図
▶ 13. 苦行13年間後、良寛さが師国仙大和尚から悟りを開いたことを証明されるまで、何を学んだのかに触 れた書物をしらない
● 東司(トイレ)利用のしかた
▶ 14. 玉島円通寺を離れて以降良寛さは僧侶でなくなっている
14 - 1) ■ 了寛と良寛の使い分け
▶ 15. 以南の辞世と良寛さがそれに返した句と歌対比にみる帰郷
▶ 16. 40歳代の10年間を如何に生きるか、に影響したと思われること
▶ 17. 良寛さの生き方と良寛美に至る20の出発
17 - 1) ■「良寛らしさ」の軌跡は10フェーズで見分けがつく
▶ 18. 「テーマ良寛」の答え
18 - 1)■ 良寛さはどのようなお人であったかを知る手掛かりに、以下の切り口で俯瞰
18 - 2)■ 帰郷前からの知己・帰郷後の知己と人付き合いの陰と陽
▶ 19. 良寛さの作品の「美」の要素を成す「ご縁」
▶ 1. 良寛さの読み方の文献選択
良寛さの読み方には、様々な角度があると思うが、わたくしの場合、
「良寛さの原点とも言える出家前後の史実や実態」
「良寛さがどのような人物であったか」
「良寛さにとっての自分探し、僧侶としての求道の修行、人としての生き方、ならではの生き方、次世代の青年たちへのその実績のつなぎ方」、「良寛さが発する良寛美との関係性」 ・・・
これらテーマにたいし関心を寄せている。
これらテーマにたいし描いた仮説を確かめるには、
偶像・虚像の良寛さではなく実像を捉えなければ読み取れないという意味において
ひたすら事実に近い情報を得るために、
相馬御風、飯田利行、星野清蔵、東郷豊治、紀野一義、吉野秀雄、石田吉貞、唐木順三、川口霽亭、入矢義高、加藤僖一、竹村牧男、長谷川洋三、宮 栄二、栗田勇、大島花束、田中圭一、佐藤耐雪、玉木礼吉、河野 亮、村上三島、秋月龍珉、川内芳夫、渡辺秀英、伊藤宏見、中野東禅ら各氏の著書を最優先して読み解きながら、
先ずは
『良寛さがどこに住んでいたかなどの年譜』および『年齢比較表』を作成して、
それから
特に相馬御風、東郷豊治、宮栄二、佐藤耐雪、玉木礼吉、渡辺秀英各氏の著書を最優先して読み解きながら、上記各氏の著作による情報に、鈴木大拙をはじめとする仏教研究者の説を加え入れながら進めていく計画でいる。
それは、極力虚像や曲解を排し、考えられる事実とひたすら実像を追い求め、少なくとも、読み違えがないようにとの配慮は言うまでもなく、作業を進める側からすれば、労力や時間にムダやロスを生まないようにとの計らいからである。
このように心がけて行くつもりであるから、
このホームページに記載した内容は、気づいた時点で変更していく。
それにしても途方もない遠大でとてつもなく高すぎるテーマであるから、おそらく終わりを見ないであろうが、ご当人の有形・無形の形見は、100年後も200年後もずっとずっともっとずっとと受け継がれるであろうし、おそらく永遠に生かされることは間違いないだろう。
もちろん人の人生にはそれぞれの道や様々な仕事があって、その思惑の一面には出世や金儲けや名声を得たりいろいろあるだろうが、利害得失や善悪是非の二元対立に終始する娑婆から離れた感性・知性・徳性を積んだ人としての良寛さの核心は外したくないし特にそれは、次世代の青年や大人たちに伝えつなぎたいものだ、と思っている。
思っているが、わたくしがしゃしゃり出る幕ではないことは百も承知で、わたくしはわたくしの中で確認していく問題ではあるが、同じテーマに関心を示す他者に少しでも参考になればと思ってblog形式で本稿を加筆・修正していくつもりでいる。
途方もない遠大でとてつもなく高すぎるテーマは、きっと、どなたかが成してくれるだろう。
教育面においても歴史学においても素人のわたくしが、良寛さに関するテーマを追求する上で基本的に留意しなければならないことは、鵜吞みや思い込みや情報元の恣意的な作為に騙されたりしないことだと、作業を進めてみてつくづくそう感じる。
良寛さはおそらく意図的に作品に年月日を記載しなかった。
記録に残すこともしなかった。
わからないことや謎が多いから、虚実の見極めは慎重でいたい。
▶ 2. なぜ良寛さは解かりにくいか
良寛さは寡黙な人である。
日記や随筆のようなものは書かなかった。記録としての史料も極めて少ない。それでいて良寛さが閉口したり困惑するなど生前から道徳用の『良寛伝』が複数発行されたこともあって、複雑な人物像となった。
一口に言って、とても謎の多い人物である。
それにもまして、若いころ13年間玉島円通寺で禅僧として修行したのちおよそ5年間の18年間ほとんどのことが不明のままである。
28歳のころ大而宗龍プロジェクトに参加したことは史実として記録が残っている。円通寺を去って、諸方行脚・遍歴・漂泊中、なぜか四国の土佐に行ったようであることは、なぜ土佐かについては一応憶測できることは改めて書いて見るが、近藤万丈が記した『寝ざめの友』「土佐にて良寛に逢ふ記」(1791年~1795年までの頃)で、「越州の産の了寛に出会った」ことが書かれている。万丈が円通寺の入口にある玉島仲買町の出身であるから、会話の中で円通寺や玉島の話題が出たかもしれない。だからと言って、それもその時から51年後の出版であるから、どこまで信憑(しんぴょう)性が高いかわからない。
ともかく本稿別項C-02-01< 良寛さは寡黙であったし、日記もないから、謎が極めて多い >で列挙したように謎だらけである。
解かりにくいという点では、漢学で何をどの程度修得したかにもよるだろうし、曹洞宗禅や仏法を極めたと思われるこの高くて深い領域に踏み込めていない一般人からすれば読めない。
そして妙好人のような一面が多々見られることもある。
これらの多くの謎をていねいに推敲してみると、大きく10通りに大別できる。この10通りの大別カテゴリーを俯瞰してはじめて良寛さの謎が、どのような性質のものかが薄っすらと見えてくる。この大別作業をやらなければ、単に謎が多いだけで深読みできない。出来なければ、本当の意味で良寛さの人物像も良寛美も味わうことは難しいのではないだろうか。そうでなければ、良寛さから書家でも歌人でも詩人でもないとまた言われそうである。
2 - 1) ■ 良寛さんは謎の人 ・ 解かりにくい人
日記など自身のことについて記録していない。だから謎が多い。
「良寛さは残したものに年号を一切記入せず月日を殊更大きくした謎」 「出生は宝暦4年か8年かの謎」 「二人の父親説の謎」 「字(あざな)「曲(まがり」の謎) 「儒教が良寛に及ぼした影響の謎」 「離婚の謎」 「娘が居た謎」 「出奔の謎」 「剃髪の謎」 「光照寺での空白の四年間の謎」 「以南失跡の謎」 「黄檗禅が良寛に及ぼした影響の謎」 「円通寺玄透即中の厭迫の有無の謎」 「道元の仏法僧の教えを放棄した謎」 「円通寺を捨て、法系を断って祖師道元の意志を裏切った謎」 「諸国遍参の謎」 「行脚中の自問自答の謎」 「道教が良寛に及ぼした影響の謎」 「良寛における『荘子』の影響の謎」 「諸方行脚・遍歴・漂泊を取りやめた謎」 「最後まで解決できなかった父子確執の謎」 「『天真仏』と天真仏のお告げの謎」 「父入水の謎」 「末弟香はなぜ父以南と同じ桂川で入水したかの謎」 「帰郷の謎」 「故郷還元への想いの謎」 「生家には立ち寄らなかった謎」 「弟妹のことを多く語らなかった謎」 「なぜ拠点を曹洞宗の寺にしなかったかの謎」 「野僧暮らしの困窮の実際とあるべき生き方模索の謎」 「奇行の数々の謎」 「維馨尼との恋の謎」 「玄透即中が成すきっかけをつくった『正法眼蔵』九十五巻刊行開版情報を語らなかった謎」 「総本山永平寺に行かなかった謎」 「加賀の大乗寺に行かなかった謎」 「良寛における『法華経』の影響の謎」 「禅僧ではなく仏教者・法師を終始捨てなかった謎」 「国上山を下りた謎」 「道元禅を超越するに至った謎」 「仏教創造者として至った謎」 「大而宗龍和尚についての記述がほとんどないことの謎」 「大悲と大智を良寛さはどのように具現化するのかの謎」 「道元の戒めを破って詩歌づくりや書を生き方と生活に取り入れた謎」 「なぜ禅僧であった者が「南無阿弥陀仏」なのかの謎」 「思想家とならずに野僧に甘んじた謎」 「良寛の作品にみるあまりにも高い美の謎」 「良寛と作品の美を創り出し得た心根と生き方の謎」 「良寛が僧侶でありながら布教せず、創作に踏み切り、2,000点もの作品作りに専念した謎」 「儒教・仏教・道元禅・黄檗禅・道教・荘子・法華経を踏まえての超日本的霊性顕現化の謎」 「良寛における宗教性と超宗教性の日本的霊性直覚と顕現化の謎」 「良寛さはなぜ俳句が少なく、もっぱら和歌中心であったかの謎」 「多くの人を心から感動させる力の謎」 「良寛の詩にみる良寛の隠れた真意の謎」 「東北行脚の謎」 「時代変遷の潮流を顕著に語らなかったかの謎」 「貞心尼と恋の謎」
この調子で列挙すれば枚挙の暇がないほど、膨れ上がってくる。
良寛像には幾つもの切り口があるが、基底を成すものの一つに、「了寛」と「良寛」を自らの立場の認識で使い分けている点である、と言える。
「了寛」と「良寛」の意識的な使い分けにおいても、『偶剃鬚髪作僧伽』(漢詩屏風)に「たまたま鬚髪を剃って僧伽となり」と本人が書いたようにこの「僧侶になった幾つかの関係性が重なってのことも、出自の謎に起因してのことのようである。
「出自の謎」と「出奔から禅僧良寛が誕生するに至る縁起の関係性」および「了寛と良寛の使い分け」に、触れなければ、次層の『出奔からの略譜』や『良寛年譜』の読み方が違ってくると思われる。
2 - 2) ■ 良寛さの複雑で掴みにくく、だが面白く、希少な人物 ・・・ の理由
良寛さの年譜から何かを読み取ろうと思えば、幾つかのことを頭に入れておいたほうが、誤認せずに済みそうである。
良寛さは寡黙であった。国学者で歌人の近藤万丈が著した〖寝ざめの友〗に書かれた36~37歳の良寛像、「 ・・・ いろ青く面やせたる僧の、ひとり炉を囲み居しが、 ・・・ 初めに物言ひしより後は、一言も言はず。坐禅するにもあらず、眠るにもあらず、口のうちに念仏唱ふるにもあらず。何やら物語りても、ただ微笑するばかりにて有りしにぞ ・・・ おのれ思ふに、『こは狂人ならめ』と。 ・・・ 」にあるように、他人との接触が極端に少ない一面がある。
書や詩歌および俳句などから読める多岐に亘る人としての高さ、あるいは「奇行など数百にものぼる逸話があるが、口伝などもあるからすべてに言えることではないだろうが、黄檗の影響を受けた禅僧が対象界を超越し、霊性的直覚に裏付けられた游戯・優游を妙好人のようにして表現したと思われる」ことや、子等や市井(しせい)の名もなき非力な人への優しさなどで接する等々々、良寛さは複雑で掴みにくて面白い希少人物である。
▶ 3. 生家橘屋山本家
出雲崎の町名主橘屋は、幕府や藩との関係において、どのような事業を運営していたのかについて、研究テーマに加えたい。そうでなければ、以南の仕事振りや長子文孝の出奔、そして以南の跡を継いだ二男由之の名主としての技量の発揮どころが見えて来ない。
その有り様は、京屋や敦賀屋の手腕と比較すれば歴然である。
700年の歴史を持っていた名主橘屋であったが、遡って豊臣秀吉歿の頃から橘屋に暗い影が差してくるのである。この原因は、政治の動向に関係した。隣町尼瀬の京屋は、港をかかえていて北前船で栄え、防波堤がつくられ、一万五千坪の広さに整備され、経済的にも圧した。越後海岸一帯の塩の生産販売も任されていた。勢いがある。それに比して、覆すような事業運営もなければ事業推進の体質改善も体力強化にも名主橘屋は目立ったことはなく、気位だけ高く、昨日までのしごとを明日も継続するやり方で推移し、京屋と敦賀屋を相手にして100年戦争を繰り返しながら衰退して来た。
▶ 4. 橘屋を取り巻く環境
どの『良寛伝』を見ても、生家名主橘屋の争いごとと衰退について書かれている。引き起こした事件を列挙すると次のようになる。
(1759(宝暦9)年 出雲崎の代官所の管轄替えがあった)
1761(宝暦11)年 敦賀屋から祭礼の件で訴えら敗北した。
1763(宝暦13)年 金紋高札を立てる場所問題で京屋と争いに負けた。(代官所が幕府直属となる)
1775(安永 4)年 敦賀屋長兵衛が、羽織袴の正装で代官所に挨拶に行った不始末を厳しく叱責したうえで代官所への出入りを禁止しと申し付けたが、結果は、代官所への出入りが認められ、却って代官所の説論を受けた「七夕事件」。
(1775(安永 4)年 以南、代官所に56日の「他出願い」提出し、突然の出奔に慌てて文孝(幼名栄蔵)を探す)(この事件後に文孝は光照寺に駆け込み出家した)。
1785(天明 5)年 良寛さが備中(岡山)玉島の円通寺で修行中に、代官所を尼瀬より出雲崎に復帰する訴訟にたいし橘屋は敗れた。
同年 尼瀬の明社社地所有権争いに関する訴訟も敗訴となる。
(その翌年1786(天明 6)年 以南は隠居して二男由之に家督を譲る)
(1788(天明 8)年 出雲崎の代官所、高田藩預かりとなる)
1800(寛政12)年 良寛さ帰郷後五合庵仮住まいしていたころ、由之、水原代官所復帰運動のため江戸へ出府。訴願に敗れる。1800(寛政12)年 町民より三百両取り立てる。
(1802(享和 2)年 甥馬之助(泰樹)名主見習いとなる)
1804(文化元)年 出雲崎の百姓が連盟して橘屋排斥を出訴。
7月 由之、公金横領と日ごろの専制振りを町民に訴えられる。(この頃良寛さは、郷党の人々から「大徳」とか「禅師(ぜじ)」と敬われていた)。
1805(文化 2)年6月 由之、町民に訴えられる。1805(文化 2)年3月 由之、島崎村へ欠落。出雲崎代官所、白川藩預かりとなる。
1810(文化7)年11月 弟由之(橘屋当主)、事によって家財歿す、所払いの処分を受け、島崎に隠棲し、やがて出家して与板へ退く。
良寛さの甥・馬之助(泰樹)名主見習い取放の申渡しを受け、出雲崎名主橘屋歿落。
(1811(文化8)年 弟由之(49歳)隠居し、剃髪)
(1815(文化12)年 出雲崎の管轄が替わって幕府勘定所直属となる)
(1823(文政 6)年 甥馬之助(由之の嫡男泰樹)井之鼻村の庄屋になる)
1761(宝暦11)年~1772(明和 9、安永元)年の11年間に以南は3件の事件を起こした。
二男由之は、1785(天明 5)年~1810(文化7)年までに6件の事件を起こし、甥・馬之助(泰樹)名主見習い取放の申渡しを受け、出雲崎名主橘屋歿落。
『良寛伝』によれば、1775(安永 4)年の、敦賀屋長兵衛七夕事件での父以南との確執に原因して出奔したとされ、その後二男由之の代でも問題が続き、遂に名主橘屋は消滅したと書かれている。
これら史実には幾ばくかの史料を裏付けにしながらも、他に詳細な記録が残っていないこともあって、その後僧侶となった良寛さの備中(岡山)玉島の円通寺での修行や帰郷後の良寛さの暮らしぶりや活躍に主力が置かれた話になっていて、この名主橘屋一連の事件についての深堀がないばかりか、出雲崎の名主がどのような仕事をしていたのか。
歴史は遡って700年続いてきたのであるが、どのように推移したのか。京家や敦賀屋との関係性や力関係はどうであったか。代官所の管轄が彼らにどのように影響したのか。以南や二男由之の性格などパーソナリティに起因しただけのことであったのか。
以南はどのような家に生まれてどのような少年期であったのか。
名主としての適性の素養はどうであったのか。
婿入りの条件は何だったのか。
名主としてどのような手腕を発揮すれば良かったのか。
出雲崎の名主は時代の変遷にどのように影響されてきたのか。決定的に欠落していたものは何であったか。衰退せずに発展させるには何をどうすればいいか。
彼らはそのために何をどのように取り組んだのか、と言った掘り下げの記述がほとんどない。
だが、このテーマと僧良寛さの誕生は密接に関係している。
良寛さにおける自分探しにおいても、生き方についても、修行に関しても、円通寺を離れて諸方行脚・遍歴・漂泊も、以南入水も、良寛さの帰郷も、帰京後も名主橘屋の事件は縁を持って居る点について、それらを絡めながら肉付けられるべきではないか。
合わせて、衰退せずに発展させるには何をどうすればいいかに関連するのであるが、組織はどのようにすれば衰退するか。
そもそも組織はシステム上衰退するのではないか。
では、組織を維持・発展させるために何を何からどのように行なうべきかというテーマにも触発される。
この問題は、寺院存立も同じ問題だと思っている。
▶ 5. 良寛さの父について
名主橘屋の名跡を継ぐため与板の割元庄屋新木家二男重内(のち俳号:以南)を娶めあせた。
一般にこの人が良寛さの父親となっている。
これにたいして新説が出て来て、新津の桂新次郎のち四代目を継いで誉章が実父であるという。後者のこの説は、田中圭一の『良寛その出家の実相』や『良寛の実像歴史家からのメッセーッジ』に詳しい。
そこで継父以南のことであるが、新木家二男として生まれたが、この新木家も俳諧に傾注していたこともあって、名主橘屋に婿入りしたとき以南以前の俳号を持っていたくらいである。
その彼が隠居して求めた道は俳諧で、現在も以南と言えば良寛さの父親で俳人として名を馳せたと、そのイメージが焼き付いている。
当初、近青北溟に師事した。師は芭蕉の高弟各かが務み支し考こうの弟子であり、全国に知られる俳人であった。その師は、支考は、一門を獅子門と称し、自分こそ蕉門の正統であると唱え、芭蕉を一世、自分を二世と称した人で俳聖と呼ばれていた。以南はこの系統にあってのめり込んで行った。
この頃、俳号を如翆(じょすい)と名乗っていた。名主橘屋に婿入りし、以南と替えた。
宗匠になる道を選んで人生の後半に賭けたときの師は、死亡した北溟から暁台とした。その門下になって以南は隠居後、登竜門である芭蕉の奥の細道での俳諧行脚で5年間東北を歩いた。
この東北の旅は、まさに俳諧の修行で、自信を付けたところで当時京で名を馳せていた師暁台の下に馳せて、あわよくば京の公家などと連句を愉しみ、以南ここに在りと名を売りたいとの願望を抱いて、俳人以南の集大成を図るのを目途に京に足を向けた。
結局これが以南にとっと最後の旅となった。だが、結局京で認められず、連句興行に参ずることなく独吟で終始し挫折。以南は、京・二条家に出入りを許されて、歌論を披瀝する機会はあったようだが、俳諧はなかなか評価されなかった。
そのうえ脚気に悩む齢60。故郷越後にも戻れず孤独の中で入水に至った。良寛さに会いたいと思いながら終えてしまった。
入水前に以南は京に居ることを伝えてくれと由之に頼み、由之から手紙を受け取っていたものの良寛さは無視して行脚・漂泊を続けた模様である。
辞世は、
「朝霧に一段ひくし合歓の花」、「夜の霜身のなる果やつたよりも」の二句と、
「ある時 天真仏の仰ニよりて 以南を桂川の流れニ捨つる」と前置きして、 「染色の山を印ニ立おけば我なき迹ハいつの昔ぞ」
であった。
よくし知られるところである。
小林一茶は『株番』に、
「今ハとゝ(十)せばかりに成らん 越後国俳諧法師以南といふものありけり 国々さまよひ歩きて 都にしバらく足をやすめける折から 脚気といふ病をなんやミける させるくるしミハ見へねど 「ふたゝびもとのやうニなりて 古郷に帰らん事おぼつかなき」などより添ふ者のさゝやきけるを ふと聞きつけツツ かくありて日をかさね月を経て 見ぐるしき姿を人々に指(ゆびささ)れんも心憂しとや思ひけん ある時 天真仏の仰ニよりて 以南を桂川の流れニ捨つる 染色の山を印ニ立おけば我なき迹ハいつの昔ぞと書て、そこの柳の枝ニありしとなん」
と掲載した。
この辞世の歌は、大島花束の『良寛全集』によれば、以南は入水に先だって知人に、「余の死後良寛と称する沙門が西国から訪ねてくるから」と言って一つの封筒を託したという。
四十九日法要には駈け付けた。受け取った封筒には、「朝霧に一段ひくし合歓の花」、「夜の霜身のなる果やかりよりも」がある。
なぜ一段低いのか。合歓は合歓と読み、辞書には「歓楽を共にすること。ことに男女が共寝(ともね)すること、の意。ここで云う合歓、または合歓の花はどう解釈するか。朝霧とは何を意味するか。霜は何か。なぜ「夜の」か。「果」と「かり」をどう捉えるべきか。
そしてなぜ桂川であったか。
良寛さはこれらを見て郷里に帰ることを実行し、そして終世持ち続けたという。
だが、この辞世を読み解いた記述をわたくしはしらない。しかもこれが良寛さの帰郷の決め手になったことを証明したのも未だしらない。更に「天真仏の仰ニよりて」も謎のままだ。
そして、一茶が『株番』に掲載したのは、入水してから17年後のことであった。
その記載内容は上記に示したように、簡潔な文章の中に説明が行き届いていて、修正のままならぬ記述である。当然一茶の書いた原稿ではない。
だが、書き出しの「今ハとゝ(十)せばかりに成らん」だけは一茶の筆に為ったものであると思う。
では本文は以南か。違うと思う。俳諧で身を立てることが出来ずに、生きる希望を失った者が書いたとは思えない。それでは誰か。単に代筆したような程度の人ではない。
以南死後、碌に相手にもしてくれなかった京・二条家の俳諧宋匠の朱印免許を持った大御所や名古屋の兄弟子井上士朗や多くの俳友故郷の前川丈雲ほか越後やその他地区の俳友による追善句会を開き、以南追善句集『天真仏』を上梓された。
そして、芭蕉・蕪村・一茶と言われるその小林一茶が、以南の死を世間に知らしめたのである。プロデューサーが居たと確信している。
以南はなぜ癇癪持ちのような振る舞いを平気でやったのだろうか。情勢分析を冷静に行なえば、京屋や敦賀屋と真っ向勝負しても勝てないことくらいなぜ判断できなかったのか。
しかも京屋と敦賀屋は姻戚関係にある。
敦賀屋の仕返しの翌年、京屋が乗り出した。企業規模で言えば、とても立ち行かない相手だ。連合軍になることも理解できたはずだ。それでも以南は高圧的に仕掛けた。敗北は目に見えていた。
以南は、父を4歳のとき亡くした。実母に後夫の暮らしになった。10歳で母も喪った。義父に育てられた。
そして20歳のとき、名主橘屋に婿入りしたが、その三ヶ月前一時保留にさせられた。
再婚相手のおのぶは、生き別れた前夫との間の子を孕んでいた。
5 - 1) ■ 出自の謎
(1749(寛延 2)年 ~ 1758(宝暦8)年)
1749(寛延 2)年 跡取り不在の20年目
20年前に佐渡ヶ島の親戚から栄蔵の母おのぶ(別名:秀子は「おのぶ」か)の伯母(父の姉)「おその」が嫁いだが、養子婿との婚姻で子に恵まれずじまいであった。幕府直轄地としての出雲崎本家名主兼神官山本家(屋号:橘屋)はこの間跡取りが居なくて、精彩の欠ける空白状態となっていた。
長子に恵まれなかったため、再び佐渡相川の橘屋から養女を貰い受けることが決まって、良寛さの母が16歳のとき山本家橘屋にやって来た。
記録によれば、「おその」がやって来た20年前に比し橘屋の衰退振りは、この間に30パーセント弱更に増していた状態であったという。このときすでに、本家・分家共に山本家橘屋は衰えていた。
つまり橘屋は、20年間跡取りが不在のなか、隣町尼瀬の京屋等にことごとく争いで負けて、衰退の一途を辿っていたが、基本、何一つ手が打てないまま、成り行き状態であった。
そこへ16歳の「おのぶ」に入婿(にゅうせい)したのが、越後新津生まれ17歳の「新次郎」であったが、悲劇は続いた。結婚 5年目に「新次郎」が実家に呼び戻され、結婚 2年目に生まれた良寛さの兄「ともたか(知孝か)」は、「おのぶ」と再婚した「新之助/ 俳号:以南」の2年目に夭折した。次男で生まれた栄蔵(良寛さ) が 3歳の時であったが、「おのぶ」と「新次郎」後の「おのぶ」と「新之助/ 俳号:以南」との「長子」と位置づけるため、栄蔵(良寛さ)の生年月日の辻褄合わせをした。1754(宝暦4)年であったが1758(宝暦8)年生まれが通説となった。
菩提寺の円明院の過去帳には良寛さんの誕生日の記載がないらしい。
1750(寛延 3)年 実父新次郎との結婚 1年目
おのぶ(16歳)が越後新津生まれの17歳の名跡新次郎と結婚の目合わせをするために 6月8日に相川を出立。 7月13日に帰る「 6月8日良寛の母おのぶ、佐渡相川の橘屋から養女となって、越後(新潟県)出雲崎の橘屋本家に入る」
記録によれば、母おのぶが橘屋山本家に養女として入る20年前の1730(享保15)年 8月21日に、伯母(父の姉)「おその」も出雲崎の本家へ嫁したが子供に恵まれず、実家の姪おのぶを嫁にした。随行した員数は総勢 17人にたいし、「おのぶ」のときは 5人。佐渡相川の分家もこの間、衰退していた。
それはともかく、「おその」が子宝を得て居れば、良寛さんはこの世に存在しなかったであろうから、大いなる幸いであったというと皮肉になるか。
20年振りに期待された。
おのぶ(16歳)が新津から来た名跡新次郎(17歳)こと新津の桂家四代目誉章(たかあき)と夫婦となった。20年振りに期待された良寛さの母。
1751(寛延4年、宝暦元年10月27日 - )年 実父新次郎(18歳)との結婚 2年目
良寛さの兄「ともたか(知孝か)」太郎子の誕生といわれる。
4月18日 良寛さの母、郷里佐渡へ一旦里帰り。
「出雲崎橘屋左衛門方より養女おのぶ(17歳)、佐渡相川大間町の橘屋庄兵衛方へ来る。是の者は兄庄兵衛方より左衛門方へ遣わし婚礼致し、この度里帰りに来たり候由」。
1752(宝暦 2)年 実父新次郎(19歳)との結婚 3年目 母おのぶ(18歳)
兄・知孝 2歳
1753(宝暦 3)年 実父新次郎(20歳)との結婚 4年目に離婚 母おのぶ(19歳)
兄・知孝 3歳
3月10日 おその歿。おそのさんは、太郎子知孝が6歳。夭折することも翌年の暮に栄蔵が誕生することもしらないままで終えた。
1754(宝暦 4)年 実父新次郎(21歳)との結婚 5年目 母おのぶ(20歳) 栄蔵誕生。
兄・知孝 4歳
新津の桂家は、新次郎の兄の桂家三代目誉春(たかはる)を喪い、出雲崎橘屋名跡(みょうせき)を継がせるため入壻(にゅうせい)していた栄蔵(良寛さ)の実父実弟新次郎を四代目として継ぐためであった。
入壻先の山本家橘屋は急速に衰退していた。それは承知のうえであったろう。
だが、三代目を喪い名跡を絶つとなれば如何に他家へ入壻したとは云え、天秤に掛けざるを得ないだろう。悩んだと思うが、請われて実家を絶やす訳に行かず、結婚 5年目のこの時点では、太郎子(長子)知孝は既に4歳となっていたことから、度重なる協議のうえ、引き戻しに応じたのではないだろうか。
そこで 2~3月の頃 栄蔵の実父と母の離婚が決まり、3月頃、新次郎は新津桂家に引き戻された。
しかしここで気になる事実がある。これが栄蔵(良寛さ)の出自問題にどのように関係するか今のところわからないが、「三代目誉春(たかはる)を喪ったから、新次郎は新津桂家に引き戻された」そうだが、三代目の誉春が没したのは安永3年11月17日。安永3年は西暦1774年のことで、元服した栄蔵が17歳の時に亡くなっている。そして、新次郎が新津組大庄屋に任命されたのは1764(明和元)年とのことだそうだから、宝暦 4年から数えて10年後になる。
その後「おのぶ」は、新たな婿養子を得た。与板の新木家二男の「新之助(のち俳号:以南)」である。
栄蔵(良寛さ)は以南が父とされて育つことになる。
次なる悲劇は、新次郎が新津桂家に引き戻され、「新之助(のち以南)」の婿入りの日程が決まり、
新之助を11月25日に出雲崎橘屋の名跡(みょうせき)を継がせるため婿入りさせたいと願いが出され、これが御役所から許可され、11月25日に新之助重内(以南)の婿入りが予定された。
ところが、新次郎が新津の桂家に戻ったあと11月25日に特定された 4~5月の頃か、おのぶの二人目の妊娠が発覚した。父の居ないその子が、のちの良寛さ(幼名:栄蔵のち文孝)である。
これを知らされて新之助重内(のち以南)は、御役所へ入壻延期の願いを出した。
以南の婿入りは山本家と桂家の調整のため願いで3ヶ月延期された。11月25日が翌年2月25日に変更。
慌てて「おのぶ」は佐渡に一旦里帰りし、秋、新之助と、「おのぶ(20歳)」の結婚が決まる。
そして、
12月に栄蔵(良寛さ)誕生。
このため栄蔵の生年月日は書き換えられた。
1755(宝暦 5)年 再婚 1年目 母おのぶ(21歳)
兄・知孝 5歳
栄蔵(良寛さ) 2歳
2月25日 新之助(のち俳号:以南)入壻(にゅうせい)し、おのぶ再婚。
宝暦 5年12月 栄蔵(良寛さ)長子として誕生の説もあるようであるが、どうやこれも誤りのようである。
菩提寺の円明院の過去帳には良寛さの誕生日の記載がないらしい。良寛さが改竄か。
1756(宝暦 6)年 再婚2年目 母おのぶ(22歳)
兄・知孝 6歳。夭折し知空童子(ちくうどうし)となる。
栄蔵(良寛さ) 3歳。
名主見習いの新之助(のち俳号:以南)、21歳
1757(宝暦7)年 再婚3年目 母おのぶ(23歳)
栄蔵(良寛さ) 4歳。この年の誕生の説もある。兄・知孝の夭折後栄蔵を太郎子つまり長子としたのではないか。
名主見習いの新之助(のち俳号:以南)、22歳
1758(宝暦8)年 [ 誕生~幼年期 ] (再婚4年目) 母おのぶ(24歳)
通説では、この年の12月に越後出雲崎の名主役橘屋こと山本家の長子として栄蔵(良寛さ)誕生。幼名栄蔵。のち文孝(ぶんこう)。字は曲(まがり)。
5 - 2) ■ 出生の真偽/ 宝暦8年か 4年かの貞心尼の計らい
貞心尼の『蓮(はちす)の露』原本に「二十二というとしかしらをろし」云々の二十二が十八歳と良寛さの説明で訂正されている。
良寛さ自身は、1754(宝暦 4)年 4~ 5月頃、実父新次郎が新津の桂家に戻ったあと、母のお腹に自分が宿っていて、実際の生年はその年の12月に誕生したこのことを知っていたようである。だが自分の生年は貞心尼以外に語っていないし、書き残したものの大半には年月日を付記していないのはこのことに関係しているものと思われる。
その後まとめた『蓮の露』に貞心尼は、「良寛さんは二十二歳のときに出家した」と書きながら、同時に「十八歳」と書いた。
出家したのは22歳の時であったが、戸籍上以南を父とするために18歳のとき出家したことになった。
この後、今度は越後出身の謙巌蔵雲和尚(前橋竜海院二十九世)宛の手紙の中でもう一度今度は「十八歳」と書き、それを打ち消して「二十二歳」に書き直した。
貞心尼は、良寛さの生年の謎をこのような形で残しておきたかったのではないか。宝暦8年12月生まれが定説であるが、他の資料から、「宝暦 4年12月生まれ」で推測されている。
良寛さは過去帳に記載された内容はすべて記憶していて、後年一気に書き換えたことが記録されているが、この動機も自分の生年をその時後世のため書き換えて、宝暦4年を宝暦8年と書き換えたのであろう。
かくして文孝(ぶんこう)は名主の人生を捨てることになり、1779年に禅宗の僧侶として生きることになった。
依って、生涯橘屋に戻ることはなかった。
文孝は、生まれながれにして名主になって生涯を出雲崎で終えた身であった。その文孝が、である。
▶ 6. 栄蔵は漢学で何を学んだか
寺小屋光照寺から大森子陽の下で勉学に励んだことは間違いなさそうである。参考文献を見ると、そこには「十三経」などが記載されている。「ああ、そうだったのか」と見過ごすとそれまでのことである。
だが、明らかに幼少年期の勉学が良寛さの進路と歩み方に貢献した。
そこでその頃、栄蔵さんは何をどのように学んだかは、鵜呑みにできない。
つまり、気質や性格、あるいは感性の上に積み重ねる知識によるボキャブラリーによって18歳の文孝(幼名栄蔵)は、名跡を踏まずに家を飛び出し、出家したのである。
何を学んだからそうなったのだろう。
学ばなかったのは、出雲崎の名主としての江戸中・後期におけるマネジメントや生産性の向上、マーケティング、イノベーションそして戦略に関する知識であったようである。
▶ 7. 良寛さは寡黙であったし、日記もないから、謎が極めて多い
良寛さは、書いたものに年月日がほとんどない。文字の抜けたものも目立つ。年齢も違っている節がある。謎があまりにも多い。
例えば、
良寛は残したものに年号を一切記入せず月日を殊更大きくした謎
出生は宝暦4年か8年かの謎
二人の父親説の謎
字(あざな)曲(まがり)の謎
儒教が良寛に及ぼした影響の謎
維馨尼との恋の謎
離婚の謎
娘が居た謎
出奔の謎
剃髪の謎
光照寺での空白の四年間の謎
以南失跡の謎
黄檗禅が良寛に及ぼした影響の謎
円通寺玄透即中の厭迫の有無の謎
道元の仏法僧の教えを放棄した謎
円通寺を捨て、法系を断って祖師道元の意志を裏切った謎
諸国遍参の謎
行脚中の自問自答の謎
道教が良寛に及ぼした影響の謎
良寛における『荘子』の影響の謎
総本山永平寺に行かなかった謎
加賀の大乗寺に行かなかった謎
諸方行脚・遍歴・漂泊を取りやめた謎
最後まで解決できなかった父子確執の謎
『天真仏』と天真仏の仰せの謎
父入水の謎
以南がこの世から姿を消したとき、戒仙法師の返歌「ことならば晴れずもあらなむ秋霧のまぎれに見えぬ君と思はむ」にあえて触れなかった謎
末弟香はなぜ父以南と同じ桂川で入水したかの謎
帰郷の謎
故郷還元への想いの謎
生家には立ち寄らなかった謎
弟妹のことを多く語らなかった謎
なぜ拠点を曹洞宗の寺にしなかったかの謎
野僧暮らしの困窮の実際とあるべき生き方模索の謎
奇行の数々の謎
東北行脚の謎
玄透即中が成すきっかけをつくった『正法眼蔵』九十五巻刊行開版情報を語らなかった謎
良寛における『法華経』の影響の謎
禅僧ではなく仏教者・法師を終始捨てなかった謎
国上山を下りた謎道元禅を超越するに至った謎
仏教創造者として至った謎
大而宗龍和尚についての記述がほとんどないことの謎
大悲と大智を良寛さはどのように具現化するのかの謎
道元の戒めを破って詩歌づくりや書を生き方と生活に取り入れた謎
なぜ禅僧であった者が「南無阿弥陀仏」なのかの謎
思想家とならずに野僧に甘んじた謎
良寛さの作品にみるあまりにも高い美の謎
良寛さと作品の美を創り出し得た心根と生き方の謎
良寛さが僧侶でありながら布教せず、創作に踏み切り、2,000点もの作品作りに専念した謎
儒教・仏教・道元禅・黄檗禅・道教・荘子・法華経を踏まえての超日本的霊性顕現化の謎
良寛さにおける宗教性と超宗教性の日本的霊性直覚と顕現化の謎
良寛さはなぜ俳句が少なく、もっぱら和歌中心であったかの謎
多くの人を心から感動させる力の謎
良寛詩にみる良寛の隠れた真意の謎
貞心尼と恋の謎
時代変遷の潮流を顕著に語らなかったかの謎。
▶ 8. 出奔は衝動的だったか、それとも必然の計画的であったか
明らかにと言えそうであったが、文孝は以前から自分の将来は頭で描いていたが、そのことは、かなり神経質にシークレットにしていた。
この延長での18歳七夕事件後の出奔であった。もうこうするしかないと肚に決めた感がある。
つまり必然的に出奔したのであり、少なくとも衝動的ではなかった、と仮説したとき、その証明が成り立つのである。
8 - 1) ■ 出奔から禅僧良寛が誕生するに至る縁起の関係性
玉島円通寺を開山徳翁良高の法系で見れば、やや遠いが間違いなく大而宗龍禅師と、円通寺十世大忍国仙大和尚はつながっている。
後年、良寛さが13年間修業した結果の成果が認められ、印可の偈を授けてくれて首座に引き立ててくれた若き良寛さが
国仙の自画像に「日本一」と讃
を書き加えたと伝えられているように、良寛さにとっての師と言える人は、生涯このお二人しか居ない。他に良寛さより20歳年上の新潟の万能寺六世住職の東岫有願(とうしゅう・うがん)和尚にも極めて大きな影響を受ける意味では有願を三本指に加えられるだろうし、有願も玉島円通寺を開山徳翁良高法系の一人であるが、お人柄と良寛さとの相性の良さから、良寛さを良寛さらしく形成させた師というよりも道友の関係であったようである。
それはさて置き、
国仙は尼瀬の光照寺の第十二世玄乗破了の師で、破了の要請で巡錫した。光照寺の先代で隠居していた十一世蘭谷万秀(らんこくばんしゅう)は名主の山本家橘屋つまり文孝(ぶんこう)と姻戚関係にあった。
そして彼らが共通することは、黄檗の影響を受けて道元禅を修行して成した人たちであることだ。この彼らもしくはいずれかの人の方向づけと道案内で、やがて文孝は、岡山県玉島の円通寺で修行する禅僧の道に足を踏み入れることとなった。
大忍国仙大和尚は尼瀬の光照寺に巡錫し、5月からの 3ヶ月間国仙の三番目の弟子玄乗破了の晋山結制と授戒会を兼ねて門人の大心を従えて越後入りした。解制は 8月であったと言われている。
( 1) 光照寺は文孝が栄蔵と呼ばれて育っていた幼少期に寺小屋として世話になった寺であることは周知のとおりであるが、蘭谷万秀と山本家橘屋との関係
( 2) 橘屋と新津の桂家との関係
( 3) 桂家の「新次郎」が山本家橘屋へ婿入りした関係
( 4) この新次郎とおのぶとの間で栄蔵(文孝・良寛さ)が誕生した、という関係
( 5) 新次郎が山本家橘屋から離れ、実家の桂家の四代目を継いだ後の1755(宝暦5)年 2月18日に与板から橘屋に入壻(にゅうせい)した新木家二男の重内、娶せられて橘泰雄(20歳)・通称新之助(のち俳号を以南)と、栄蔵の母「おのぶ」(21歳)再婚した関係
( 6) その以南と義父の息子として育って衝突をくりかえした文孝との関係
( 7) 新次郎こと文孝の実父の兄の・桂家三代目誉春(たかはる)は、宝暦13年秋葉山に円通閣を造り、四代目誉章(たかあき)はそれを受継ぎ、在家信徒の身で大忍国仙の下で参禅し、更に玉島円通寺僧侶たちの北越における教化活動を支援していた。この岡山玉島・円通寺および円通寺十世大忍国仙大和尚と誉章の関係
( 8) 実父誉章の円通閣や教化活動支援および書庫(日本最古の図書館)「萬巻楼」の仏教あるいは曹洞禅の蔵書を、文孝は武者振るように読破し、次第に興味・関心が募り、野僧気取りしていたと推察できるこの関係
( 9) 継父としての以南と実父としての桂家の四代目誉章(たかあき)との関係
(10) 円通寺と円通寺十世大忍国仙大和尚との関係
(11) 大而宗龍禅師と国仙大和尚が玉島円通寺を開山徳翁良高の法系でつながっている関係
(12) 禅師を文孝および後の了観としてきっかけをつくった新次郎の母が栄蔵(文孝・良寛さ)の祖母で、その新次郎の実家から短時間で大而宗龍禅師に相見できた地の利の関係
(13) 文孝が大而宗龍禅師に熱心に相見するなどして禅に興味・関心を持った文孝の実父が、曹洞宗円通寺の教化活動を北越で盛んに行っていたこととの関係で、自らを律していたと思われる関係
(14) 1785 (天明 5)年禅師のプロジェクト24年目に、三か月間「夏安居」が新潟新発田・紫雲寺村の龍華山 観音院で行われとき良寛さが参加し、たっぷりと禅師の許で修行した了観との関係
(15) 弟子玄乗破了と師国仙との関係
(16) 光照寺に巡錫したその国仙と了観との関係 ・・・
これらの関係性が相互に打ち解けて縁起が生じ、了観が正式に得度して禅僧良寛が誕生したのではないかと推測している。
継父以南を交えての相談の結果、出家断念説得を受けていた蘭谷万秀も賛同し、出家することがその場で決まったのであろう。この背後に大而宗龍や実父桂誉章の計らいが働いていたとも思える。
文孝(ぶんこう)は玄乗破了の晋山結制後の授戒会で参禅して、初めて玉島円通寺十世国仙大和尚の気高く威厳がある姿に触れたとき、大而宗龍和尚とはまた違った受け止めを心に刻んだのではないだろうか。まさに因縁の瞬間であった。
8 - 2) ■ 光照寺に逃げ込めば身は隠せない
話を戻して、
名主は累代代官所(役所)に登録し管理され、嫡子は名主見習いを経て家督を継ぐ制度が江戸幕府で確立していた江戸後期、このお上の制度を破って家出して、身を隠し、義務付けられた名主の職務を勝手に放棄したのであるから、そのときの父以南の面目が立たず、非力さが露呈し、世間の笑いものになって、姻戚関係者たちに申し訳が立たずの狼狽振りは、尋常ではなかった筈である。
以南は家出の息子を何日間も探し回ったが、遂に見つけることができず、諦めたうえで代官所にその旨報告せざるを得なかったようである。
その後、得度するまでどこかで身を隠した。その足で隣町の光照寺に入ったとの定説があるが、光照寺の隠居した住職は、橘屋の姻戚関係にあったから、そこへ逃げ込んだとすれば、その日の内に逃げ込み先を以南は容易にしり得たことであろう。
8 - 3) ■ 名主の適性能力がない者が名主になって上手くいくはずがない
そもそも山本家橘屋は長い年月衰退の一途を辿っていた。名主としての務めににも陰りがあった。勢いづいていた西隣の尼瀬の京屋にことごとくやられて敗北し続けていた。
名主橘屋の主は、この京屋に立ち向かって闘い、抑え込んだうえで両立を保ち、優位に立ちながら信頼性を勝ち取り、山本家橘屋の再興を図って行かなければならないのであるが、先代も以南もその力がないことは明白で、ましてや文孝があるとは誰も思わない現実が露呈しているのにもかかわらず、以南は文孝(ぶんこう)を名主見習いにした。
しかも、以南は失策を重ねつつ、京屋の付け入る隙を与え、あろうことか文孝の友人との信頼関係を悪化することをしでかしてしまった。
▶ 9. なぜ僧侶を選択したか。なぜ禅か。なぜ曹洞宗か。なぜ大忍国仙大和尚だったか
自分探しのテーマ解決には禅が最もふさわしいと判断したのかも知れない。この意識下では、宗派関係なく仏法者とか、仏法創造者という認識には至っていなかったと思われる。
しかも文孝は、教育の実践者タイプでもなく、国文学のような、あるいは思想家のような学識を求めたのではなく、あくまでもそのとき求めたのは自分探しであった。だからと言って書家、歌人、詩人を目指した訳でもない。
栄蔵のとき曹洞宗光照寺の寺子屋で学んだ。良寛さの実父桂家四代目誉章が曹洞宗玉島円通寺に極めて深い造詣があった。大忍国仙大和尚とはそのご縁であったからではないかという推察が濃厚である。
次の項目で触れるが、良寛(当時の俗名は文孝)さは、「僧侶になったのはたまたまであった」とご本人が語っている。
では、曹洞宗の禅の選択もたまたまであったのであろうか。
そうとは言えない要因を列挙すれば10項目もあり、それは納得性が高いことから、
僧侶になるなら曹洞宗という選択肢がそれまでにあったと言えそうである。
ここで言うところの良寛さが描いていた曹洞宗の僧侶は、出世して和尚になって寺の住職として檀家による布施を頼りに生涯を通すイメージではなかったと思われる。
日本仏教では、1631年ころからこの傾向となり、1687年の幕法では、宗教統制政策から生まれた寺と檀家との関係の寺請制度(てらうけせいど)、あるいは寺檀制度(じだんせいど)の成立によって檀家は檀那寺にたいし、寺院伽羅新築・改築費用、講金・祠堂金・本山上納金など、様々な名目で経済的負担を背負わされた。
この制度で檀家は、檀那寺の檀家となってこれら責務を拒否することも別の寺院の檀家になることもできず、その責務を履行する以外の術はなかった。
他方、檀家のいない寺院は現世利益を旨として信徒を集めるようになり、
寺院は寺檀関係を持つ回向寺(えこうでら)と現世利益を旨とする祈祷寺(きとうでら)に分かれていくこととなるのであるが、
いずれにしても檀那寺は、檀家制度によって極めて安定的な収入源を得ることになったことが裏目に出て、
檀那寺は檀家制度によって極めて安定的な収入源を得ることになり、本来の仏教の教えは形骸化していった。
文孝がたまたま得度したのは、その幕法が成立してから148年後のこととなる。
この制度がたっぷりと染まっていたその下で文孝(得度しての法名:良寛)は僧侶になったのであるから、多くの僧侶がそうであったように、
寺を持ってそこの住職になって檀家と深く関わっていくことが当たり前のことのようになっていたのであるが、
たまたま得度するその以前から文孝は、そうはならないと描いていた節がある。
ここで多くは語らないが、
歌に西行法師、詩に寒山拾得の寒山に興味を抱く半面、禅僧になって達磨大師のような修行を経て本来の仏教の教えを会得しようと考えていたのではないかと思われる。
18歳だった文孝が、名主見習いを放棄し黙って出奔後放浪した挙句、光照寺で禅に参じたのち巡錫した大忍国仙によって得度したのは22歳の1779(安永 8)年であったが、
それ以前に、新潟新発田市紫雲寺村の観音院庵主大而宗龍(だいじそうりゅう)を訪ねているが、宗龍に問いを投げかけた話がある。
その真偽はいま定かではないが、それなりにあり得る内容であるから概要を紹介すると、
「良寛さは大而宗龍に問いかけた。誌公観音と達磨観音とどちらが本当の観音であるかと。宗龍は答えた。およそこの世に在る以上、世俗と交わる方便の観音を免れることはできないのではないかと。宗龍は寺持ちは否定しないが、寺に安泰していたのでは衆生は救えないとの考えがあった」というものである。
臨済宗や黄檗宗と違って公案は曹洞宗では重きを置いていないと思われることから、この話が一般に理解されている禅問答を若き良寛さが投げかけたと思いがちになるくらい出来過ぎた話である。
それはともあれ、ここで注目したいのは、達磨についてこの種の知識をこの頃持っていたということであり、関心事はその達磨の興した禅宗の根本にあったのではなかろうかとの推測は、あながち的外れではないと読み込んでいる。
良寛さは円通寺の13年間の修行において、僧としての名聞利達を求めるのに汲汲とした訳でもなく、蒼然とした教理に慢心する学僧としてでもなく、真剣に学道を究め、人として人生において、社会において「いかにあるか」「いかにあるべきか」を追求したのではないか。
が故に、もはや玄透即中和尚の円通寺では答えが見出せないと考え、西方行脚に足を踏み出したと思えるのだが、やはりその5年間にも見出すことができなかった。都合18年間の禅僧としての良寛さは、曹洞禅に集中する意識から確実に変容して行ったと言える。達磨大師のような修行の日々を送りつつ、道を究めたいと。
国仙和尚示寂後、玄透即中は円通寺で『円通応用清規』を編し、大忍国仙和尚の黄檗禅を否定し、覆したことも手伝って詮方なく、曹洞宗の戒律を捨て円通寺を離れ、西行法師に倣って西方行脚し、5年間「正法(しょうぼう、しょうほう)」を求めたに違いない。『正法眼蔵』の正法こそがそれだと思いながらも良寛さはその始祖道元の師長翁如浄禅師の、世俗の権力を徹底的に遠ざけ、世俗的な名誉を求めず真の坐禅修行を説く高潔な禅者を思い馳せ、更にその先の先の祖師達磨大師の「ダルマ」がサンスクリット語で「法」を表す言葉であって、 そしてその達磨大師を通じて、仏教の基礎となった釈尊の教えを知ろうと努めたのではなかろうか。
6世紀頃 北伝仏教はインドから中央アジアを経て中国、朝鮮、 そして日本に538年・仏教公伝となった。その後次々に宗派が成立して行った。
662年・法相宗を皮切りに、
740年・華厳宗
759年・律宗
806年・天台宗
806年・真言宗(古義)高野山真言宗など、
993年・天台宗(寺門派)
1124年・融通念仏宗
1140年・真言宗(新義)
1175年・浄土宗(鎮西派)・浄土宗(西山三派)
1191年・臨済宗妙心寺派など、1225年・真宗高田派 ... など八宗
1224年・浄土真宗(『教行信証』初稿本を著す。これを以って、浄土真宗立教開宗成る )
1227年・曹洞宗
1236年・真言律宗、1253年・日蓮宗(一致派)
1274年・時宗
1290年・日蓮宗(興門派)・日蓮正宗
1486年・天台宗(真盛派)
1585年 ・真言宗智山派・真言豊山派
1595年・日蓮宗(不受不施派)
1602年・浄土真宗本願寺派/ 真宗大谷派(真宗高田派など八宗)
1661年・黄檗宗 ...
と各宗各派がいかにも日本的に姿を変えながら発展したようであるが、
当初の釈尊の教えは影を潜めた。
だが若き良寛さは、その釈尊の教えを学びたかったと思われる。であったとすれば、当時日本にあってそれを知り得るのは道元の曹洞宗しかないと思ったのは、外れていないのではなかろうか 。
パーリ仏教(今日のスリランカ、ミャンマー、タイなどに普及した南方仏教(南伝仏教)は、
仏教の根本聖典としての経・律・論の三蔵をはじめ、その文献のすべてがインド語(梵語・パーリ語を含むすべてのインド・アーリア語の総称)の一種であるパーリ語で伝えられ、
阿含経などの根本聖典は、
紀元前三世紀のものが一部の残欠もなく、完全に伝えられている。
このように古く、かつ揃っている根本聖典は、他のインド語の仏典にも、漢訳やチベット訳にも全くない。(水野弘元著『釈尊の人間教育学 3㌻』
その仏教の基礎となった釈尊の教えが南伝仏教としてスリランカ、東南アジアを経て、
日本に伝えられたのは、明治に入ってのことであったから、
基本的には現在わたしたちが容易に知ることのできる原始仏教や部派仏教(小乗仏教 - 初期仏教)および龍樹までのそしてクシャン王朝のカニシカ王が援助した第四結集(けつじゅう)以前までの初期大乗仏教間にあっての「釈尊の教え」は、
良寛さは知り得ていないのである。
しかし、その釈尊の教えで説かれたことが良寛さの言動や作品に反映されているならば、北伝仏教から極めて些少な情報から会得したと思われる点において、改めて別項で、その「釈尊の教え」の教理を列挙してみたいと思っている。
「釈尊の教え」は、紀元前280年頃に口伝のそれを釈尊の弟子たちが集めて整理した第一結集(釈迦が入滅した年代は諸説あり一致していないが、キリストが誕生する280年前頃以前であったと思われる。ちなみに孔子は前551年生~前479年没)
第一結集の約100年後に第二結集、教団が大衆部と上座部に分裂、アショーカ王の治世、第三結集
紀元前100年ころ部派仏教の確立、初めてつくられたパーリ語の経典「ニカーヤ」、前漢に仏教が伝達、大乗化運動が起こり大乗経典の編纂始まる、仏像の制作開始、原始仏教にも説かれた「空」の思想は部派仏教の時代に覆られようとしていたがこれに徹底して対立し「すべては空である」と説き「空」の思想を根本とした大乗仏教を大成し大乗仏教で初めての学派「中観派」を立て後世に多大な影響を与えた龍樹の活躍、カニシカ王の援助による第四結集、鳩摩羅什の活躍
西暦370年サンスクリット語によって進められた仏典の整備(釈尊は梵語で教えを説いてはならずとされその土地の民衆語で説かれたが)
朝鮮半島に仏教伝わる(370~530年頃)、仏教研究大学ナーランダー建設
400~480年(異説あり) 唯識派三大論師の一人・世親(旧訳名:天親-てんじん)が小乗仏教から大乗仏教に転向し、唯識思想を確立。現実世界のことから宇宙の構造、輪廻、煩悩、悟りに至る段階、などについて説明されている『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』。部派仏教の中で最も優勢だった説一切有部(せついっさいうぶ)という部派の説を中心として、他の部派の説も加えて書かれた。たくさんある論書の中で、一番完成度が高い論書と言われているが、倶舎論を八年学んだ後に、唯識を三年学ばなければ理解不能とも言われている仏教を学ぶ者にとって、古来必修の科目。
中国禅宗の開祖菩提達磨大師は面壁九年の前後には、倶舎論や思想を会得してのちの中国渡来であったろう。
520年 菩提達磨は仏陀(ぶっだ)より28代の祖師で、正法を伝えるために中国の武帝に会って中国に禅を伝えた。西来の祖師達磨大師により伝えられた釈迦牟尼仏の正法は、慧可(えか)禅師に伝授され、後に如浄禅師を経て、道元禅師により我が国に伝えられた。
百済の聖明王から欽明天皇へ仏教の公伝(538年 - 532の説もある)。蘇我氏が氏寺を建てる
575年 天台大師智顗(ちぎ)禅師が天台教学を大成
593年 四天王寺建立、三宝興隆の詔発する、第一回遣隋使派遣
604年 聖徳太子十七条憲法制定
607年 聖徳太子が法隆寺建立
629年 玄奘三蔵インド最高学府ナーランダ寺院などに留学、第一回遣唐使派遣、中国とインドから仏教伝達
650年ころ インドで密教成立、浄土教確立
752年ころ 東大寺奈良の大仏開眼供養
唐から失明の鑑真和尚来日し律宗を伝える
761年仏教が国教となる
最澄と空海が入唐
源信が「往生要集」著 ...
などなどを経ながらも、日本に伝来した大乗仏教は、すべて宗祖(最澄・空海・法然・親鸞・道元・日蓮等々)の仏教とし、形を日本独特の仏教と化した。
最澄は中国で学んだ教えをそのままとせず、円・禅・密・戒を融合して新しい教え「法華経」の精神を統一した。
空海は、学んだ儒教より仏教の方が優れていると気づき、遣唐使として入唐し、帰国後、密教大日如来が直接説いた教えを継承して「大日経」や「金剛頂経」などの経典で体系化し、密教の教えを説いた。
法然は、中国の浄土教の「観経疏」を読んで開眼。「念仏を唱えれば、人は極楽往生が叶う」とする誰にでも実践できる専修念仏を提唱し、寺院数約8千、信者数は600万人以上を数えた。
親鸞は師・法然の教えをさらに推し進め、布教活動の中で念仏は自力だと考えて、弥陀の本願に全てを委ねる「絶対他力」を教えの中心に据えて、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えて、仏さまを心から信じ、よりどころとし、2万以上の寺院数と1000万人以上の信者を数えるに至った。
特にこの法然と親鸞は、日本的な余りに日本的な霊性の楚を確立した。
道元は、天台宗と臨済宗を学び、中国の南宋に渡り曹洞禅を学び、帰国後、永平寺で曹洞宗を興し、坐禅こそが仏の行いだとして、ただひたすら坐る禅を修行の根幹にし、師の栄西とは違って政治権力と結びつくのを嫌い、武士を中心に質実剛健の武家文化に広まる宗風を確立した。
日蓮は、比叡山をはじめ各寺院に学び、「法華経」をよりどころとして日蓮宗を興し、「南無妙法蓮華経」
(法華経)こそが仏教を説いた釈迦の唯一の教えであると確信し、題目を唱えれば理想の世界が訪れ、あらゆる人々が永遠に救われると、積極的な布教を行った。
文孝の生家は、空海の真言宗の寺が菩提寺であった。幼少時の栄蔵は、姻戚関係にあった光照寺の十一世蘭谷万秀の許で学んだが、光照寺が曹洞宗であった。
「 僧侶になる … これからはお釈迦様を慕って生きる …」、
「僧となって禅を学びしに非ず、禅に参じて後僧となる」と言い切って家を飛び出した文孝。
その前年、文孝が17歳の1774(安永3)年は、
杉田玄白/前野良沢らの「解体新書」が刊行された。
出奔した18歳の年は、危機的財政状況の米沢藩において藩主上杉鷹山が改革を本格的に開始し、
同年には、スウェーデンの博物学者&植物学者のツンベルグが来日。長崎と江戸で医学の指導をしながら、日常生活をはじめ身近な出来事と共に、日本の言語・暦・宗教・政治制度・地理・貨幣・交通・文化・産業・文学など幅広くに及び、特に動植物の観察と植物標本の収集に熱心に取り組み、精緻を極めるなど、日本研究に没頭した。
翌年、文孝19歳で家出中の1776(安永5)年には、
平賀源内(48歳)が菅原櫛(源内櫛)を売り出し、『天狗髑髏鑒定縁起(しゃれこうべめききえんぎ)』著し、11月には、エレキテル(摩擦静電気発生装置)に成功し、12月、『天狗髑髏鑒定縁起』執筆するなど大活躍していた。
同年上田秋成は『雨月物語』を出した。
文孝20歳の1777(安永6)年9月に大老田沼意次(59歳)は、一揆禁止令の高札を掲示。
1778(安永7)年文孝21歳にしてようやく、弟・二男の泰儀(やすのり)が、名主見習いとなって、文孝が投げ出した名主橘屋の見通しが一応ついた。これで本格的に自分の進路を明確に導き出すことができるようになった。
この頃の鎖国は1641年から1853年まで続いている最中であった。
その鎖国時代の最中の6月に、
ロシア船が、蝦夷厚岸に来て通商を要求した。米国ペリー提督が浦賀に来航して通商を要求した75年も前の出来事であった。
翌年、松前藩は拒否した。
1779(安永)8年光照寺で得度して禅僧になる前のこと、アムステルダム生まれのイサーク・ティチィングは、オランダ東インド会社の商館長として来日し、『日本における婚礼と葬式』、『歴代将軍譜』、田沼政権の動向や1783(天明3)年の浅間山の噴火など、同時代の記事を豊富に書いて、西欧列国の植民地政策に参考にされた。
こうして鎖国の東国へ押し寄せた西欧諸国の発達した文明に刺激され、やがて若者中心に尊王攘夷運動が活発化して、開国しなければ成り立たなくなることに気づきはじめて行くのであるが、そのような中、越後出雲崎の名主見習いだった文孝は、家を捨てたのち、僧侶となって生きて行く道を選んで、知識を広げて行った。
その道は、法相宗でも華厳宗でもなく、律宗でも天台宗でも融通念仏宗でもなく、浄土宗や浄土真宗でも一遍の時宗でも、日蓮宗でもなく、そして菩提寺の真言宗でもなく、栄西禅師の臨済宗でも隠元の黄檗宗でもなく、道元の曹洞宗であった。
文孝は、なぜ曹洞宗であったか。
おそらく実父桂誉章のつくった「萬巻楼」(日本最古の図書館)の仏教あるいは曹洞禅の蔵書をむしゃぶるように読破し、大智論の龍樹と、憧れの達磨大師から如浄へと来て道元へと継がれ、それは仏教公伝以降の中で「釈尊が説かれた正法」に最も近いものと思え、円通閣で坐禅を組んで、実父桂誉章の助言と、大而宗龍和尚を知り、次第に興味・関心が募り、野僧気取りして、宗龍庵に禅師に相見し禅問答を行い、更に戒律と修行の仕方の厳しさにあって只管打坐の形式が、他に比べ釈迦の真髄を掴みやすいと見たうえで、光照寺でも参禅し、曹洞宗の知識を広げて行ったのではないか。
この時、文孝には、教祖釈尊の人と思想は遥か彼方の雲霧のなかにつつまれている存在にすぎなかったであろう。書物や耳学問からでしか知識は得られていないだけに、慕って生きる対象として釈迦を認識し、心に刻んでいたようである。そして、釈尊の教えを追求するために座禅が自分に似合うと思っていたのかもしれない。
しかし、出家するまでの曹洞禅のおおよそのことは承知したうえで玉島・円通寺へ赴いたはずであるが、円通寺は30名の禅僧が、朝から晩まで厳しい規則に縛られながらひたすら修行に励む道場であったことについては、おそらく、戸惑ったのではないだろうか。
それまで、束縛されることなく、山に籠って釈尊が説かれた正法に触れ、達磨大師や寒山・拾得のような伸びやかな生き方で、詩歌に親しみ、好きな書で楽しめると、このように描いていたとすれば、大きく外れた、ということになる。
しかも、他の修行僧の多くは目的が出世である。先ずは首座の階位を得て、典座を経て和尚となって寺持ちの住職になろうとする。そのために円通寺に参集していた30名弱の僧侶たちで、目的も目標も大きくかけ離れていて、そして人付き合いの極端に下手な内気な性格の良寛さと彼らは馴染めなかったであろう。
良寛さの目的は禅僧として大成することであった。
その一歩として、「人間として歩む人生をどう生きるか。人として社会に関わる点において、いかにあるべきか」を追求しようとしたのではなかろうか。
後年、国仙和尚から『正法眼蔵』を学んだとき、
「これまで自分のことだけしか考えて来なかった」
と詩で述懐したが、
この「自分のこと」の「こと」とは、自分が「いかにあるか」を把握し、そして反省の上に立って自分は「いかにあるべきか」を求めての「自分」であったろう。
その意味で、仏教の大意が「大智」であると思い続けて修行に励んできたが、「大智」であるためには「大悲」でなければならず、「大悲」であるためには「大智」でなければならないことまでは、その時思い至らなかったからかもしれない。
言えることは、良寛さは、典座を経て和尚となって寺持ちの住職になるとは初めから描いていなかったことで、円通寺での修行は避けてはならない通過点であると考えていた筈であろう。
また、永平寺の管主は言うまでもなく、始祖道元禅師、その師・長翁如浄禅師のように宗門の最上段を目指すのでもなく、あるいは僧伽(=そうぎゃ、サンガ)を成してのものではなく、
山にこもって達磨大師のような修行とその先に在る釈尊の教えを会得したいと思っていたのではないかと、
円通寺での修行の取り組み方、玄透即中和尚との確執、5年間もの行脚、そして五合庵などにおける良寛さの言動や作品から、そう思われる。
『仏教要語の基礎知識』の著者水野弘元によれば
「仏教とは、仏陀となることを説く教えということもできる(19㌻)」
を踏まえれば、
良寛さはそこを目指したかどうかは知る由もないが、修行の姿勢の方向の先の頂点はそうであったとも言える。
後日談になるが、円通寺を離れて西方行脚を5年間続けたときもその方向は外れているとは思えない。
9 - 1) ■ 自分探し
多くは以南との確執で出奔したとあるが、
「おれがの、名主の橘屋は擲って、これからはお釈迦様を慕って生きる」
と二男泰儀(やすのり)に一書を渡し、僧侶になるから家督を譲る。済まぬ。あとは頼む。本気でその道を究める覚悟だと言い残したとすれば、18歳の文孝は、この時すでに仏道を究めるため自分探しの意志が強かったことが想像できる。
このときの自分探しは、漠として仏道であった。生家山本家の菩提寺は真言宗であったから、ひょっとすればその方向で考えていたのかもしれないが、おそらく実父が曹洞宗円通寺の教化活動を北越で盛んに行っていたこと、そこには関係文庫が豊富にあることをしっていただろうから、漠然として禅に興味・関心があったのかもしれない。良寛さが貞心尼に、
「僧となって禅を学びしに非ず、禅に参じて後僧となる」
と言っていることから放浪中に、実父の兄三代目桂誉春(たかはる)が秋葉山に建立していた円通閣で参禅していたのかもしれないし、良寛さは漢詩屏風に『偶剃鬚髪作僧伽』と題して
「たまたま鬚髪を剃って僧伽となり」
と書いたことから、光照寺に立ち入ったとき確固たる意志を持っていなかったが、立寄った国仙大和尚とお会いしたとき、とんとん拍子に話が進んだから、「たまたま出家した」とも解釈できる。
そうであったとしても、基本は自分探しにあったと想像できる。
では、それは時代背景と越後出雲崎における幼少期と家を飛び出したあとの若き文孝(ぶんこう)の求道を、仏道に求めた程度のことであったろうが、覚りを開いて開眼し、59歳で国上山の五合庵を下りるまでのおよそ30年間、自分探しと、僧侶としての求道と、人としての生き方を模索し続けたが、その答えをようやく見出して山を下りて市井のなかに嬉々として飛び回るまで、一途に貫徹させた良寛ささえそれだけの月日を必要としたと云うことだろう。
禅僧としての求道 良寛さにおける是非善悪利害得失・捨てる・随う・任かせると自分探し 良寛さが敬愛して止まない大而宗龍和尚の影響 9年間修行の黄檗禅 良寛さと道元 良寛さと師国仙大和尚 良寛さと正法眼蔵 同輩の義提尼から歌づくりを教わることと自分探し 母の死と自分探し 形式主義を絶望的に嘆き、宗門の腐敗を激しく糾弾した良寛さと自分探し 良寛さんと玄透即中(62歳)が雲水修行の厳正を期した『円通応用清規』と黄檗禅 法系を断つことと自分探し 5年間の諸方行脚・遍歴・漂泊で自分探し 改めて永平大清規への復古と黄檗念仏禅の是非を問う良寛さと自分探し 継父以南の遺言と帰郷を決意と自分探し 帰郷後の自分探し 五合庵での隠遁による面壁10年の修行 越州の沙門良寛の懶ものうしと自分探し 曹洞念仏禅と、荘子 ・ 法華経から良寛さんが体得したもの 道元の仏法僧の教えを放棄した良寛さんの自分らしい答えの仏法僧 良寛さの道元禅を超越した菩薩行 思想家とならずに野僧に甘んじた良寛さと自分探し 経中の諸仏を市井の隣人とした良寛さん独自の法華経観 山を下りた。その大地に答えがあった 黄檗禅と作品の美は日本的霊性の美に通じる 良寛美と「自分探し」 江戸の国学者で歌人の大村光枝との交友における自分探し 儒者で友人の龜田鵬齋を通しての自分探し 親しい友人たち、庇護者たちは良寛美を支えてくれたことと自分探し 庇護者として良寛さんを支えた人々と自分探し 交流のあった人々と自分探し 四人の道友(有願は良寛さの師でもあった・三輪左一・隆全和尚・禅僧大忍魯仙)と自分探し 弟子遍澄と自分探し 活発化した創作活動と自分探し 思慕したり尊敬する人の数が半端でない魅力の根源と自分探し 良寛さの生前に、良寛さを世間に知らせた人々と自分探し 鈴木文臺と自分探し 貞心尼と自分探し 良寛さの歿直後に良寛さの作品を世間に紹介た人々 良寛さの作品に見ると自分探し 作品創りの経緯と自分探し 美のキーワードと自分探し 良寛さの生き方と良寛美に至る20の出発 良寛さの有形の形見における自分探しとの関係 良寛さの無形の形見における自分探しとの関係 ・・・
良寛さは、自分探しの人生であった。出奔した18歳で
「釈迦を慕う。僧侶で大成する」
と、書き残し
それを貫徹した。
9 - 2) ■ 大而宗龍禅師は出払うことが極めて多いので文孝が相見できる機会は限られていた
1776(安永5)年 放浪。文孝19歳
もう一つ、良寛研究書や良寛関係の書籍に触れられていないことがある。そこには、「大而宗龍(だいじそうりゅう)禅師は隠居していた」としかないため、訊ねたときも含めて訪問先が一か所であるかのようなイメージでしか理解できていないのであるが、後述するように、文孝(ぶんこう)が幼名を「栄蔵」と名付けられて誕生して 5歳の1762(宝暦12)年から毎年26年間全国各地を駆け巡る言わば宗龍プロジェクトの最中のことで、
少年期の文孝が大而宗龍禅師と会うことのできる場所は、新潟県下の、文孝が通える位置に存する寺院であることから推測して、文孝16歳~文孝17歳の時禅師は新潟を離れていたからまったく考えられない。18歳・19歳のときも出払っていた。
このことは、大而宗龍禅師顕彰会編『宗龍禅師研究論集』考古堂発行掲載の第五部資料編「夏冬安居牒」および延べ64寺院で64回開催の「授戒会一覧表」(この一覧表は秩父虹寺廣見寺のホームページにも掲載)の記録から、相見は文孝20歳、禅師61歳のとき、宗龍プロジェクト16年目の1777(安永6)年10月の新潟県新潟市・宗賢寺にて第36回授戒会が開催された。この10月のそのプロジェクトの余暇というタイミングであったろう。
では新発田の観音院まで度々相見するために出雲崎界隈から距離的に可能かを調べてみると、移動だけで片道16時間40分くらい掛かる。往復で33時間20分の所要となる。このことから、一日24時間から相見予定時間を差し引いての計算で実現可能な場所から出かけたことだろう。出奔時以南は何日も掛けて懸命に文孝を探したが諦めて代官所に届け出を提出したが、その後も意識的に探したであろう。光照寺、実父桂家の誉章(新次郎)、姻戚関係筋、友人・知人宅、以南の実家与板の新木家、離婚した元妻の関根家など常に情報収集を重ねていたと思われる。
身を隠す文孝にしてみれば、出雲崎や隣町の尼瀬周辺には居なくて、大而宗龍和尚に日帰り可能な場所で日々過ごして居たとしか考えられない。
さてどこで寝起きし、何を行っていたかであるが、後年良寛さは貞心尼に「大而宗龍和尚にお会いしたい。師としておすがりしたい」と強く願ったことを蔵雲和尚へ送った書簡で裏付けていた。
70歳を超えた頃の良寛さの述懐であったと思われるが、その気持ちに変わりがなくその願いが叶えられることなく50年以上経っての述懐であったのであろう。貞心尼に本心を吐露したことから、18歳から22歳までの5年間、文孝は放浪中であったとは云え、自らの生き方にかなり真摯に向き合っていたと思われる。それ故、その気持ちがぶれなく維持できる環境の中に身を隠して励んでいたのであろう。
その後宗龍プロジェクト23年目まで、大而宗龍和尚は新潟には不在であったが、24年目の1785(天明 5)年の 4月29日の母三回忌に間に合うように岡山県玉野の円通寺(良寛さ修行 7年目)で帰郷。そして 5月からの宗龍禅師主導プロジェクト「夏安居」に参加できる機会を師・国仙大和尚が手を打ってくれたようである。
安居(あんご)は、「自分が悟りを得て救われる前に、まず他の人びとが救われるようにするという菩薩の行」の実践で、各地1か寺に滞在し集団で三ヶ月か外出を禁じて経典の講説が行なわれ遊行(ゆぎょう)中の罪を懺悔しての集中修業を基本とし、厳格に精力的に専念し展開される。
新潟県新発田市・観音院の大而宗龍禅師が8名の弟子とプロジェクトを組んで、千葉・愛知・岐阜をふくむ各地に出払ったのは、1762(宝暦12)年< 1年目 > 宗龍46歳・栄蔵 5歳のときからだった。
その宗龍プロジェクトは8年目(宗龍53歳・栄蔵12歳)には観音院に戻ったが、その翌年1770(明和7)年から再び新潟を出払った。
文孝が出奔した1775(安永4)年は14年目で宗龍59歳・文孝18歳であったが、この年も大而宗龍禅師は新潟には居なかった。
ところが、宗龍プロジェクト16年目の1777(安永6)年の安居の最終は新潟県新潟市・宗賢寺であったので、翌年出発するまでは宗賢寺に禅師は居た。このタイミングで文孝(良寛さ)が相見できたことは考えられる。
文孝が宗賢寺に出向くとすれば、どこからであったかが問題で、
出雲崎~宗賢寺まで片道13時間かかる。
実父桂新次郎(四代目誉章)の新潟市秋葉区秋葉からであれば、片道 2時間、
新次郎の母「おしゃう」の実家からも2時間。
1778(安永7)年(プロジェクト17年目)には新潟県新発田市・観音院にても安居が実施されたので、ここでの 3ケ月間の間でも相見は可能となる。
貞心尼が僧蔵雲に書簡で伝えた良寛さが宗龍禅師に相見したと聞いたとするその相見年は、1777(安永6)年か1778(安永7)年のどちらかの時であったと言えそうである。
文孝が観音院に出向くとすれば、どこからであったかが問題で、
出雲崎~観音院まで片道 16時間40分かかる。
実父桂新次郎(四代目誉章)の新潟市秋葉区秋葉からであれば、片道 7時間、
新次郎の母の実家からも 6時間。
「たびたび相見した」
となれば、出発始点は出雲崎界隈からではなかっただろう。隣町の尼瀬光照寺はもっと遠くなる ・・・ 。
文孝22歳の5月に国仙来錫。8月 国仙の三番目の弟子玄乗破了の晋山解制。
国仙により得度し大愚良寛が誕生。
9月に一行は玉島円通寺へ向け出立したこの年宗龍プロジェクト18年目宗龍(63歳)禅師は、「新潟県長岡市・龍昌寺 → 新潟県長岡市・宝泉寺 → 長野県長野市・大昌寺 → 新潟県長岡市・王舎林であったから、接触はできなかったろう。
その後プロジェクトは1780(安永 9)年~1784(天明 4年)までの 5年間は、19年目~23年目の安居が実施されたが、この間すべて新潟県外でのことで、良寛さも備前岡山玉島の円通寺で修行中の 5年間であった。
ところが24年目の1785(天明 5)年(大而宗龍69歳・良寛、円通寺での修行 7年目28歳)のとき、
4月29日母三回忌で帰郷したのであるが、
5月から 7月までの、新潟県新発田市紫雲寺村・同じ観音院にて第58回授戒会・戒弟数254名。「住職」は、弟弟子の開田大義が就き、戒師は69歳の大而宗龍が勤めた。(観音院にての、この授戒会の「住職」は、弟弟子の開田大義が就いた)在家および一般人述べ9,502人を信徒化が実施されたこの授戒会の戒弟数254名の一人が良寛さであったことは周知のところである。
この3ケ月間、懸命に修行に励み戒師大而宗龍の教えを体得したであろうことは大いに想像できるところであるが、修行を終えて玉島に戻る間に、挨拶に出向いて深く礼を述べたであろうことも考えられる。
だが、プロジェクトは翌年の1786(天明 6)年~1788(天明 8)年まで続行され大而宗龍禅師(72歳)は最終年新潟県新発田市に戻られたが、そのとき良寛さ(31歳)は、円通寺での修行10年目のことで、1789(寛政元)年 8月13日、観音院において大而宗龍示寂。享年73 遂にその後禅師とお会いすることはできなくなった。
9 - 3) ■ 良寛さは貞心尼に「お会いしたい、師としておすがりしたい」と強く願ったことを蔵雲和尚へ送った書簡で裏付ける配慮をした
良寛さ歿後36年に当たる1867(慶応3)年春に、江戸・尚古堂から『良寛道人遺稿』が発刊された。これを編したのは越後出身の、前橋竜海院二十九世謙巌蔵雲和尚で、これが良寛和尚が世に認められるきっかけをつくった初の出版であることは周知のとおりである。
その発刊に漕ぎ着けるまでには、良寛さの作品を集めるため、かつて良寛さの膝元で10年間弟子を務めた遍澄の努力があればこその話で、あわせて貞心尼から書簡で、または直接会って、良寛に関するアドバイスを受けて、公刊に値する内容でまとめた、と伝えられている。
ここで、「公刊に値する内容でまとめた」ことに大きな意味がある。
それは、良寛さ61歳のとき大関文仲が『良寛禅師伝』の稿を作成したのであるが、それに至る間、良寛さは大関文仲とは面識はなかったようであるが、互いに文通はあって、
『 ・・・ 世の中の是非得失の事 うるさく存じ 物にかかはらぬ性質に候間 御ゆるしたまはり度く候 』
『 ... まことに困りいり候 失礼千万 以上 四月十一日 良寛 』
と手紙で公刊を拒否した。
良寛さんとしては珍しい激しい怒りである。
したがってこの「良寛禅師伝」は公刊されなかった。
良寛さ自身、自分のことや家のこと、あるいは家族や親戚のことなどほとんど書き残していないことと、特に生存中出回った良寛伝や良寛さの作品の紹介本などに良寛さは「迷惑千万」と、もろに態度を表すことを手紙で抗議したり、越後の儒者鈴木文臺には、著すことを直接断っているなど、今日知る私たちの良寛人物像は虚像が多く伝えられている。
誤って伝えられることに困惑していた良寛さへの配慮は、特に貞心尼とが遍澄はその意識が強く働いていたようである。
その意を含んで貞心尼は、蔵雲和尚が『良寛詩稿』を開版する前に、良寛さんから直接聞いた話として、「宗龍禅師のこと」と題する一文を記録された史料と位置づけ蔵雲に書簡で送った。
「伝灯の正師に嗣法した大而宗龍(だいじそうりゅう)の居所の庭に忍び込んでに相見したのは、京都大徳寺であったという説もあるその話」である。なかなか会うことができなかったので、隠寮の庭に忍び込んで、手水鉢の上に良寛さんは大而宗龍宛の置文をしたその翌朝、用足しに起きた宗龍は、その文を見て、良寛を部屋に呼び、いつでも問法に来ても良いとお許しになったと書かれていた」と、続く話である。
その書簡に、
「 … どうぞ一度相見いたし度思ひ其寺に一度くわたいたしをり候へど 禅師今ハ隠居し給ひて 別所にゐまして … 」
云々とあるこの「隠居し給ひて 別所」は、先の「隠寮」のことである。
大而宗龍禅師にお会いしたい、おすがりしたいと強く願って、文孝(出家する前の良寛さ)は、「新潟県新発田市長者館の紫雲寺村の観音院に訪ねたが、隠居所の方だと教えられ、宗龍庵(新潟県北蒲原郡聖籠町蓮潟 旧宗龍寺)へ出直して、置文をして、その翌朝宗龍がそれを見て、良寛を部屋に呼び、いつでも問法に来ても良いとお許しが出た」ことを、多くを語らなかった良寛さは、心の置ける貞心尼に話したことを信頼のおける蔵雲和尚に書簡に書き残しておく考慮からであったようである。
おすがりしたいと意識付けられた動機は何であったかについては具体的に書き残してはいないようだ。
また、禅師にお会いしたい、おすがりしたいと思わせる情報を誰から聞いてのことであったかの記述も、今のところどこにも見当たらないから、推測の域を出ないのであるが、18歳で家を捨て、親や弟妹から連絡を絶っての5年間、越後新潟のどこかに身を隠していた文孝は、「お会いしたい、おすがりしたい」の気持ちから、
「自分探し」に真摯に向き合っていた青年文孝であったことは、この一文から伺える。
そして、貞心尼に吐露したとき良寛さは70歳前後から~73歳頃」のことであったから、50年前の当時そう思っていたくらい、良寛さにとって強烈な印象と信頼を寄せていたことは手に取るように分かる話である。
だがこれも「何ゆえに?」の理由は残っていないのでやはり推測するしかない。
出発を午前 7時として片道 7時間掛けて会いに観音院へ出かけたが留守であったので、その足で新潟県新発田市長者館の紫雲寺村観音院から、隠居先の宗龍庵(新潟県北蒲原郡聖籠町蓮潟 旧宗龍寺)に、 1時間ちょっとで辿り着いたとすれば、午後 3時半ころ到着したが、
もたもたして夕方 4時ころ置き文をして6時間くらいの所要で帰ると、夜10時。晩飯をそれから食べたとすれば就寝は真夜中。翌朝7時に再出発して、6時間くらい掛けて出直したとすれば、午後 1時ころ。その時大而宗龍禅師に相見できたとすれば、それは宗龍62歳・文孝21歳の1778(安永7)年3月~4月 8日ころのこととなる。
なぜ「安永7年3月~4月 8日ころ」か。
それは別項「宗龍プロジェクト」で明らかなように、文孝の越後放浪中の 5年間のうち、大而宗龍禅師に相見できる機会はこの間しかないのであるから、おそらくそうであったに違いないとしている。
貞心尼の書簡からでは、
「置文を見て、良寛を部屋に呼び」は、行ったその日のことか、翌日あるいは別の日に改めて出直したのかが掛かれていないのであるが、「度々相見した」としても、「3月~4月 8日ころ」までのことであった。
良寛さが 5歳のときから17歳まで、大而宗龍和尚はその住職を捨て一介の乞食僧となりながらも、弟子 8名を伴って、
新潟県北蒲原郡聖籠町蓮潟 → 新潟県新発田市 → 高崎市 → 新潟県村上市神林村 → 新潟市 → 新発田市 → 新潟県長岡市 → 群馬県嬬恋村 → 新潟県南蒲原郡田上町 → 新潟市江南区横越東町 → 新潟県三条市大崎 → 新潟県加茂市黒水 → 群馬県藤岡市 → 埼玉県皆野町 → 新潟市江南区横越東町 → 埼玉県秩父市下宮地町 → 新潟県新潟市西蒲原区仁箇 → 新潟県長岡市寺泊 → 新潟市江南区横越東町 → 新潟県新発田市長者館 → 埼玉県秩父市・廣見寺 → 神奈川県愛川町・勝楽寺 → 埼玉県飯能市下直竹 → 岐阜県飛騨市古川町 → 岐阜県高山市若達町 → 富山県滑川市四間町 → 岐阜県下呂市中呂 → 栃木県足利市松田町 → 岐阜県恵那市長島町 → 岐阜県恵那市東野 → 愛知県豊橋市東郷町 → 愛知県豊橋市大岩町 → 愛知県新城豊島市 ・・・ の地の寺院での「安居」と「授戒会」などを行うため行脚を続けていた。
この間、越後の地元に戻ってきたのは、上記の新潟市江南区横越東町の「宗賢寺」と新潟県新発田市長者館の「観音院」であるから、地元の人から大而宗龍和尚の「徳」を聞いたとすれば、ここの宗賢寺か観音院での
「安居」と「授戒会」などを行ったことが囁かれてのことではなかったかと、想像できる。
では、誰の情報で大而宗龍禅師の徳を文孝が知り得たのかであるが、実父の桂 誉章(たかあき)からとしか思い浮かばない。
誉章からであれば、北越後にあって玉島円通寺の国仙大和尚の教化を直接に受けた身であること、誉章は、越後で円通寺の教化活動に活発に協力していたこと、兄の三代目が秋葉山に円通閣と名付けて仏堂を建てるていたほどであったこと、その国仙大和尚と大而宗龍和尚は法系を同じくし、宗龍和尚は国仙大和尚の兄弟子に当たる関係から、宗龍和尚のプロジェクトの偉業は、誉章にとって強い関心事であったろうことは推測できる。
その実父誉章が、名主橘屋に置いて来た実子文孝が出奔して5年間も放浪しながらも「自分探し」に真摯に向き合っていた青年文孝であったこと、
「おれがの、名主の橘屋は擲って、これからはお釈迦様を慕って生きる」と二男泰儀(やすのり)に一書を渡し、僧侶になるから家督を譲る ・・・
と言い残しての放浪であったことを誉章はしっていたから宗龍和尚のことを「こういう生き方をされている禅師がいらっしゃる」と話を熱く語っていたのではないだろうか。
そうでもなければ、「お会いしたい、おすがりしたい」とまで意識しなかったと思うのである。
その大而宗龍和尚が続けたプロジェクトが放浪中の5年間のうち越後に戻って来た経路は以下の通りとなる。
1775(安永4)年< 宗龍プロジェクト14年目 > 宗龍59歳・文孝18歳のとき、
愛知県新城市 → 東京都新宿区横寺町 → 千葉県安房郡鋸南町 → 東京都狛江市元和泉 → 岐阜県高山市天性町 → 岐阜市芥見大船
1776(安永5)年< 15年目 > 宗龍60歳・文孝19歳放浪中のとき、
→ 岐阜県飛騨市古川町片原 → 少ケ野のおんまか山 →
1777(安永6)年< 16年目 > 宗龍61歳・文孝20歳放浪中のとき、
→ 美濃恵那地方 → 埼玉県川越市南古谷 → 埼玉県ときがわ町玉川 → 新潟県新潟市江南区横越東町・宗賢寺
1778(安永7)年< 17年目 >宗龍62歳・文孝21歳のとき、
→ 新潟市南区茨曽根 → 新潟県新発田市長者館・観音院 → 埼玉県東松山市下野本 → 東京都杉並区下高井戸 → 東京都狛江市元和泉
1779(安永 8)年< 18年目 > 宗龍63歳・文孝22歳のとき、
国仙大和尚が光照寺に来錫したのがこの年の 5月。国仙の三番目の弟子玄乗破了の晋山解制が8月。その流れで文孝はここで参禅し、国仙により得度して大愚良寛が誕生。9月に一行は玉島円通寺へ向け出立したから、宗龍プロジェクトのそれまでの工程を辿れば、
年を越して、東京都狛江市元和泉 → 新潟県魚沼市干溝 → 長野市戸隠栃原 → 岐阜県大野郡高山・大隆寺であった。
このことから、文孝が 5年間のうち度々相見したという話は、上に示した20歳のときの宗賢寺でと、21歳のときの観音院の二つの寺院となるが、
貞心尼が蔵雲和尚宛書簡で残した記載内容から、相見したのは21歳のときの観音院から 1時間ほど離れた宗龍庵に在住の1778(安永7)年「3月~4月 8日ころ」でしか考えにくいこととなる。このことをその書簡が証明したと言える。
それも、奇しくも放浪中の20歳~21歳の、宗賢寺と観音院での宗龍プロジェクト「安居」開催を終えての宗龍和尚が個人的に余裕のある時間帯のみである。
これ以外に接触できる環境ではなかったから、観音院に出向いた文孝は和尚は隠居所に居ることをしらされてその庭に忍び込み置き文をして帰り、翌日出直した逸話が正しいとすれば、安永7年の4月の「授戒会」の終わったころか、夏の「安居」開催を終えてのことであるから、置き手紙したのが4月で、実際に相見できて禅問答ができたという話であるから、これは夏のことだったかもしれない。
そして、文孝20歳のとき、宗龍61歳は、
新潟県新潟市・宗賢寺で、10月 8日授戒会完戒・参加者207名 同寺にて冬安居/ 僧88人を行うため越後に戻って来たこのとき、実父桂 誉章からの情報で、胸をときめかして、「お会いしたい。師としておすがりしたい」と、未だお会いしたことがない高僧に思いを馳せて願っていたのではないだろか。
そして、実現させた。
相見して対峙し、禅問答までおこなったという。
その結果、自分探しの文孝や出家してからの良寛さは、大而宗龍禅師から何を学び、どのように咀嚼して、何を自分らしさにしたかの答えは、良寛さの年譜を辿ると、40歳代の10年間を経たのち、掴んで、実践して、今日私たちがしる良寛さになったように感じている。
9 - 4) ■ 良寛さが「おすがりしたい」と強く願った大而宗龍禅師は偉大な野僧
大而宗龍(だいじそうりゅう)乞食僧27年間の大プロジェクト「僧侶として、人として見せた菩薩行の偉業」を辿ると、
良寛さの人間形成に占めた生き方に多大な影響を与えたので、この関係性は、極めて重要であるから、禅師の動きも敢えて併記する。
大而宗龍(46歳)は、その師・悦巌禅師の後席を嗣ぎ越後新潟紫雲寺村の観音院第3世住持となるが、
宗龍和尚は「真の僧侶は清貧のなかに生きることである」の主張を具現化するため、間もなくして住職を退き一介の乞食僧になった。
野僧は、小さな寺に居たり、山野を放浪したりしている僧。野を旅する僧。また、いなかの僧侶。僧侶を軽蔑していうのにも用いられるようであるが、
僧が、人家の門に立ち、食を請いもとめながら行脚(あんぎゃ)し、仏道を修行すること。また、その僧を乞食僧(こつじきそう)という。
「清貧のなかに生きつつ、僧侶として何を成すべきか」を考えて、46歳からの四半世紀とてつもない大事業を実現した。
それは、
新潟県・富山県・山形県・栃木県・群馬県・東京都・千葉県・神奈川県・長野県・岐阜県と広範囲に移動しながら、その地域の33ヶ寺院にて、
栄蔵5歳の時から良寛さん31歳の1788(天明8)年まで毎年毎回、寺院に修行僧を大勢集め「安居(あんご)」を行い、延べ1,751名の禅僧を育成し、盤石な曹洞宗に寄与した。
あるいは檀信徒対象に「授戒会」を完戒し、述べ10,460人の檀信徒を創り出したたり、その他形を変えての菩薩行に徹した。
* この詳細情報は、
⑴単行本2019年2月18日考古堂刊『宗龍禅師研究論集』大而宗龍禅師顕彰会著・町田廣文監修と秩父虹寺の廣見寺のホームページでしることができる。
⑵上記の「夏冬安居牒」や「授戒会の明細」は、廣見寺のご住職町田廣文氏に転載の許諾を得て下記に掲載した。転載した情報の著作権は上記の⑴と⑵にあることから、勝手な複写(コピー)は厳禁。
それに私なりの解釈で体裁を変えて「私的利用の謎解きの参考」にさせていただいた。
例えば移動所要の時間は「この程度であったろう」の推測の域を出ていない。
道路事情は現状とは比較ができないほど険悪であったから、実際はもっと時間はかかったであろう。定かではないが、乞食僧としての移動であるから、食を請いもとめて托鉢しながらであろうし、休憩、食事後の次への段取り、排尿・排便、入浴、睡眠などが加わるから、所要時間は単純計算した表記の時間ではないが、現代から見て、大変な苦労の27年間であったことを実感したいがために算出を試みた。
一日何時間くらい歩けるか。成人男子の場合で、歩行速度を時速4kmとすると、単純計算で一日約8~10時間も歩くことになる。
傘、杖、着替え用の着物、食料、水、食器類、薬、調理器具、お経本などの仏具、伝令用の筆記具、野宿時の寝具、雨具などを含め、プロジェクト一行が移動し宿泊できる器材一式を持ち歩いただろう。
道路は今のように舗装されていなかった。日本の国土はアップダウンが激しい。
履物も草鞋履きであっただろうから、上り坂、下り坂やぬかるみなどで歩きにくい道が多かったろう。
草鞋はすぐに鼻緒(はなお)が切れたり、踵(かかと)部分が擦り切れてしまうから、予備に履き替えることも度々あったろう。
寒いときはかじかむような冷たさの中歩いただろう。大雨や風雪、強風の中もあったろう。
病人が出たり、体の具合が悪くなったり、疲労で進めなくなることもあり得る。
道中、役人から呼び止められて、移動許可が下りるまでは動けない。
このようなことを想像すると、机上で単純に所要時間を計測した程度の所要時間ではない筈で、ここに記載した時間は、おそらく現実的にはもっともっと掛かったと推測できる。
定かでないもう一つは、
「安居」と「授戒会」の実施日に間に合うように移動しなければならず、その日時に修行僧や檀信徒を集めなければならないという調整は誰がどのように行って実現したのかも想像するところだ。
成果(目的・目標)達成を現実化するには段取り次第である。
スタートする前段階で、安居および授戒会開催の基本構想立案、成果管理、運営・実施管理、予算管理、役割分担、実施要領、実施案内告知、実施道場確保、参加者参集手配などプロジェクト組み立てと準備と、各開催地への移動と安居および授戒会の執り行いと併せて、これら開催の前か直後に、いくつもの事業も展開した。
『随願即得珠(ずいがんそくとくじゅ)』や『安養講』を著し、
衰退した寺を曹洞宗の寺院として再興したり、廃寺寸前までいっていた寺を譲り受け開創したり、
臨済宗妙心寺派の信者を対象に授戒会を執り行い、
三門前に「大乗妙典一千部塔」を立て、境内に十一面観音を建立し、名主の徳行を讃え「碑」を建て、
麦托鉢、洪水で被災した人々に麦めし供養を行い、一切経や大般若経の石書供養を行い、境内に供養塔を建立。
石書供養は、
「石経を埋納する蔵を造営することから始まる。埼玉県秩父市・廣見寺の例で言えば、大岩を 8人の石工が一年がかりで開削したそうである。
そして、寺の近くの河原で石経に向いた石を拾い集め、
「すべての人間の平等な救済と成仏を説き、それが仏の真の教えの道である」 とする経典群の中核とされ最も重要とされた600巻の『大般若経』の漢字約480万字の書写事業を行い、
授戒会参加者等の名前と戒名とをも石書して奉納するという新たなる衆生済度を発願したりの大業」のことで、
これを安居・授戒会開催寺院でしばしば行っている。
一般に行われている転読よりも広大な利益があると信じ、経を1字1字読む真読(しんどく)の道場にしたのである。
大而宗龍の遺偈(ゆいげ)は、
「仏の慈悲の光明は、平等に私達を照らしている。大きな寺(高台)には仏法はなく、民衆の中(糞裡)にこそ仏法(真珠)はある。咦い、(といき。大きなため息の意)清らかで何ものにも冒されない者は誰か よく考えよ」
であった … 。
遺言は
「破戒無福無徳の乞食僧、龍身の持っている涅槃金だけで葬儀を。葬式には一切紙を用い、絹織物等の高価なものは使うな。牌前の膳は一菜だけでよい。真実の供養は座禅である。経の代わりに座禅すれば、一坐でも素晴らしいご馳走より勝る」
... このことからも人物像が浮かび上がる。
18歳のとき名主見習いの身を捨て出奔し、自分探しを始めた文孝(のち出家して良寛さ)は、大而宗龍禅師の高名を知り、隠寮の庭に忍び込んでのち相見を実現した。
第33回の夏安居僧58人の一人に28歳の良寛さがあった。
34歳で13年間修業した円通寺から離れ、自分探しを続けての 5年間諸方行脚・遍歴・漂泊したときも、帰郷しての半年間も野宿の乞食僧であった。
だが、覚りを開いて開眼し、59歳で国上山の五合庵を下りて、市井で庶民と接触し道元禅を超越した菩薩行を成した。
そこで初めて良寛さは良寛さらしい自分を探し得て、大而宗龍禅師を回顧されたのであろう。70歳を越した頃、貞心尼に「お会いしたい、師としておすがりしたい」と強く願っていたことを吐露した。50年経ってもその気持ちは変わっていない。
如何に民衆を救済するかという本来の機能を充分に果たす事を第一義に実践した師に、良寛さは尊敬してやまない大きな存在であった。
得度する前から猛烈に思慕した大而宗龍禅師の功績を良寛さの年譜に絡めて捉えてみようと思ってかなりの紙面を割いたが、その意図は見事に達せられたと思っている。
9 - 5) ■ 山に籠らず、結論は市井の民衆にあったことを円通寺で学んだ
文孝が元服するまでを栄蔵と呼ばれていた。この栄蔵が 6歳で儒者大森子陽の狭川塾に入塾し、漢学の基礎と漢籍を修めた。12歳の1769(明和6)年に十三経(ぎょう)を三峰館で習い読んだ。
十三経は中国の典籍十三種で、『周易』・『尚書』・『毛詩』・『周礼』・『儀礼』・『礼記』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』・『論語』・『四書五経』・『文選』・『唐詩選』・『孝経』・『爾雅』・『孟子』を言い、儒学の基本的な経典である。
栄蔵は経書に親しみ、とくに論語を昧読し、論語は生涯座右から離さなかったし、その中の「里仁篇」を愛誦していたという。盆踊りを嫌って論語を読んでいた少年であった。
また歌に関して、名主橘屋の蔵書に現存するもので、刊行が寛政年間までの歌集に絞っても『西行法師歌集』、『鎌倉右大臣歌集』、『袖珍歌枕』、『万葉和歌集』がある。以南はもちろん良寛さをはじめ妹弟も読んだことであろう。
栄蔵12歳のころ、内向的で無類の読書好きの秀才と評された。
歌づくりは、万葉集や、古今集そして山家集など、この辺りを座右にしての、西行・芭蕉に似た風雅に親しんだ。
西行が、名家に生まれながらも家を捨て僧侶となって全国を放浪を続けて、花鳥風月などの風光明媚な情景を技巧に拘ることなく感じたままを素直に詠んで多くの和歌を詠み、後世に大きな影響を与えたことには大いに刺激を受けたであろう。
詩においては、寒山詩を好んだ。
そして、寒山拾得の世捨て人に、野僧としての「のびやかな生き方」に憧れたようである。
だが700余年も続いた名主橘屋は敗訴が続き衰退し、栄蔵6歳のとき、出雲崎は幕府勘定所直属となった。
そうしたなか以南は俳諧に志し、句会を繰り返していた。
栄蔵は元服し文孝と名乗った(のち出家して良寛さ)が、
「 … 僧侶になって大成する … 」
と言い残し名主見習いを捨て出奔。
文孝は、自身の持って生まれた気質そしてこれまで培われてきた性格は、名主には不向きであることは誰よりもよくしっていたはずで、意識の志向性は、学問的研究の国学としてではなく、古くは万葉集・古言や古意による文学性を伴った日本固有の精神や文化を含めての表現そのものに興味・関心が強く、更にまたそれを、僧侶のなかで成就させたいと願い、常に関心事はここにあったのではなかろうか。
文孝にとってのそのときの「僧侶になって大成する」とは、そうした意識ではなかったか、と思われる。
以南は名主を隠居したのち俳諧で身を立てようと奥州に旅立ち、京都で挫折した。家督を継いだ次男由之も、名主の役では失策続きであったが、同じく隠居して、歌日記を今に残した。弟の香は、国文学者として京都御所で働き、詩が光格天皇に上るほどの逸材であった。
入水した以南の法要を上洛して執り行った遺児達(兄弟妹)は、そこで父を偲んで歌や句を詠んだ。
一方、橘屋山本家は、名主とは別に鎮守の石井神社の社司をも兼ねて神職であった。山本家の菩提寺は真言宗豊山派孤岸山円明院。
栄蔵13歳のとき生まれた三男(四男)宥澄(ゆうちょう)は、その後大和国(奈良県桜井市)の真言宗豊山派総本山長谷寺で修行し、良寛さが玉島円通寺から離れ、諸方行脚・遍歴・漂泊 4年目の年に、山本家の菩提寺第十世澄観山円として円明院を継いだ。
このような環境のなか、名主橘屋の数々のもめごとが続き、ことごとく敗訴し、窮地に立たされるなか名主を目指して名主見習いになったものの、少しも要領を得ず、不安の連続に相俟って以南との確執が重なった文孝は堪忍袋の緒が切れた。
「おれがの、名主の橘屋は擲(なげう)って、これからはお釈迦様を慕って生きる」
と二男泰儀(やすのり 俳号:由之(ゆうし)に一書を渡した。
「家を譲る、僧侶で大成するまで故郷に戻らぬ、それまでは便りをしない」と書いた。
その用意が周到であったかどうかについては疑問が生じるが、社会人として明確な方向づけが為されていたことは確かで、結果的には禅僧になって修行を13年間積み、西行のような放浪を 5年間も経験し、国上山の五合庵に30年間も籠って達磨大師のように面壁九年の修行を積み、一方寒山・拾得のような暮らし方を行って、郷党の人々から「禅師(ぜじ)とか「大徳」と敬われれ、江戸から高名な国文学者が何人も訪ねて来て交友し、奇行など数百にものぼる逸話とおよそ2000点の書・歌・詩など芸術作品を残し、生前から多くの手で人物像が広く紹介され、私たちが知る愛すべき人間として、とてつもなく高い高僧良寛さとなった。始祖道元禅師をも超えたと表現した専門家も居る。
弟泰儀(俳号:由之(ゆうし)に
「家を譲る、僧侶で大成するまで故郷に戻らぬ、それまでは便りをしない」
とは、名主見習いの兄として身勝手で、投げやりな言い方であるが、文孝は次男坊の気質や性格を考えればもっと事前に手を打っておくべきところ、その考慮に至らないのが迷惑を顧みない観念的過ぎての至らなさで、これだから名主という立場の適性能力に欠けるという自覚はない。しかも弟も兄に似て、不適切で、名主になれば弟は苦労どころではないくらい苦境に立たされるところ、このときの文孝には、あろうことか兄弟愛はなかった。
このことに気づけば、穴埋めをするのは道理である。
しかし文孝はすべてを捨てた。
独り善がりではあったが、「僧侶になるから家督を譲る。済まぬ。あとは頼む。本気でその道を究める覚悟だ」と言い残したとすれば、18歳の文孝は、この時すでに仏道を究めるため自分探しの意志が強かったことが想像できる。
自らの生き方にかなり真摯に向き合って、自分探しに懸命で、その向かうべき方向は、仏道であり、そのなかにあって「禅」であったようである。
山本家の菩提寺は空海の真言宗であったが、栄蔵 7歳での寺小屋は曹洞宗(禅宗)の光照寺であり、実父である新津の庄屋・桂家四代目誉章(たかあき)は、かつて在家信徒の身で大忍国仙の下で参禅して、三代目の兄が宝暦13年秋葉山に円通閣を造り、その影響で宝暦13年秋葉山に円通閣を造り、玉島円通寺僧侶たちの北越への教化活動に支援していたその延長で、法系上国仙大和尚の兄弟子に当たる大而宗龍(だいじそうりゅう)禅師の高徳を聞き、「お会いしたい。おすがりしたい」とまで気持ちは「禅」に高揚していたのだろう。
良寛さは後年、貞心尼に
「僧となって禅を学びしに非ず、禅に参じて後僧となる」
と言っている。
解良栄重によれば、良寛さんは
「なぜ仏門に入ったかたずねたければ遍澄に聞いたらよい」
と言ったそうだ。
出自の謎や出家した年齢など自らのことを他人には容易に開示しなかった良寛さは、遍澄と貞心尼には伝えたようである。
この意味で、この二人が墨絵に描いた「良寛像」は、実物に最も似ていたと思われる。
さて、「僧となって禅を学んだのではなく、禅に参じてから後に僧となった」のはいつごろのことか、については諸説あるが、有髪のまま禅を学んでいたのであろう。
良寛さは漢詩屏風に『偶剃鬚髪作僧伽』と題して
「たまたま鬚髪を剃って僧伽となり」
と書いたし、他にも複数書き記していることから、出家は関係者の話し合いで急遽決まったのかもしれない。
たまたま僧伽になったのにせよ、二十歳前後の青年が、坐禅していたということは、禅や仏教に強い興味・関心を抱き、自分探ししていたことは容易に想像できることである。
その頃、文孝は光照寺に身を寄せ、自ら髪を剃り、光照寺の玄乗破了から、袈裟を授けられ、名は、文孝から「了観」と称したと言われている。この名は光照寺の玄乗破了の一文字を貰って名づけたのだろうが、文孝自ら髪を剃ったという説で推測すれば、剃髪後に玄乗破了から授かったと思われるが、得度はのちの国仙大和尚によって行われ、そこで初めて僧侶となった。
中国の史書に「観光」の語源が記載されている。史書は儒教の経典である四書五経の一つの『易経』で、そこにある『觀國之光利用賓于王』(國の光を觀る「みる」 もって王に賓たるに利し「よろし」)からきていると言われている。これを訳せば、「灯(あか)りをかざして新しきを知る」となる。自分探しの文孝が考えれば、このような名を描いたのかもしれない。
得度して自ら道号を「大愚」とし、法号を国仙大和尚から「良寛」を与えられた。了観が自らを「大いなる愚である」としたことにたいし、「師はそれを良しとした」。
▶ 10. 僧侶となったのは「たまたま」であった
継父以南は出家することは反対であったから、名主橘屋山本家と親戚関係であった光照寺第十一世の蘭谷万秀(らんこくばんしゅう)に断念するよう説得の口添えを依頼していた。
父親の意思は他人で抑え込む以上に強固なもので、それこそ他人が口をはさむようなものではないはずであるから、人が何と言おうと、出家することはなかったと思われる。
この時の話し合いに誰が参加したのだろうか。
当人の良寛さに以南、それに蘭谷万秀とのち光照寺先住の第十二世となる玄乗破了。これに国仙和尚も加わっていたと想像できる。あるいはここに大而宗龍和尚の意見を持参した。
実父桂誉章も居た可能性が高い。もちろん口こそはさまなかっただろうが母も末席で加わっていたのではないだろうか。
このメンバーで、出家反対を唱えたのはおそらく継父以南だけだったろう。当人は、この時僧侶で生き抜こうとの強い意思があってのことかに就いては不明だが、家を飛び出したときはそのつもりであったがそれは3年前の偶発的衝動に近い出奔と見た場合、動機としては強いとまでは言えなかっただろう。
そして何よりも良寛さは後年、二つの詩に
『偶入釈門被袈裟 撥草瞻風有年斯』 たまたま釈門に入りて袈裟を被い
『偶剃鬚髪作僧伽』(漢詩屏風)たまたま鬚髪を剃って僧伽となり と書いた。これが真意であったならば僧侶となったのは「たまたま」であったことになる。
では、一生を左右する岐路に決断したきっかけは何であったか。
良寛さが初めて大而宗龍和尚に相見したのは出奔後3年後の21歳の時で、その翌年、光照寺に巡錫した円通寺十世大忍国仙大和尚にて得度し僧侶となった。
国仙和尚は晋山結制と授戒会を兼ねての巡錫であったから、玄乗破了との約束どおり光照寺に立ち寄った。この二人にとっての晋山結制と授戒会はもちろん「たまたま」ではない。
1779(安永 8)年5月からの晋山結制と授戒会のすべての行事を終えた8月の解制後の話し合いに参加した他の者たちは、それぞれ意向を持ち寄ったであろうがこの場で決まるとは予想していなかったかもしれない。
だが、この場で了観こと文孝が得度して大愚良寛と名乗る僧侶が誕生することが決まった。
国仙は良寛さを見抜いたのかもしれないが、親の以南が断固反対しているのに簡単に決める訳がない。参加したメンバーから様々な関連の意見具申があったであろうし、国仙が取りまとめて決断したとも思えない。蘭谷万秀は親戚関係ではあったが晋山結制直後のことであるから、玄乗破了の意見を尊重する立場であったろう。玄乗破了は歳も近いこともあって、意見は述べたとは思うが、説得力を発揮するほどの強い主張はなかったと推察する。
では、何がそうさせて「たまたま」となったのか。そして思いがけなく初めて会った了観を良寛として、玉島円通寺に連れて帰ることにさせたその働きの力は何であったか。
これまで名乗っていた「了観」を改め法号を国仙は「了」から「良」に替えた。
出奔する前までの青年文孝は、「越前、越中、越後には美人が多く、緑の水のほとりでひらひらと遊び戯れる。
その白玉のかんざしは日にきらめき、赤い薄絹のもすそは風にはためく。翠玉を拾ってそれを公達に贈り、花を手折ってそれで通りかかる人にふざける。なんと素晴らしいなまめかしい年ごろだろう。毎日こうして賑やかにさんざめいているとは」、「人生に嘆きがあることも知らなかった。身に着けるのは浅黄色の上着が好きで、白い鼻をした浅黄色の馬を乗り廻した。
朝には新豊の美酒を買い、暮れには杜陵(とりょう)の花を見に出掛け、帰ったところは、まっすぐに莫愁(愁いの無い美しい妓女)の家」 ... このような暮らしであった息子が黒染めの衣に笠被り、師の後ろに小さく立って去っていく後姿を見ていた。
10 - 1) ■ 禅に参じて僧となるが、そのきっかけはたまたまだった
名主の家督を継がなければならない立場で生まれて 太郎子として期待され 本人もそのつもりで育っていたものの
生来の魯直 頑魯 頑愚信(まこと)に比無し 任されても任しても上手く行かず この時世、時勢にあきたらず 名利にあくせくする俗人の姿に我慢がならず とは云うものの、こちらも元々名利に執する心が淡く 虚栄の心も少なく、覚悟して持つべきほどの利欲も名声欲もましてや権勢欲は皆無で 名主の昼あんどん息子と言われ 獄門の斬首に立ち合わされ 親友の立つ瀬を失わしめて立場なく
沈黙の日々を繰り返し 様々なことが重なって 幾多も屈折し、辛苦し 閉塞感にさいなまれ 虎にならなければと思いつつ猫にもなれず
父を捨て ただ母への恩愛が太いが故に涙は流れて止まず 橘屋を脱出し 名主の重責から逃げて 町の人びとの期待を裏切り 親戚縁者に恥を掻かせ 弟に思いがけなく負担を掛けて人生を狂わせ 他の弟や妹たちに恥ずかしい思いをさせてしまって しかも大切にしていた知己朋友とも敢えて別れ
江戸や京に出て技量を付けて得るご利益を稼いで故郷の人に還元できる智も術もなく 何事をか仕出かすということもせず 利害得失も是非も善悪もどうでもよく
生涯身を立つるに懶く ましてや名誉も要らない 自分の関わりは知ったことではない 君看よや双眼の色語らざれば憂い無きに似たりである
我が生何処より来る 去って何処にか之(ゆ)く 錯(あやま)って箇の瘋癲と為す
生きるために物乞いをして 炉辺に一束の薪があればそれでよく 空腹を押さえるだけの食事で足れりで、小さな庵、その空堂に在りて燈火しばしば油を添えて唯読書に耽り 西行のように歌を作り、寒山のような詩を書き、優游と 静かに生きていきたいものだ
となればこれから先どうやって一人生きて行けば良いのか 自分探しは結論を得ず 探し求めて名利の巷をのがれて駆け込んだ光照寺に参禅し たまたま鬚髪を剃っては見たものの 成行きで僧伽の道が開かれた 堅固に持つべき道心もなく 自らの道は自らが成せとすれば 歌も詩も書を能くしての出家者となることか この意向を煎じ詰めると、文人僧ということか 我が性逸興多し
奇しくも出家者となるための発心することもなく得度してしまった であれば、とことん釈迦の教えに随うのみ 釈迦の示した道に随って行くのみ 愚の如く、痴の如く これで行くしか打つ手を知らず
おれがの、名主の橘屋は擲(なげう)って、これからはお釈迦様を慕って生きていく 僧侶として大成するとはどうあるべきか
自分の一生をどう持っていけばいいのか 何を為せば良いのか
只ひたすら座ってそれで成就するものか 道元禅の何一つしらない 我亦人しらず人も亦我を知らずしらずして天の法則に随うのみ つとめよや、つとめよや
▶ 11. 備中(岡山)玉島の円通寺縁起
§ 玉島円通寺を訪問して、その時頂いた円通寺さん作製の冊子から抜粋。
この白華山は天平の昔から観音霊場として民俗信仰が灯されて来た。そこへたまたま立ち寄ったのが、高僧徳翁良高和尚であった。
1698(元禄11年)和尚は、滞留し、一桂活道、竿頭円刹、独秀鷟雄(さくお)の各和尚の協力を得、庄屋の西山氏をはじめとする村民117名の連判状を手に寺社奉行に嘆願。堂宇・補陀洛山円通庵が開創され、その後、円(圓)通寺と改められた。
別項で触れる予定であるが、良寛さの実父は越後新津に、この円通庵を持って居たことから、当時の大而宗龍和尚や大忍国仙大和尚とのコンタクトも有ったと読んでいる。
徳翁良高和尚は、道元始祖の越前永平寺に次いで創建された加賀金沢の大乗寺(道元が中国から最後に手に入れた『碧巌録』所蔵)にあって、曹洞宗中興の祖と仰がれる二十六世月舟宗胡の法継で、『俗日域洞上諸祖伝』などの著述でも知られる学徳兼備の高僧で、俊才59人を輩出し、その法系は今や千数百ヶ寺に及び、西米派の祖として讃仰され、漸次諸堂を造営し、良高の定めた『西米家訓』により、禅門の修行道場としての偉容を整えて行った。
話を戻して、金沢大乗寺の月舟宗胡の法系は、卍山道白に受け継がれた筈であったが、徳翁良高は、卍山道白の法嗣を嫌い、月舟宗胡の法系下を強要したという過去に経緯がある。詳細は別にするが、徳翁良高が参学時代に黄檗宗に影響を受けたことに関係したようだ。
しかし卍山道白らによってもたらされた復古活動に押され引責して大乗寺を退院し、玉島・円通寺の開山となった。
徳翁良高は、黙子素渕に受け継がせた。黙子素渕は悦巌素忻に。悦巌素忻は大而宗龍(だいじそうりゅう)につなぎ、
良寛さの道友・田面庵 東岫有願(とうしゅう うがん)もその系列にあった。
一方、彦根清涼寺の高外全国の直弟子が良寛さの師大忍国仙となる。
この法系が、良寛さと良寛美に極めて重要なファクターで、そして、特に注視すべきは、円通寺の黄檗禅である。黄檗禅と良寛美については改めて検証・考察してみたい。
玉島円通寺1世 徳翁 良高 和尚
2世 雄禅 良英 和尚 師の活作略は、正徳4年(1714)円通寺と改称した
3世 蔵山 良機 和尚 碩学の誉れ高く、後西院天皇の皇女光照院尊果女王の学術師範をつとめた功により「円通寺」元文3年寺号勅額を賜る
4世 大義 宗孝 和尚 良高の法嗣。数年にして金沢加賀藩の天徳院20世に転任
5世 梅橋 素雪 和尚
6世 兀甎 恵鏡 和尚 寛延4年 寺格を別格随意会地に昇格した
7世 大底 元石 和尚 道元禅の真髄「心身脱落」の、求道三昧の先達となる
8世 孝淳 良筍 和尚
9世 鉄文 道樹 和尚 国仙が立職した。家風豪快、学徳兼備、『鉄文道樹和尚百則評頌』や語録がある
10世 大忍 国仙 和尚 全国の法嗣、聖僧良寛に代表される如く、約30人の育成に専念し、寺格を最高の常恒会地に昇し、又伽藍の再興など寺門興隆の基盤を確立した
11世 玄透 即中 和尚 官慶の法嗣。円通寺では『円通応用清規』を編し、大忍国仙和尚の黄檗禅を否定し、覆した。剛毅果断、学徳兼備、の誉れ高く、幕府の進言により、永平寺50世を拝命。宗門屈指の傑僧であり、その名声は、宗史に歴然としている
光格天皇より「洞宗宏振禅師」を賜る。当寺の定紋が、永平寺と同じ「笹竜胆」である理由は玄透禅師住山の因縁に由来するものである
12世 灯外 禅灯 和尚 円通応用清規に基く法灯を継承する
13世 復庵 遵古 和尚 玄透の高弟。在住数年にして永平寺に上り、玄透 即中の指示に従い、『正法眼蔵九十五巻』のまとめ、1815(文化12)年の開版(本出版)に貢献した
14世 法厳 嶺運 和尚 玄透の法嗣、文化4年開山良高和尚100回忌、遺徳顕彰の大遠諱大法要を修した
15世 桃嶺 義仙 和尚
16世 大霊 嫩芝 和尚 国仙の法嗣。文化元年晋住する。天台宗を中心とする在家仏教興隆の地域の中にあって、禅門修行道場としての威風を堅持し、雲水修行に徹する
17世 嶺外 覺林 和尚 在住7年師承し、加賀の天徳院19世に晋住する
18世 定水 慧山 和尚 天徳院雲海の法嗣。金沢龍徳寺より晋住。在住18年の間、激動する時代的背景の中にあっても禅門修行の軌範に則り、孤高の精神を尊び、門風護持に努めた
19世 覺厳 心梁 和尚 復庵の法嗣。弘化2年当山に晋住す。石窓庵と号し、歌人としても才覚も広く知られ、学僧としての知名度も高かった
20世 太中 古禅 和尚 曹洞禅の宣揚に献身し、当時修行僧が20人
21世 祖山 智門 和尚 明治8年晋住、明治維新の改革的思汐に抗しつつ、禅門の遺風を継承した
22世 元孝 義道 和尚 明治17年晋住し、普門閣を建立した。この建物は後年本堂に隣接した僧堂跡地へ移転され、白雲関と改称して、現在は座禅堂として活用している
23世 梅谷 香雲 和尚
24世 世虚 谷翠厳和尚
25世 徳慶 戒全 和尚 昭和6年には良寛詩碑が建立され、翌年その除幕式と良寛百回忌法要を盛大に催し、良寛修行のて由緒ある禅門寺院として名声を天下に広めた
26世 黙室 泰定 和尚
27世 中興大勇活禅和尚 良寛の遺徳顕彰を終生願行として、良寛修行の往事に因む諸堂の復興に努めるかたわら玉島文化クラブを組織する
28世 大安 憲道 和尚 活禅和尚について出家得度、昭和44年晋住。「良寛の心を現代に生かす」ことを志す各界の知識人の要請に応えて、各種行事の企画、運営、に専念する一方、「矢吹活禅和尚頌徳碑」の建立をはじめ、「修行時代の良寛菩薩像」の建立、大梵鐘の再鋳、位牌堂等の伽藍の修復、加えて中国地方33観音霊場開設等々、寺門興隆の道を開き、在家の菩薩の育成に努めた
29世 活龍 哲明 和尚
道元禅師が帰朝して現在の福井県の永平寺に禅道場を創ったときの教えでは、他寺は造らないという方針であったようであるが、加賀(石川県)に東香山大乗寺を曹洞宗永平寺第三代の徹通義介(てっつうぎかい)禅師が開山として本山から離れた。
大乗寺第二代の螢山紹瑾(けいざんじょうきん)は、石川県羽咋(はくい)に永光寺をつくり、さらに能登門前町に總持寺祖院を開創。横浜の総持寺はここを発祥としている。
良寛さが修行した玉島円通寺は、大乗寺の徳翁良高禅師が開山。
徳翁良高は、法継問題や考え方に違いから円通寺を開いた。その円通寺第十世大忍国仙和尚の弟子として一等首座の位を得たが、第十一世として普住した玄透即中和尚とは真っ向から考え方に相違があり、良寛さは、進路を絶って円通寺を離れて以降、孤僧となってしまった。
同じ曹洞宗ではあるが、歴史が物語るように、始祖の考えは変化するものであるから、良寛さが道元お教えを蒙ったとは云え、どのように蒙ったのかとか、徳翁良高や大忍国仙の考え方がどうであったのかによって、13年間育まれた良寛さの曹洞禅となる。
これ一つとっても、表面的に捉える訳にはいかないようである。この問題を解きほぐすには、それなりの読み込みをする必要があるようである。
それにしても、なぜこのゆかりの円通寺から良寛研究家が出てこないのだろう。
▶ 12. 法系略図
曹洞宗総本山永平寺開祖道元禅師
↓
『正法眼蔵随聞記』の
永平寺第二世孤雲懐弉
↓ → → ↓
永平寺第三世徹通義介開創の
加賀の国大乗寺
(掟を破って
初めて永平寺から独立した)
↓ ↓
月舟宗胡(大乗寺二十六世)
(黄檗の影響を受ける)
→ 二十七世卍山道白 ↓
(永平大清規への復古)
↓ (黄檗の影響を受ける)
↓
卍山道白 を嫌い月舟 を継ぎ、
大乗寺住職後
徳翁良高・玉島円通寺を開山
(黄檗の影響を受ける)
↓ (↓) ↓
黙子素渕 → 悦巌素忻 彦根清凉寺高外全国
(黄檗の影響を受ける)
↓ ↓
↓→ 古岸大舟
↓ ↓ ↓
頑極官慶 大忍国仙(円通寺十世)
↓ ↓ (黄檗の影響を受ける)
玄透即中 大而宗龍 ↓ ↓ ↓
(円通寺十一
世・円通応用清規を編し ↓ ↓ ↓
黄檗を批判) 田面庵東岫有願
(古岸黄檗系)↓ ↓
↓ ↓→ 越秀 ↓
(東岫有願弟子)
灯外禅灯(円通寺十二世・ ↓
円通応用清規に基く法灯を継承) ↓
↓ 大愚良寛
復庵遵古(円通寺十三世・ (大忍国仙の法を継ぐが法系を絶つ)
玄透即中の高弟)
↓
(活龍哲明 円通寺 二十九世)
例えば円通十一世の玄透即中は、江戸幕府の要請で円通寺の和尚となったが、そこに留まらず、同じく幕府の意向で円通寺を去って一旦はある寺に普住するが、総本山永平寺五十世となった。
そして今日知るところの『正法眼蔵』九十五巻開版の指示をしたのは玄透即中であった。だから良寛さはおそらくこのすべてを知らずじまいになったと予想できる。
しかも、散逸していた『正法眼蔵』をこのように九十五巻に集大成したのであるが、その内四巻は元のものに玄透即中は付け足したようである。
良寛さにとってそのこと以上に重大なことが、この略図に記載されている。
良寛さの幼い時の寺小屋が出雲崎尼瀬の光照寺であるが、そこの玄乗破了は大忍国仙和尚の三番目の弟子であるから、国仙の教えでの玄乗破了であり、その影響下で育った栄蔵(良寛さ)が後に得度したのが国仙和尚であった。師弟の関係にはこのような縁があった。だから良寛さの師としてこの二人は有名であるが、実は良寛さにはあと二人の師があった。それが大而宗龍と東岫有願だったのだ。
更に付け加えれば、玄透即中の影響で玉島円通寺を飛び出したのであるから、玄透即中も師の一人と言える。
良寛さは幼少年期、名主見習い、出奔、その後の放浪、そして玉島円通寺の修行、そこを去って5年間諸方行脚・遍歴・漂泊し帰郷、半年後の40歳のころ五合庵 ... ここまでの間、自分探しをし続けた。その結果、現在私たちが知る良寛さとなったのであるが、そのきっかけは玄透即中和尚との、またもや確執からであった。
▶ 13. 苦行13年後、良寛さが師国仙大和尚から悟りを開いたことを証明されるまで、何を学んだのかに触れた書物をしらない
これが判明しないうえでの、その後の5年間の行脚・遍歴も、帰郷も、その後五合庵での修行も考えにくい。では玉島円通寺の13年間で何を学んだか?
視察するに、それはそれは尋常な学び方ではなかったと思われる。それは、良寛さの詩の中に読み取れる。「衝天の士気」で「寝食を忘れて」打ち込んだようである。道元は只管打坐(しかんたざ)を強調した。「ただ、ひたすらに座れ」ということだ。良寛さは修行僧の規矩や作法および任務も人一倍励んだだろうし、ひたすら面壁し坐禅に打ち込み貫いたと思う。もちろん、だからと言って何も考えずに座って居た訳ではあるまい。考えて考えて考え抜いたであろう。そのために経典は精読したに違いない。
そう、中途半端な読み方はして居ないはずだ。
ではそうして良寛さは禅僧として、玉島円通寺の修行僧として一体何を学んで考えて行ったか。このことについて説明された良寛研究本はわたくしは未だ知らないが、わたくしなりの推察だと、以下のようなテーマが玉島円通寺での13年間に積み重ねられたのではないだろうか。そしてその答えとして、何と何を縦横につなぎ合わせて、僧侶として何を為すことが大而宗龍和尚や大忍国仙和尚のように大成するのかを模索したのではないか。このテーマは、かなりヘビーであった筈との観点で、思い当たるテーマを拾い出してみた。さて、それが、やがて五合庵の後半から乙子神社社務所にかけての振る舞いや作品にどのようにつながって行ったのかを、突き止められる範囲で掴みたいと思っている。
記
18歳の頃、
なぜ生まれて来たのか
生きて何になるのか
自分は何なのか
人間とは何か
男とはどうあらねばならないか
長子はなぜ家を継がなければならないのか
発する言動がなぜ相手に伝わらないのか
なぜ人間はもめ事を起こすのか
起こして何になるのか
自分はどう生きれば良いのか
なぜ勉強するのか
勉強してどうなるものか
自分らしさはどのように形成すればいいのか
どのように人と関われば良いのか
どのような大人になればいいのか
どのような仕事が自分に合っているのだろう
自分は何をすれば自身満足となるのか
その仕事で何になるのだろうか
人としてどのように生きることが大切なことなのか
自分を取り巻く人々とどのように交わればよいのか
そのように生きて一体どうなるのか
何がどのように何になるのか
成ったところでどうなるのか
老いるとは何か
死ぬるとは何か
死んでどうなるのか
求めた生き方は死んだあとどうなるのか
意味はあるのか
意味は要らないのではないか
... などと。
「家を譲る、僧侶で大成するまで故郷に戻らぬ、それまでは便りをしない」と言って18歳で出奔したと言われている。そうであれば良寛さが選んだ道は僧侶であった。それも禅僧。しかも曹洞宗。そして国仙和尚と玉島円通寺であった。
何故かについても追々明らかにしていきたい。
おそらく上に示したような疑問や悩みと対峙しながらも結論が出ずに、若き文ぶん孝こう(のち法名:良寛)は、悩んでいたのではないかと思われる。
人を信じて疑わない。人は利害得失をむき出しに生きていることに関心を持たない。是と非の強調が激しく、いつも人は争っている。だが争いが終わるとケロリとしているところは見えるが、だが陰湿で陰険で根に持っていることには気づいていない。人がつまらないことに喜びを感じているが、自分はそれよりも勉学の方が楽しい。
どうして自分は皆に溶け込むことができないのだろう。なぜ父とはいつもぶつかり合うのか。 ・・・ このようなことにも自分が他人と少し違う点も感じていただろう。
将来名主の身が保証されていた。その職にふさわしい人物になるようにと、大人たちから目を掛けられていたであろうし、栄蔵(元服しての文孝)自身も懸命に実直に勉学に励んだ模様である。だが、身に着けた素養は、就く名主職に役立つ課題解決にはなかなか結びつかず、ますます世間のドロドロとした人間関係に振り回されて行った。
そこで文孝は、ぼんやりと「世を捨て山へ隠れよう」という願望が芽生えていた。
幼馴染で法弟であり道友の庇護者でもあった三輪左一が病死したあとの詩『上巳日游輪氏別墅、有懐左一』で述懐した。
「上巳の日輪氏の別墅べっしょに游あそび左一を懐うあり」と題した詩に、「与子従小少 共烟霞期有」云々とあり、これを昭和57年9月30日講談社発行『良寛詩集「禅の古典」』の著者入矢義高氏は、「君とは若いころから、ともどもに世を捨て山へ隠れようと誓い合った」と訳した。
これだけではない。その詩の前に書かれたと思われる詩『左一の赴至り、喟き然ぜんとして作る』の、「吁嗟一居士 参我二十年 其中 消息子 不許別人伝」を入矢義高氏の訳で読むと、「吁嗟(ああ)、左一居士よ。我が門に参じて二十年。其中(きちゅう)の消息は二人のみの知るもの。別人に洩らすことは許されぬ」がある。
さらりと読み過ごす内容ではない。
「我が門に参じて二十年」をどう読むか。誇張した表現の二十年だろうか。私は良寛さの記憶力の飛び抜けて良い点を信じる。例えば、上の詩の題「上巳の日輪氏の別墅(べっしょ)に游(あそ)び左一を懐うあり」は、三輪左一が病死した1807(文化 4)年5月 1日直後に書かれたようであるが、「若いころ君の別荘で遊んだ時のことだった」の「若いころ」は、良寛さの母の三回忌1785(天明 5)年 4月29日や、その年の夏に安居助化師を勤めた大而宗龍(だいにそうりゅう)和尚の行った結制夏安居(けっせいあんご)に参加したその時から22年も経った時点で「上巳」と記している。上巳とは、陰暦三月の最初の巳みのことだ。蜜々の約束であったとは云え、「陰暦三月の最初の巳みの日に三輪氏の別荘で遊び左一のことを思い出でて」と題している。「陰暦三月の最初の巳みの日」と、22年間も記憶していたのである。
良寛さの母おのぶの三回忌に国仙和尚東国巡錫(じゅんしゃく)のふれこみにしたがって良寛さは帰郷。
出雲崎の菩提寺円明院での法会に加わり墓参したのちの夏、新潟県新発田市紫雲寺村の観音院にて開催された結制夏安居(安居助化師大而宗龍)に参加した28歳の頃、左一は良寛さの門に参じたようである。
あの記憶力から、「我が門に参じて二十年」の「二十年」は、左一が病死した1807(文化 4)年の二十年前は、1787(天明 7)年であるが、25歳のころ良寛さは、玉島を離れた形跡がない。この頃の書簡も発見されていない。
良寛さが三輪氏の別荘で遊んだのは、良寛さが一時帰郷した時となるから、それは上記のように大きな二つの出来事があった1785(天明 5)年の4月29日から夏までの間のことであったと想定できる。
五言詩である。
「参我二十年」を「参我二十二年」とする訳にはいかない。しかも良寛さは手紙以外は期日を記していない。出自から始まって、殊更語っていないし、ましてや明確に詩に書いたものはないようである。
さて、入矢義高氏で付記された脚注では、「其中とは禅語で、其処または此処の意。言葉では表詮できない蜜々のところをいう」とある。良寛さが書いた歌にしろ詩にしろ、歌人や詩人のものとは違うと語っているのは、良寛さの作品にこのような、言葉では表わせないものがあることを指しているのであろう。
このとき二人は、言葉では表詮できない蜜々の約束は、「別人に洩もらすことは許されぬ」と契りを交わした。「ともどもに世を捨て山へ隠れよう」と。
「別人に洩もらすことは許されぬ」と契りを交わしたとあるが、晩年良寛さに接近して多くの歌を残した貞心尼にも同じように言っている。これは何を意味するのか。二人に共通した認識であるのかないのか。単純に秘め事を内緒にしようということではなく、語気からすると、もっと禅的な、あるいは仏法的な強い意志の表れかもしれない。
良寛さは、出奔して10年後、円通寺で30人の僧と修行中の28歳の頃既に、五合庵のような山に隠遁して修行三昧に明け暮れることを夢見ていたことになる。
これは、1775(安永 4)年7月17日夜、名主見習い落第となった文孝(のち良寛さ)は、弟由之へ「家を譲る、僧侶で大成するまで故郷に戻らぬ、それまでは便りをしない」と一筆し出奔し、しばらく放浪したが、18歳で出奔したそれ以前から良寛さは僧侶になることを漠然と決めていたのかもしれない。おそらく確信めいたものは円通寺十世大忍国仙大和尚と相見するまでは、定まっていなかったのではないか。
だが認識としては求めたそれは禅宗だった。菩提寺の円明院の真言宗ではなく、曹洞宗であった。ひょっとしたら、光照寺で得度する以前に、先のことを考えて決めていたのかもしれない。憧れの寒山が頭に焼き付いていたのかもしれない。だが道を求めたことは確かであった。そして自分探しで自分改革を図ることに邁進した。
その後、由緒ある禅門寺院備中玉島・円通寺で、国仙和尚の指導の許30人の修行僧と寝起きを共にし、黄檗禅を13年間修行。
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東司(トイレ)利用のしかた
1223年、24歳の道元が28歳の1227年(安貞元)年までの 5年間宋(中国)の地で禅の修行をし学んだ
「ありのままの姿がそのまま仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである」
ことの体得の一つに、トイレの利用のしかたがある。
道元が会得した叢林での規矩を撰述した「禅の清規」の中に書かれている一文に 、
「東司に上がらんと欲せば まさに須く預め往くべし 時に臨んで逼迫し 倉卒に致すことなかれ
(東司へおもむく際は、いかなる場合であっても余裕を持ち、あわててぞんざいな行動をするようなことがあってはならない)」
とある。
帰国後直ちに、坐禅の心がまえや作法などについて書かれた『普勧坐禅儀』を著され、また『正法眼蔵 - 洗浄の巻』で、弟子たちにトイレ利用の作法も綿密に定めた。
その実際を1996年12月20日新潮社発行の野々村馨著『 食う寝る坐る永平寺修行記 』で詳細を知ることができる。
良寛さも同様の修行を日常化していたであろうから、良寛さが実直にトイレに学んだ姿を想像するには良い参考資料であるから、その著から抜粋して紹介してみたい。
東司の作法。
東司に入ると、最初に正面に祀られた烏蒭沙摩明王に向かって合掌低頭し、『東司之偈』を黙唱する。
「左右便利 当願衆生 蠲除穢汚 無婬怒癡」と。
(大小便を行ずるにあたって、まさにすべての生あるもののために願わん。
汚れを除き去り、貪り、怒り、愚かなる三毒を滅却せしめんことを)東司は七堂伽藍の中で僧堂と浴室とともに三黙道場の一つで、声を出すことは禁じられている。
「まず東司に行くには、
必ず手巾を持つ。手巾は二重にして、左肘の衣の上に掛けるがよい。
そして東司に着くと、手巾を竿に掛けよ。
その掛け方は、肘に掛けた時と同じようにする。
もし袈裟をつけていたならば、袈裟は手巾と並べて掛けるがよい。落ちないように、ちゃんと並べ掛けるべきである。乱暴に投げ掛けたりしてはいけない。
衣は脱いで手巾の傍らに掛けよ。
そして手巾で衣を結わい、衣に向かって合掌する。
次に襷を取って両肘に掛けよ。
そして手洗場へ行き水桶に水を汲み、それを右手にさげ廁へおもむく。
水桶の水は、いっぱいにしてはならない。九分を限度とする。
廁の入り口では履物を、蒲で作られた草履にかえ、自分の草履は廁の入り口にぬぐ。これを換鞋という。
厨の中に入ったならば、左手で扉を閉めよ。
次に、水桶の水を少し便器の中に注ぐ。
終わって、水桶を正面の置くべき所に置く。
そして立ったまま便器に向かって、三度指をならす(これを弾指と呼び、一種の清めを意味する)。
その時、左手は握って左腰に置くがよい。
(小便を行じる場合、溝の上の壁に設けてある手摺りに左手を掛ける。
手摺りに掛ける指は小指と薬指だけに限られている。これは小指と薬指を不浄指と呼んでほかの指と区別し、神聖なものに使うことを禁じている。
よって不浄である東司では、おのずとこの不浄指を使う)
ついで着物の端を持って、(段に右足から上がり)両足で便器の両端を踏み、かがんで大小便を行ずる。(小便もかがんで行い、立ったまま行じてはならない)
両端をよごしてはいけない。前後にかけてはいけない。
この間、黙然としているがよい。壁をへだてて談笑したり、声を上げて歌ったりしてはならない。鼻汁や唾などをふりまいてはならない。にわかに、力んではならない。壁に落書きをしてはならない。厨の箆で地面をつついてはならない。
用を足したならば、
箆でふき取るがよい。また紙を用いる法もあるが、古紙を用いてはならない。字を書いた紙を用いてはならない。
(行じ終わると、また段を右足から降り、同じく三度弾指する)
次に、箆あるいは紙を使った後に洗浄する法は、右手に水桶を持ち、左手をよく湿らせたのち、その手を杓のようにして水を受け、まず小便のところを洗浄すること三度するがよい。
続いて同様に、大便のところを洗浄せよ。作法のごとく洗浄し、清潔にするがよい。その間、荒々しく水桶を傾け、水をこぼしてはならない。
(大便を行じ終えた場合は、偈文を黙唱する。
「已而就水 当願衆生 向無上道 得出世法」
水で洗浄するにあたって、まさにすべての生あるもののために願わん。
この上もないすぐれた仏道に入り、迷いの世界を解脱せんことを、と)
次に右手で着物の裾を整え、右手に水桶をさげ厨より出でよ。
蒲の草鞋をぬぎ、自分の履物にはきかえる。そして手洗場へ行き、水桶を元の所に置く。
次に手を洗うがよい。右手に灰の匙を取り、灰をすくい瓦石にあてて、研ぐの上に置き、右手で水を点じ、大小便に触れた手を洗う。
瓦石にあてて、研ぐようにして洗うべきである。たとへば、錆の出た刀を砥石にあてて研ぐようなものである。
このようにして、灰で三度洗うがよい。
次は土をもって、これに水を点じ洗うこと三度するがよい。
さらに右手に皂莢(マメ科の植物)の実の粉を取り、水桶の水に浸し、両手を揉(も)み合わせて洗う。腕におよぶ所までよく洗うべきである。
誠心を込めて丁寧に洗うがよい。灰三度、土三度、皂莢の粉一度である。合わせて七度を適度とする。
そして次に大桶で洗う。
この時、小豆の粉や土、灰などは用いず、ただ水か湯で洗うがよい。
一度洗ってその水を小桶に移し、さらに新しい水を入れて両手を洗う。
杓を取るには、必ず右手を使うべきである。その時、杓の音をたてたり、慌ただしくしてはならない。皂莢の実の粉を散らしたり、水置場を濡らすようなことがあってはならない。
次に共用の手拭いにて手を拭うがよい。あるいは自分の手拭いで拭う。
手をふき終わったならば、竿に掛けた衣の前に至って、欅をはずし竿に掛けよ。
それから合掌し、手巾を解き、衣を着る。
次に手巾を左肘に掛け、香をぬるがよい。
共用の香があり、香木でもって宝瓶の形を作り、竿に掛けられている。それを両の掌で揉み合わせると、おのずと香気が手に移るのである。
このようにすることは、すなわち仏国土を浄めることであり、仏国を荘厳することであるから、慎重に行い、慌ただしくしてはならない。急いで終わらせ、早く帰ろうなどと思ってはならない。秘かに、東司に仏法を説くという真理を忘れてはならない。
この後は手前の部屋に戻り、履物を換え、衣を着、身形をととのえ、再び烏蒭沙摩明王に向かって合掌低頭し、東司より出る。
叢林における行住坐臥のすべてに必要な規矩(きく)や作法を厳格に守り実践していくことが修行であり、そこに現れる一挙手一投足がすなわち仏法に他ならない。
道元の示す修行とは、
超能力や特殊な瞑想でもなく、また難行や苦行でもなく、日々の行いそのものの中に見出されるものなのだと言う。
そして、目的と手段を二分しない。
悟るための修行ではなく、そのひたすら修行していく姿が、すなわち悟りだと考える。
したがってそれは何者かに委ねるものではなく、自分自身の心と体で成し遂げなくてはならない。
「威儀即仏法、作法是宗旨」 … 開祖道元の教えに従って、曹洞禅はこれが綿々と続けられている。
修行僧としての規矩や作法および任務には、少なくとも次のようなものがる。
「洗面、浄髪、応量器(食器)の使い方、行粥、罰油、入堂、読経、朝課諷経、日中諷経、夜の勤行・晩課諷経、面壁坐禅、結制、本講(眼蔵会)、宗旨、教義、黄檗禅、便用、拝請、廻廊掃除等作務、開浴(入浴)、転役、公務点検、客の接待、添菜の納入、副行・接頭長・監行・監侍・監録・監院の任務、臘八摂心 … 」
良寛さも
ご多分に漏れず、玉島円通寺で13年間このようなことを繰り返しながら、「衝天の士気」で「寝食を忘れて」打ち込んだようである。
合わせて、
一と六のつく日には『妙法蓮華経小安楽行品』の法要・二と七のつく日には『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』の法要・三と八のつく日には『僧堂念誦』の法要・四と九のつく日には『妙法蓮華経如来寿量品』の法要・五と十のつく日には『妙法蓮華経如来神力品』の法要
が定期的に行われる。
法要に単に臨むことはなく、それぞれの法要で使われる経典は何が語られて、何を修得し、悟りにどのように活用し、人々のために活用するかの手段について身に着ける修行を良寛さも重ねたなずである。
この意味では、下記も同じように、理解し、了解し、納得したうえで、何を修得し、悟りにどのように活用し、人々のために活用するかの手段について身に着ける修行を重ねたと思われる。
後年の良寛さは詩『僧伽』 のなかで、
「 … 出家したはずの僧侶が、求道心を持たないというのは、その心の汚れをどうすればよいというのだろうか。こんにち、僧侶と称する者は、なんの修行も積まないし、また悟りを開こうともしない。そして、檀家からの布施を浪費して、身体、言語、心意の仏戒を顧みようともしない。それに、大ぜいの人を集めて法螺をふき、因習のまあい日々を過ごしているだけのことである。外面を殊勝につくろっているが、実は、それは世間の婆さんたちを迷わせているに過ぎないのだ」
と書いていることからも、円通寺の13年間の修行は、尋常でないくらい実直に真剣に自分のものにしていったはずである。
良寛さの、高い人間性や豊かで美しい霊性が生まれた基底に以下の経典・仏典の理法があったと思われる点に関して、これら経典・仏典の理法をどのように身に着けていったのかについて強い興味・関心を抱かさざるを得ない。その全容を把握してみるここでは、経典名・仏典名を俯瞰するにとどめるが、今後一つひとつ詳細に踏み込んでみたいものである。
では、円通寺13年間で良寛さが何を学んだかを俯瞰してみよう。
開経偈
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
日用経典の修証義
妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈
舍利礼文
普回向五観の偈
普勧坐禅儀
五観の偈(食事の偈)
正法眼蔵
伝光録
懺悔文
大悲心陀羅尼
修証観
修証一等
身心脱落
身心脱落という機縁
身心脱落の時期身心脱落
身心脱落の意義
付法説
多子塔前付法説と霊山付法説
道元禅師の付法説
天童如浄禅師の付法説
瑩山禅師の付法説
燈史にみられる付法説
如浄・道元・瑩山三禅師の立場を遶る考察
我執
悟と証
覚と証
得道
身心脱落と成道
如浄参学と身心脱落
大事了畢
結語
修道論
只管打坐
坐禅観
坐禅
仏道修行の用心 - 『正法眼蔵隋聞記』
積功塁徳
成道観
世界観
須弥山世界観
現成公案
現成公案の意味するもの
「現成公案」巻の冒頭の一節の解釈
古則公案
一則公案
自己と世界
心
「心」の分類 - 特に慮知念覚の捉え方
牆壁瓦礫
『正法眼蔵』における心
発菩提心
三界唯心
夢中説夢
結語
時間論
有時
経歴
前後際断
吾有時
結語
因果論
因果歴然
不落因果と撥無因果
因果超越
懺悔滅罪
結語
仏性論
仏性論の受用
悉有仏性
従来の仏性論批判
身現仏性
仏性論の諸相
結語
身心一如説と輪廻説
先尼外道説批判
輪廻説
身心一如説
結語
言語表現
著作選述の意図
道得
絶対同一
将錯就錯
道元禅師の思想
本覚思想
曹洞宗学
仏教学と宗学
学問とは何か
宗学とは何か
弁道話
典座教訓
永平広録の読み方
宝慶記の読み方
普勧坐禅儀の読み方
学道用心集の読み方
『修証義』総序の「順現法受業」について
教義と葬祭
仏法と世法
道元禅師の基本的立場
「世中の仏法」と「仏中の世法」
人を叱る法
ただ、する
口論の仕方
無常迅速・生死事大
他を救うということ
百尺竿頭一歩を進めよ
命を惜しむな
思い切ること
学道の人、衣糧を煩うことなかれ
猥談について
善き行いのむくい
人から訴訟の代理を頼まれたらどうするか
かたちと中味
捨てること
善いことをして悪いことをするな
人を救うとはどういうことか
人の言うことを気にするな
仏事の知識と心得
… の仏典や教義も人一倍懸命に、実直に身に着けたと思われる。
この修行で良寛さは、
修行僧として、僧侶として、禅僧として、若者として、学ぶ者として、人として、以下の課題を課題の一部として捉え、そして解決するために寝ても覚めても考え抜いたと思われる。
人間に関して、大智・大悲に関して、禅僧として何を学び修得し、衆生に何を布施すべきかにつて、難解な解釈を良寛さは、一つひとつの解決に真摯に取り組んだと思える。
良寛さの詩に、
憶ふ円通に在りし時 恒に歎じたりき吾が道の弧なるを 柴を般(はこ)んでは龐居士(ほうこじ)を憶(おも)ひ 確(うす)を踏んで老蘆を思ふ 入室敢て後(おく)るるに非ず 朝参常に先んず 吾昔静慮(座禅)を学び 微日々として汽息を調ふ かくの如くして星霜を経 殆んど寝食を忘れんとするに至る
と、自己に厳しい修行を13年間打ち込んだ様子が語られている。
そして後年の詩に、悟に達っしたことが書かれているが、悟り続けて、他の禅僧あるいは他宗の僧侶と同じように、上に列挙したような疑問は一切を解明し自分のものにしたに違いない。
委細承知のうえでの歌であり詩であるから、
「歌人の歌でも詩人の詩ではない」
と語ったのだ、と思う。
得た答えは、実践に移して効果や成果(目的・目標)を出さなければならない。
その方式は、旧来どおりの曹洞宗のあり方で、本当に達成できるのだろうか。
大而宗龍(だいにそうりゅう)禅師の行った結制安居、授戒会、石経堂内に願主の氏名や戒名、授戒会に参加人々の氏名や戒名を石に彫り込む事業も良寛さの今後の在り方の選択肢にあるのかもしれないが、出来ること出来ないことがあるし、檀家制度で住職としてその土地に根差すという道も選ばない場合、どのような立場でどのように得た知識や知恵(智慧)を生かすかが、修行中の良寛さの最大の関心事であったろうと思う。
その中にあって、円通寺六世兀甎恵鏡和上のとき調製された『黄檗』鉄眼版の大蔵経6956巻からも良寛さは、学びとろうとしたのではないだろうか。七世の大底元石和尚は道元禅の神髄「身心脱落」の求道三昧の先達であったそうで、これは十世大忍国仙に継がれ、良寛さに浸透した節がある。
円通寺開山の徳翁良高大和尚は、「規矩大乗(きくだいじょう)」といわれた修行規則の厳しい人で、国仙にも脈々と受け継がれるなど円通寺は西来家訓を定め、実践した修行道場であったそうだ。
そして、寛政異学の禁のあった1790(寛政 2)年。33歳のとき、師から修行僧29番目に印可の偈を受け、法階で言えば「和尚」・「瑞世」の下位である「一等首座(僧侶として出世の始めが首座(しゅそ)職である)」の位を得た。
この当時玉島円通寺の先輩・26歳年上の仙桂和尚の生き方に刺激を受けていたことに未だこの時は気づいていなかった。それは、人のために畑仕事しか行わなかった仏法者としての生き方であったが、良寛さが、仙桂和尚の仕事を見て、にわかに「掴むものはこれ」と気づきはじめて認識したのは後のこととなった。
この大先輩も、1804(文化元)年10月16日玉島圓通寺の僧・仙桂病死。享年73。
師国仙示寂後普住した十一世・玄透即中和尚(62歳)は、隠元によってもたらされた中国の『黄檗清規』を批判し、円通寺にあって『円通応用清規』を編し、雲水修行の厳正を期したことで、13年間身に着けた教えが剥がされた。因みに30番目に印可の偈を附されたのは尼僧の義提(ぎてい)であったが、黄檗が認めた女性の修行僧も玄透は認めなかったと言われている。
円通寺の13年間、曹洞宗黄檗禅、磨き上げた黄檗禅の「黄檗」についてはこれからの勉強になるが、この黄檗には、「念仏」が存在することを知った。
念仏と言えば、「法然と親鸞の一体化した念仏の中に日本的霊性が育まれた」と、鈴木大拙は説いている。この思想が黄檗に内在しているという。後年五合庵に在ったころのことであろうか、良寛さは「南無阿弥陀仏」とよく揮毫した。そして墓も浄土真宗の寺にあるのと関係しているのかもしれない。
良寛さの円通寺13年間の修行は、
この黄檗に影響され、その後その種の影響は大きく受けていない模様を鑑みると、良寛さの作品は、知性・感性・徳性に加え、日本的霊性を含むバランスによって美を形成していると思えるのだ。
ここの知性には、
禅修行によって得たもの、そして感性には御詠歌のリズムが、あるいは悟りを繰り返して、
人として一番高いところの徳性が備わり、そして日本的霊性ということになる点において、やはり良寛美の礎は円通寺13年間の修行であったと言えるのではないか。
▶ 14. 玉島円通寺を離れて以降良寛さは僧侶でなくなっている
1790(寛政 2)年 円通寺にて修行12年目の良寛さ33歳。
師・国仙より、修行によって悟りを開いた証に印可の偈と一等首座の位を授けられ、円通寺の境内・覚樹庵を預けられ、覚樹庵主となった。
この12年間良寛さは人一倍修行に励んだことは後年詩に書いてあるところは周知のとおりである。生来、愚直なまでに自分を鍛え上げる一途なところがあるから、相当苦労して掴み得た悟りの境地であったことは想像つく。逆に言えば、禅で悟るということがどれだけ大変なことであるかの証とも言えよう。
そういう意味では、ようやく掴んだ悟りであった。やり遂げた充実感が目に浮かんで来る。
ここまでの良寛さが何を目的・目標にして修行して来たのかについて、本人に記述がないので憶測しかできないが、おそらく苦行を積み重ね、師・国仙より印可の偈を授かることを目的にしたと思われる。
そして禅の修行僧としての最初の位の首座、それも一等首座の位を授けられ、覚樹庵を預けられ、そこの庵主となったのであるから、たどり着けた充実感は例えようがなかったに違いない。
しかしこのときは、大先輩の仙桂和尚が真の道者であったことには気づいていなかった。
その後郷里に戻り、40歳を超えた頃の五合庵で思い出したとき、
「仙桂和尚は仏道におけるまことの求道者だった。昔ふうの風貌で 飾り気がなく余計なことを言わない先輩であった。三十年間、国仙和尚の教えの下に居たが、只管打坐の道元禅であるはずであるが、坐禅にも加わらず 経文をも読まず宗門の教えの一句さえ口にしない。そしてただ 畑で野菜を作り 私たち修行僧に供えてくれていた。師国仙も黙ってそれを見ているだけであった。
当時、私(良寛さ)は この姿をよく会って見ていたのにその本質である真の姿を見抜くことができなかった。ああ 今さらながら仙桂和尚を見ならおうとしても それはできない。仙桂和尚こそ仏道におけるまことの修行者であった」と述懐している。
印可の偈を授かった翌年 3月18日、師の大忍国仙、玉島において病で遷化。69年の生涯であった。
隠元禅師の黄檗の思想を受け継いでいた国仙和尚であったことは、その後の良寛さにとって多大な影響となったのであるが、おそらくそのことも未だ気づいていなかったと思われる。
道元の曹洞宗の禅僧としての13年目の良寛さであったが、師国仙を通じて隠元禅師の黄檗が修行に沁み込んだ。
大きな存在であった師を失った落胆はいくばくであったろうか。これは明らかに転機であると考えたであろう。
そうしたとき、追い打ちがあった。2か月後の5月7日、今度は幼少年期の漢学の師の大森子陽が病死したのである。享年54であった。良寛さとは20しか違わない若さであった。悲しみに打ちひしがれて放心状態ではなかったろうか。
その中、 9月に玄透即中が、円通寺十一世として普住。
良寛さよりも28歳年上の62歳であった。継父以南はこの時56歳であったから、十一世は国仙と同じく父親以上の高齢者という印象を持っていただろう。
そしてちょうどその頃、以南は俳諧の道で身を立てるべく最後の旅に出た。だが前途は厳しく、結局二度と故郷に戻ることはなく、絶望して京の桂川に入水し、果てた。
このような重圧が双肩にかかっていた良寛さに、決定的なことが起きた。
師の大忍国仙の黄檗が十一世玄透即中によって否定された。『円通寺応用清規』によって、13年間打ち込んだ禅、その結果得た悟りの証が打ち消される格好になった。良寛さにとって円通寺での行き場を失ったのである。
江戸時代初期の曹洞宗も臨済宗も暗黒時代と言われるほど衰退していた中に、明朝風の中国黄檗が入り込み、浸透して行って、禅宗教界に革新的な刺激を与えていた。国仙和尚もその流れで禅を身に着けた。
永平寺すら黄檗風の僧堂になっていたくらいだ。
1664(寛文4)年の『永平衆寮箴規』を皮切りに、『日或曹洞初祖道元禅師清規』、『永平衆寮箴規然犀』、『略述赴粥飯法』、『吉祥山永平寺衆寮箴規聞解』、『衆寮箴規寂参』、『典座教訓聞解』、『吉祥山永平寺寮中清規』と注釈が次々に書き直されて、始祖の教えを叢林で履習せしめようと活発化して行った。
このように明規(黄檗清規)から古規復古で反檗思想を主張した玄透即中は、その後永平寺五十世に上って曹洞宗中興の祖となったこの人が良寛さの上で権力を行使した。
玄透即中によって玉島円通寺を追放されたという説も、自ら退去したという説もある。いずれにしても良寛さはその年に円通寺を去り、諸方行脚・遍歴となる。
足かけ5年、行脚は続いた。行き先々の寺で正法眼蔵を拝借して読み漁りながら、道元禅の奥儀修得を心がけたようだから、禅僧を捨てた訳ではないだろうが、実質僧侶ではなくなって居る。「僧」は集団名詞で、「皆揃って」という意味で、少なくとも三人以上一所に集まらなければ僧とは言えない。帰依僧というのは、一人の坊さんに帰依することではなく、団体に帰依することとなっている。
このことは百も承知の良寛さであった。
諸方行脚・遍歴を繰り返す中で、門を叩いたことも幾度もあったに相違ない。家を捨てた20年くらい前に、弟の由之に手紙で「家を譲る、僧侶で大成するまで故郷に戻らぬ、それまでは便りをしない」と言った良寛さ。行き詰って居た。5年目となるころには、諸方行脚・遍歴などという動きではなく、まさに漂泊・漂流の感であった。
後半、九州長崎にまで足を伸ばしたようであるが、目的は何であったろうか。ちょうどこの頃、雲仙が大噴火し、被害者が相当数出たので、救済に向かったのではないかと見ているのであるが、元来、僧侶として献身的に人々のため尽くすというタイプではなかったようで、求道を続けながら、歌などの文学が頭から離れなかったと言えよう。
普通の人であれば、身を粉にして働き、稼ぐところ、一切それをやろうとしない四十歳前の良寛さであった。
一度や二度悟ったからと言ってそれで終わりとは思えない。かと言って、例えば般若心経の神髄を読んで理解できたから悟った訳ではないだろう。
行き先々の寺で正法眼蔵を拝借して深読みを続けたようであるが、これも納得したから読み終えたのではなく、納得したことを更に深く考えて、場合によっては確かめてみたり体に沁み込ませながら修得して行ったと思われる。
そして、修行で悟ることが目的ではなく、何のために悟るのか、悟ったあとどのような生き方を始めるか、その結果の姿は何かなどの自問自答はあったと思われる。
円通寺は離れた。
その時点で僧侶ではなくなったのであろうが、良寛さはそう思っていない。いないところがやはり良寛さだと思う。道を求めることは放棄していない。形にはこだわらない。確かなものをつかみたいという思いは少しも消えていない。このときの良寛さの願望は、それから何年かのち、五合庵で最終悟達するのであるが、それまでは考え抜いて、空にしての繰り返しで試し続けたようである。諸方行脚・遍歴は記録に残ってはいないが、天涯孤独を貫き通してまでも求道の精神は外さなかった。
苦しんでいたり悩んでいたりする人が居れば助けてあげる僧であることも、明日のため今日のために食うそのために、俗に還って働き出すことも実行しないのは、それらを超えたものを目指していたからだと思う。
そんなとき、同じく先が見えない以南が京に上り、最後の挑戦を試みようとしたそのことを由之に手紙で「由之から兄に伝えてくれ、父は京に上る。良寛に会いたい」とその意思を知らせた。そして良寛さが長崎に居ることを伝えられた以南は脚気を患っていたが長崎で探した。
希望は叶えられず帰京した。そして死を覚悟して桂川に身を投じた。
以南の心中は、「私が悪かった。許してくれ。大成せずとももういいではないか。せめてお前には故郷に帰ってくれ。衰退し続けるお前の生家で弟たちが苦労している。助けてやってくれ。僧侶として励ましてやってくれ。頼む。皆を護ってやってくれ。俺はもう出来ぬ。足が言うことを利かなくなった。面目も立たない。俺の代わりになって救ってやってくれ。故郷の人々はお前の帰りを待っている。故郷の人々を救ってあげれば良いではないか。それがお前の本望ではないのか。大成するまで帰らないなどと、片意地を張る必要がどこにあるというのか。帰って救ってあげて、それからゆっくり大成すればいいではないか。私は心からそう願っている。もうこれ以上漂泊の苦労はしなくていい。俺が替わってそれをやるから。 ... 」このような気持ちが働いていたのではないだろうか。
頑なになっていた良寛さは、以南入水後、故郷に戻った。そして大成した。
以南は入水の折、辞世を長子にと、頼んだ。受け取った良寛さは終生それを身から離さなかったという。
では、良寛さは、以南の辞世の何に触発されて故郷に帰る決意を固めたのか。
小林一茶の『株番』に以南の辞世や経緯が語られている。だが発行されたのは以南入水後18年経ってのことであった。あまりにも時が立ち過ぎている。これは何を意味するのか。
以南は勤王の志士としての動きがあったのではないかとの説はあるが、調べたかぎり接点はない。
弟香は何故か27歳という若さで 父以南と同じ桂川に入水し、その墓は東福寺で眠っているらしい。東福寺は勤王の志士ゆかりの寺であった。確かめてはいないが、謎の多い香であった。
14 - 1) ■ 了寛と良寛の使い分け
良寛さは出奔してから出家(得度)し、曹洞宗(禅宗)第十世大忍国仙大和尚から「良寛」の法号を与えられるまでは、了観と名乗っていた。
この名は、光照寺の玄乗破了和尚が、自らの「了」を取って仮の法号として名付けたと言われている。
では「観」はどこから出てきたのだろう。
良寛さが円通寺で修行 7年目の1785 (天明 5)年(28歳)4月に、新潟・出雲崎での母の三回忌に参列することが許され、帰郷したその翌月から、8月までの 3ケ月間、新潟・新発田紫雲寺村の龍華山 観音院で実施された「夏安居(なつあんご)」にも参加した記録が残っている。
それは云わば、「大而宗龍(だいにそうりゅう)和尚プロジェクト24年目」のことで、良寛さはここで、時間を知らせる役を担当しながら修行に参列した、とある。
記録簿に、
「備中円ゆう寺徒了寛香司」
と書かれたことからそのことが伺える。
備中は岡山県。「円ゆう寺徒」の「ゆう」は「通」に読み取れる書体であるという説があるから、円通寺の「徒」つまり修行僧(雲水)。「香司」が時間を知らせる役。
直視すべき点はまぎれもなく「了寛」とサインしたことにある。
普通何もなければ、国仙大和尚の「備中玉島円通寺の修行僧の良寛」と書くべきところ、「了寛」とした。
国仙大和尚の弟子としてではなく、かつて観音院に宗龍禅師に相見したそれ以来、志の強かった青年の心にこの禅師を師と仰いでいたから、ここでの身の置き所は、「宗龍禅師の弟子」として修行させていただきたい、という気持ちからではなかったか。
円通寺での修行13年間は、1785 (天明 5)年 5月~8月まで以外は「良寛」で通したが、1791(寛政 3)年良寛さ34歳の3月18日 雲水修行の印可偈を授かり、3~4か月後師の大忍国仙、玉島において病で示寂(世寿69歳)を受け、9月に玄透即中(62歳)が円通寺に十一世として普住。ちょうどその頃以南(56歳)は最後の旅に出、京に入る。
おそらくこの年、良寛さは追放か、または退去か。いずれにしても良寛さは「修行僧が一堂に会して教えを共に学び、法系に沿って曹洞禅を継承する」始祖道元の掟を破って円通寺を去った。この時から名を「了寛」に戻した。
円通寺を離れ、諸方行脚・遍歴・漂泊し、土佐(高知県)に脚を踏み入れた1794(寛政 6)年のとき、師と宿をともにした万丈(まんじょう 国学者・歌人近藤又兵衛)が18歳のとき、同宿の僧に字を書いてもらったら
「越州の産了寛書す」
とあったことが万丈が著した『寝ざめの友』にある。
以南入水の知らせを了寛は行脚 5年目のどこかで受け取って法要に間に合うよう舞い戻ったが、その宛先が「了寛」であったのか「良寛」であったのかな不明だが、「了寛」で通していたはずであるから、どのよう知らされたのかしりたいところである。
それはともかく、土佐に居たのは1794(寛政 6)年で、良寛に会いたくて京都から長崎に探しに出かけたが、会えず仕舞いで戻ってきた後小林一茶に、
「天真仏の仰によりて、以南を桂川の流にすつる」を前置きに、
染色の山を印に立おけば我なき迹はいつの昔ぞ
の歌を託し、その年の秋に以南は入水した。
このことは、一茶の著した『株番』に入水の経緯を短い言葉で掲載され、一般に公開された。
良寛さが翌年の1795(寛政 7)年8月に上洛した遺児達と共に以南の法要を執り行いそこで歌や句を詠んだとき、彼は諸方行脚中「了寛」で通していたが、このときは法号の「良寛」と記していた。
1796(寛政 8)年またはその翌年 良寛さ39歳(40歳)のとき出雲崎に帰郷した。
「塩焼の廃屋小屋」をねぐらにして托鉢を続け、名主橘屋の文孝(ぶんこう)を覚られないよう身分を付していたこの頃は「了寛」と名乗った。
帰郷後した後、半年間は「了寛」と名乗った。
1812(文化9)年に刊行された挿絵は葛飾北斎の橘崑崙『北越奇談』の中に「了寛」で紹介されていることからもそれが伺える。
帰郷後の弟妹にたいしても、文孝や了寛ではなく、良寛とした。
そして、五合庵以降はすべて自らを「良寛」で通した。
このように、使い分けた。
特に、以南に向き合っているときは、つまり捨てた過去には、「良寛として」で、「文孝」でもなければ、ましてや光照寺時代の得度前の「了観」または大而宗龍和尚のプロジェクトに加わったときから五合庵までの「了寛」でない。以南にしてみればかつて得度して「良寛」の法号を与えられたのであるから、当然良寛のことは「良寛」と認識していたと思われるし、良寛さ自身は以南にたいし向き合っている自分は「良寛」であった。
母の三回忌で帰省し以南と7年ぶりに再会したであろうときも、円通寺で修行中の身であったから、
「良寛」であった。
だからその後、以南が、脚気を煩いながらも長崎に良寛を探したときは、「了寛」を名乗って行脚していることを由之から聞き及んでのことだったと推測できる。
これには、出自や出奔については口をつぐんだ理由があったようだ。
▶ 15. 以南の辞世と良寛がそれに返した句と歌対比にみる帰郷
以南は入水という手段で、良寛さを帰郷させようとしたきらいがある。その詳細は別に置くとして、これに関係したことに、「以南の辞世と良寛がそれに返した句と歌対比」がある。
これで読み取れることは、以南の意図を辞世に込めて、それを法要で駆け付けた良寛さが句と歌で返したが、その内容を見るかぎり良寛さは以南の切なる願いに正面から呼応している。
この辞世を見るまでは以南を赦していないし、郷里越後に帰るつもりもなかった。だが、許した。
そして帰郷の決意に至った。
以南の入水は、他に原因は有ったものの、それらを抑えて長子良寛さの帰郷を促すことに集約させた。これが以南の父親としての最後の愛情であった。
尚、序の話であるが、法要の場で詠んだ良寛さの歌の「朝霧の中に君ますものならバ晴るるまにまにうれしからまし」は、良寛さの作ではない。親兄弟の言うことも聞かず出家して比叡山で僧になった戒仙(かいしょう)法師の客人の歌で、やはり反対を押し切って僧侶になった境遇の身として、お返しにこれを用いた。
この歌の意味は、「もしこの朝霧のなかにその人がいるのであれば霧が晴れるにしたがってうれしい気持ちにもなれるだろうに。実際はもうその人はいないし、うれしい気持ちにはなれずにいる」と、父の死を認めたくない子の気持ちを表した歌である解釈である。この客人は紀貫之か紀友則と言われている。
だが、この歌の返歌に戒仙が詠った「ことならば晴れずもあらなむ秋霧のまぎれに見えぬ君と思はむ(晴れないで欲しい。見えないそのままでいい)」の、この返歌には一切良寛さは触れていない。それは、以南のこの世から姿を消す行為にたいする配慮からだったと思われる。
▶ 16. 40歳代の10年間を如何に生きるか、に影響したと思われること
ヒトの一生の価値は、四十歳代の10年間で決まると思わないか。この10年間で何を成すかが重大なテーマである。
もう一つ言えることは、35歳は岐路になる。
それまでの育った半生にたいし、育てたものを如何に活かすかの模索や迷いの頂点が、ほぼ35歳前後ではないかと思われる。
つまり、吹っ切れた後の四十歳代の10年間が人生の勝負の時間となるのであるが、30歳代後期はその準備のために極めて重要な時期となる。ここ次第で結果が変わるからだ。となれば、それ以前の育成期間、すなわち、幼少期から35歳頃までの育ち方は、50歳から振返って人生設計したほうが良いようである。
この設計次第と一口に言っても分かりにくいところであるが、この本稿全編とまでは言わないが、それなりの課題やテーマがあるから、その整理は自分自身でおこなうしかない。
いずれにしても三十歳代後半と前半はどうすべきかであり、二十歳代も十代もそのために何を吸収して身につけるかであろう。
結局、これからの青年や大人たちのためになることを成して、それを伝えて、つないで行くことが肝要で、そのために生まれて来た理由であり、なぜ生きているのかであり、自分のためにではなく他人のために何が出来るかであろう。
何かを成さなければならないと思われる。
四十歳代の10年間が充実すれば、五十歳代も六十歳代もその付録となる筈であるが、テンポの遅い人はそれに合わせて後段にずらせばいい。
このような考え方を基にして、良寛さの場合はどうだったのだろうと整理して探ったところ、ものの見事に同じように当てはまったのである。
四十歳代の10年間、自分は何ができるか。自分らしさを不動のものにするため、良寛さがこの10年間の集大成や目的の想定される自問自答テーマが、幾つもあったことが見えてくるのである。
▶ 17. 良寛さの生き方と良寛美に至る20の出発
良寛さは、18歳の時から、51歳までの33年間に、自分探しで20回の大きな出発を試みて、果たした。
その経験は、どれも自分探しの修行と関係していて、艱難辛苦の連続でもあった。事あるごとの出発の扉をすべてを開けて、現代の私たちに、人として「最後はここ」の、生き方を見せてくれている。
その結果、良寛さは、100年後も200年後もずっと問いかけながら生きつづける永遠の人となった。
その結果を出すまでに20の扉を開く出発があった。
では良寛さにとっての、そして良寛美を創造に至る良寛さのテーマは何であったか。それを知ることは、わたくしたちの生き方を示唆してくれるに違いない。
▶ 18. 「テーマ良寛」の答え
結局、良寛さは、「なぜ生まれてきたのか。どのように生きるべきか。死という大出発のしかた」をひたすら求め、33年間という長き修行の末、心血を注いでこれらを悟った。そして悟ったことを、書・歌・詩などに、そして奇行を逸話として置き換えて遺した。
すべての答えは、この2,000点にも及ぶ作品に込めた。それで、人として、僧侶として、人々にたいし真摯な態度で伝えた。伝えられた私はそれを如何に生かすかが、良寛さにたいするお返しとなる、このことがおそらく「テーマ良寛」の答えだろう。
▶ 19. 良寛さの作品の「美」の要素を成す「ご縁」
良寛さの作品の書、歌・詩などどれをとっても一級の美しさがあることは、誰もが認めるところで、特に各界に於いて頂点を極めた人ほど絶賛している。
それぞれの見識者が放つ絶賛の言葉の数々は、それを聞いていて、素直で自然発露が多いから聞く方にもストレートに伝わってくるのだろう。
それはそれとして、先ずご自身の力量などについて何がそうさせているかについては多くの研究家がそれぞれのお立場で分析されているので興味深いのであるが、わたくしのばあい、若干観点を替えて捉えている。
それは「資性」は言うまでもないが、これに良寛さ独特の「感性」がある。そして良寛さならではの「知性」が加わる。これだけで「美」は十分構成されるのであるが、忘れてはならないことに「徳性」がある。
帰郷して半年後五合庵で修行を単独で行うという稀有な経験を積みながらその技を熟成させていくのであるが、1800(寛政12)年 歌道に優れた国学者大村光枝(48歳)が江戸より越後国上山五合庵にやって来た。この刺激は40歳代の人間形成にとても大きな衝撃を与えた。おそらく良寛さの歌は、この訪問が大きなきっかけとなり結実へと進んだと思われる。それほど光枝の来訪は良寛さに大きな影響を及ぼしたといえる。
その反面、光枝にとっても胸をときめかして会ったであろう良寛という人物の大きさに驚いたと思われる。このような、大きな人物同士の出会いというものは、やはり何につけ歴史をつくるのであろう。
良寛(43歳)さを訪れたそのとき、大村光枝も良寛さのことを「大徳」と呼称したそうである。良寛さは3年前までは、一介の無名に近い野僧であった。しかし五合庵に住むようになっての3年後には人々は「禅師(ぜじ)」とか「大徳」と良寛さを尊称していたという。因みに禅師とは、大本山永平寺貫首を尊称してそう呼ぶそうである。光枝は、会えて本当に良かった。来る甲斐があった。これからの自分に大きな影響を及ぼすであろうことを肌で感じたと思われる。
その年の7月大村光枝は再び良寛さを訪ねている。その晩は五合庵に居たようである。二人は一睡もしていなかったのではないか。翌日も光枝と歌を唱和。そして辞去時、更に旋頭歌交換した。翌年も光枝は江戸から良寛さを訪ねている。
円通寺十世大忍国仙大和尚の下で13年間真剣に修行に励んで初めて得た位は首座であった。
そのご玉島円通寺を去ってからはどこの寺にも属していない一介の野僧・乞食僧の良寛さが帰郷3~4年で、江戸から著名な学者を呼び寄せ、崇敬の念で「大徳」と言わしめるほど、良寛さの芸術性は認められていたのであるが、
その基底に、資性・感性・知性に加わえ、徳性がこのときすでに備わっていたことは先述したとおり。
未だ勉強中のテーマではあるが、間違いなく「日本的霊性」が沁み込んでいる。鈴木大拙の説によれば、法然と親鸞二人が完成させた日本における他力にこの日本的霊性が存在するという。
良寛さは曹洞宗の禅僧であったが、玉島円通寺を離れてからは曹洞宗など禅寺との接触が少なく、もっぱら空海の真言宗の寺院に世話になっているが、良寛さの行きついたところは、浄土宗と浄土真宗の他力であったようである。
では良寛さの作品の「美」の要素で、ご自身の力量などの部分を除いて、決定的な要素を成す「ご縁」には何があるだろうか。
もちろん貞心尼とのご縁はあるが、良寛美の構成はそれ以前に完成しているから、貞心尼以前のと言い直した方が良いのだが、一つは幼少年期の大森子陽の漢学や光照寺での寺小屋での勉学も基礎部分があると言えるだろう。生家橘屋の蔵書には西行本もあったから、それらにも影響を受けたであろう。
そして先述したが、江戸文化を直接触れさせた大村光枝やその後深く関わる亀田鵬斎との出会いも大きい。
この二人は火付け役となった。
ここで詳細は省くが、弟子・遍澄の功績は大きい。原田鵲齋(有則)や阿部定珍らの歌などでつながった庇護も大きな支えとなった。ここまでご縁の5つまでを述べた。
この他にご縁は3つ在るのであるが、その一つは四人の道友との出会いと切磋琢磨であった。
5歳年下の幼馴染で漢学塾の学友、良寛さの法弟であり道友であり庇護者の三輪佐一、20歳年上の東岫有願、真言宗の僧隆全、そして禅僧大忍魯仙の四人の存在がなければ、今日の良寛さも良寛さの作品も無かったと言える。
隆全は良寛さよりも23歳年下の道友であった。良寛さ歿後 5年の1836(天保7)年に、『良寛法師歌集』(良寛の歌124首、旋頭歌(せどうか)2首・長歌1首)をまとめた。(良寛歌集の稿本としては最古のもの)を公刊した。また、遍澄を良寛さの弟子にした功労は大きい。
大忍魯仙は良寛さよりも23歳も年下であった。有願、良寛さに並んで北越の三沙門の一人と目されていた人物である。京都松月堂で上梓した『無礙集』で、良寛さの詩には心が詠まれていると書いた。
良寛さにとって生涯の道友は誰かと言えばこの四人しか居ない。四人しか居ないとはどういうことか。それだけ深いということだ。
そして四人に共通することは、相性が合ったということだ。年が親子ほど違っても道友は成り立ち、相性の良さもあり得るということだ。
23~28歳も若い道友ということは、それだけ彼らは若くして優れた人物であったということである。
当時、良寛さの作品にたいし、手厳しい批判もあったようである。
特に良寛さの漢詩は、平仄や押韻の規則にこだわっていないこと(格調漫)を、人は非難していたそうであるが、それを聞いた同じ曹洞宗の禅僧大忍魯仙は、良寛の詩は心が詠まれていると言って弁護した。
25歳のとき魯仙は、自詠の歌集『無礙集』を出版するなど歌に優れていた。そのなかに、「懐良寛道人」と題して、良寛さ賞揚の語をなしている。
懐良寛道人
良寛老禅師 如愚又如癡 心身総脱落 何物又可疑 不住多利境 不遊是非岐 朝向何処往 夕向何処帰
任他世人誉 任他世人欺 師曾到吾盧 告吾微妙辞 吾亦久抱病 因師既得医 其恩実無限 何以又報之
大忍魯仙24~25歳の頃の詩である。
これの、渡辺秀英著『いしぶみ良寛 正編(考古堂復刻版)』での読下し ...
良寛道人を懐おもうう 良寛老禅師 愚なるが如く又癡ちなるが如し 心身総べて脱落し 何物か又疑うべき
多利の境に住とどまらず 是非の岐ちまたに遊ばず 朝あしたに何れの処に向ってか往き 夕ゆうべに何れの処に向ってか帰る
他かの世人せじんの誉ほむるに任せ 他かの世人の欺くに任す 師曾かって吾が盧ろに到り 吾に微妙の辞を告ぐ
吾もまた久しく病を抱き 師によりて既に医するを得たり 其の恩実に限りなく 何を以て又これに報いん
良寛さは僧侶であったが説教は行わなかったようであるが、大忍魯仙だけには仏法を説いて教えている。
その魯仙が31歳の若さで3月に病で示寂。良寛 さ54歳が牧ヶ花の観照寺庵に暮らしていたころのことだった。
1803(享和 3)年から8年間、濃密な付き合いである時は微妙の法門を説き、詩歌や生き方で真実相や面目を感得させた。魯仙を訪ね、数日間一言も語らず詩歌の贈答をしたこともあった。魯仙の病を全治させ「そのご恩は全く無限で、どうしてお報い申し上げたらよいでしょう」と詩で残した。わが子のように若い魯仙であったが、互いにわかり合えた気の合った二人であったが「大忍は俊利な士 屢話す僧舎の中 一たび京洛に別れてより 消息杳として通ぜず」と贈った。
魯仙が示した「良寛さの心身総脱落」とは何か。
良寛さは出奔した18歳のときから、玉島円通寺で修行し、西方に行脚してのち、越後に戻り、国上山中腹の国上寺五合庵に身を置くまで、自分探しを続けたのではないかと考えている。
良寛さは「私とは何か」を考え抜いて、その上で「これが自分だ」といえるようなものはひとつもないことを悟った。
すべてのものが無限に入れ替わり続けていて、「自分」もその例外ではない。これが、「無我」であることにつながり、そして、人生の苦しみの根源が「自分」であると悟った。心身総脱落に至った。 ・・・ と解釈できる。
そのうえで、「楽しく生きる」ところに帰着したと思われる。書・和歌・漢詩・俳句などに親しんだのも、名もない地元の暮らしに溶け込み、奇行を為したこれらは心身総脱落の先の楽しく生きることからではないか。
埼玉県深谷市矢島744の慶福寺に眠っている。
6年後の1817(文化14)年秋冬の頃良寛さは、出雲崎から旅して江戸へ向かう手前の深谷の慶福寺に立ち寄り、大忍魯仙を弔った。良寛60歳。
令和2年正月6日の良寛さの命日(良寛忌)に、わたくしは良寛さの享年と同い年になった記念に慶福寺を訪問し、203年前の墓参の良寛さを偲びつつ魯仙和尚の眠る墓に「もっともっと長生きしてほしかった」と、掌を合わせた。
最寄りのJR高崎線深谷駅から慶福寺へはバスは利用できない。徒歩では1時間は要する。
(当時良寛さは、新潟県燕市牧ケ花959辺りの観照寺庵跡地から出発し、現在の国道352号経由で行かれたと思われるから54時間歩いてやって来て、魯仙の霊に掌を合わされた)
深谷駅からは、浅間山を目指す方角で、アクセスは、先ず、大塚島74-1のフラワーショップ「ブルーモルフォ」が目標となる。ここで手向ける花を手に入れて行くのもいいだろう。
その先のコンビニストアのある「内ケ島」交差点を突き抜け、次の交差点を左折。深谷バイパスを北へしばらく行くと右に曹洞宗慶福寺山門が見えてくる。
通る道は往時にたいし舗装されていて道幅は広くなったが、畑が多くひろがっているのは昔から変わらないと思う。江戸往還の良寛さに出会えそうな田園風景の美しいところだった。
(ブルーモルフォのデザイナー宮脇いづみさんは、アニバーサリー・プロデューサーだが、内閣総理大臣賞の受賞や博覧会での公演も行っているし、国文学に長けていて、良寛さや貞心尼のことも造詣がある人だ。紫式部が『源氏物語』で描いたさまざまな草花、樹木を取り込んで独自の花を創造していると、車で深谷駅までご親切で送っていただいたとき、車中でお聞きした。良寛さのご縁からであった)
さて、良寛美について、このような角度での研究は進んでいるのだろうか。
これら美とのご縁の詳細と未発表の2つのご縁はいずれまた機会があればご披露する。いずれにしてもこれらご縁がなければ良寛美は成立しない。
一年前良寛さは、大村光枝と画家巌田洲尾を亡くした。
遠い昔を思い起こせば、
1791(寛政 3)年5月7日。円通寺での修行13年目~諸方行脚・遍歴・漂泊 1年目良寛さ34歳の時、 漢学の師大森子陽が羽前・鶴岡で病死。享年54であった。
その7年後の
1798(寛政10)年、弟の香は、京都桂川に入水客死。享年28であった。
追うようにその2年後の
1800(寛政12)年正月 5日 弟の弟宥澄、円明院第十世観山円澄病歿す。享年34
この年の6月と7月に歌道に優れた国学者大村光枝、江戸より越後良寛さを訪れて、その後交友を深めた。
翌年の
1802(享和 2)年、良寛さは、師大森子陽の三回忌に奥州羽前鶴岡に赴いた。
二人の大切な弟を亡くして哀しい思いをしていたが、大村光枝という良き人と出会えた歓びは師のお蔭という気持ちを抱いて旅したと思われる。
しかも翌年
1802(享和 2)年、本覚院衆僧や国上寺の僧たちおよび宝珠院の僧に、仏教の基礎学「俱舎論」を10日間講義したのをきっかけに良寛さ46歳は、隆全という学僧とも巡り合えた。
この年の秋、大忍魯仙が尼瀬に戻ってきてのち道友となった。
この若き二人を加えて良寛さは四人の道友と多くの庇護者に支えられて充実した暮らしが続いた。
ところが、それも5年間くらいでピリオドが打たれた。
1807(文化 4)年、道友三輪左一が享年45で病死した。良寛さ50歳の時である。
翌年の、
1808(文化5)年、道友であり師でもあった有願が71病死。
3年後、
1811(文化8)年、
橘崑崙『北越奇談』著す。挿絵は葛飾北斎。巻の六人物の中に「了寛」で紹介され、この頃自筆詩集『草堂集貫華』・三十六の詩からなる良寛さの小さな詩集「小楷詩巻」成る。
だがこの年、31の若さで大忍魯仙が病死していた。
四人の内、三人の道友を失ったのだった。
そして
1812(文化 9)年
画家巌田洲尾、良寛さを訪ね詩集『萍踪録』に良寛さの記録を載せる。だが、
4月 3日には妹二女 たか(高島伊八郎妻)も病歿。享年44
9月 6日 三峰館の学友・富取之則も病歿した。
1813(文化10)年、小林一茶(48歳)がようやく『株番』を著わし、以南の死も記した。
1814(文化11)年 尼瀬寺小屋の光照寺、光照寺玄乗破了歿した。
悲しみに暮れる五合庵末期の良寛さに明るい話が舞い込んだ。1815(文化12)年、良寛さ58歳のとき、隆全和商の配慮で遍澄が良寛さの法弟となり、五合庵に共に住み、身の回りのさまざまな世話をしてくれて、創作活動に弾みがついてきたのだ。
そして乙子神社に弟子と共に居を移し、創作活動が活発化した。
だがその矢先、今度は1816(文化13)年、大村光枝も病歿す。享年64の知らせ … 。歳は取りたくないものだと感じたかもしれない。
乙子神社境内の社務所 2年目のこの年1817(文化14)年に、良寛さは長い旅に出掛けた。
柳津圓蔵寺詣を果たした話しはよく知られている。そこが理想郷香聚界であると最大級の賛辞をもって称えた良寛さの詩があるからである。
だが、ここが旅の主目的ではなかったことについて、触れた研究書は多いとは言えない。
それは年譜をよく見ると、幾つかのことがつながって見えて来る。
かつて良寛さは大忍魯仙について詩を書いた。
大忍俊利士 屢話僧舎中 自一別京洛 消息杳不通 ... である。大忍は俊利な士 屢話す僧舎の中 一たび京洛に別れてより 消息杳として通ぜず
消息がないと嘆いていた。
ところがある日行き先が判ったのだ。武蔵の国矢島村(埼玉県深谷市矢島744)慶福寺(曹洞宗の禅寺)の住持となっていたのだ。だが、衝撃的なことに大忍魯仙和尚は、6年前の1811(文化8)年3月に31歳の若さで病で示寂して、その寺に眠っていることを知らされた。
良寛さの今回の旅が先ず自分的には大忍魯仙の七回忌の供養であったと思われる。
もちろん前年1816(文化13)年病歿した国文学者で歌人の江戸の大村光枝を弔うのがきっかけになったであろう。
この二つの仕事を終えて良寛さは、亀田鵬齋と旧交を温めた。だが、おそらくもう一人と江戸で会ったと思われる人物が居る。
それは一切経を買い求める資金集めの江戸で托鉢していた維馨尼(いきょうに)ではなかろうか。
江戸の維馨尼を想う良寛の詩 『対君不語 不語意悠哉 ・・・ 』、良寛さの悲恋の歌と言われている『秋のなざめ』は、このころ作られたか。
この年の暮、維馨尼宛書簡「君蔵経を求めんと欲して遠く故園の地(ふるさと)を離る 嗚嗟吾れ何をか道わん 天寒し自愛せよ 12月25日 良寛」を送っている。
彼女はこの年は江戸で越冬し、翌年1818(文化15 文政元 )年に長岡市与板町与板にある曹洞宗の徳昌寺に大業を果たして帰っている。
そのあと徳昌寺の萬象古範和尚は一切経を求めに伊勢松坂へ赴いた。
良寛さは、足を江戸から奥州に向け、柳津圓蔵寺詣となったのであるが、幼少年期の漢学の師大森子陽の良寛さは三回忌にも羽前・鶴岡に赴いているが、今回は二十七回忌に当たる年でもある。
五合庵は老朽化と朝夕の山道の登り降りが老身にこたえるようになり、弟子となった遍澄と共に、乙子神社境内の社務所に移り住むことになっての二年目、作品の創作活動も活発化し、充実した日々に感謝すべき方々に礼を述べる機会でもある。
師大森子陽(二十七回忌)、歌の親友大村光枝(一回忌)、そして道友の大忍魯仙の(七回忌)法要の墓参と、道友三輪左一、道友であり師でもあった東岫有願には、柳津圓蔵寺での現状報告。これらがこの長旅の目的であったと思うのである。
この仮説をいずれ、自分自身納得のいくように掘り下げてみたい。
つづく
良寛さの軽やかな生き方と美の根源の読み方
- あとがき -
良寛さんは、人として到達する最高峰の人物だと評価されている。これほど人間的に高い人は居ないと思われている。嫌いだと思っている人は居そうにない。地元新潟では良寛さんを「良寛さ」と呼んでいるそうである。「良寛さん」の一般的な呼び方も親しみがあって良いのだが、「良寛さ」はそれを越していて、とても気に入っていることから、わたくしも良寛さんを最大の敬意と親愛を込めて「良寛さ」と呼ばせていただいた。
しかも良寛さが書き残した作品は、書・歌・漢詩・俳句等2,000余点あるそうだが、誰もが絶賛するほど美しい。
生存していた江戸中・後期時代から、作品や人物伝などで知られていて、良寛研究はその後、特に明治以降から俄かに進められ、昭和50年頃出版ラッシュを見た。
だが、作品と書簡が残る程度で、自身に関する日記や随筆などのものは全くと言えるほど残さなかったようだ。
そのうえ良寛さは、徹底した寡黙を生涯通した。貫いたと言ったほうが適切かもしれない。
これは、自分が世間に馴染まない気質・性格であるとの自覚に合わせて、父・以南との度々の確執に因ったが、何よりも良寛さには実父が居た。
生まれる前の、母親おのぶのお腹に居るとき実父と生き別れている。以南が後夫になる直前に孕んでいることが発覚したため、後夫になるのは延期となり、誕生後に壻になった。
このようなことから良寛さは、後年生まれたことにされてしまったことなどの秘話があることも、多くを語らない人となってしまったことに起因しているのではなかろうか。
多くの人が良寛伝の本を出したり講演で語ったりしているが、実像・実相は抉(えぐ)られているとは言い難いことが多過ぎる。 つまり、謎が多い。未だにそうなのであると言っても過言でない。
このため、良寛さは、虚像の人のイメージがつくられて来たとも言える。特に、江戸時代の儒学者たちが、道徳教育で利用したことには、困惑極まりないと思っていたが、抑えきれなかったようである。
書家や歌人や詩人たちも、良寛さの作品の素晴らしさをその専門家の立場で評しているのであるが、良寛さのそれらはそれだけでは足りないようである。
良寛さは禅僧であったから、良寛さ自身が「自分の書は書家の書でもない。歌は歌人の歌ではない。詩は詩人の詩ではない」と言っているように、作品の中で表現されている仏教の教えとか、言葉では言い尽くせない禅語が含まれていて、良寛さを伝えた評論や伝記などはそれらを適切に読み取っての論理で組み立てていないため、一部を除き、良寛さは事前に書簡で「迷惑至極」と書いて伝えたりもしていた。だが多くは、言えずじまいで今日に至っている。
この懼(おそ)れを懸念した貞心尼は、良寛さ歿後にも配慮を忘れずに制止したため、徒な拡散は免れた。その恩恵を現在私たちは被っているから、実像、実相を垣間見ることができる。
良寛さは 誤まった伝わり方を懼れたから、自分の誕生の秘話をはじめ、ほとんど口頭で伝えることは避けた。記録も残さなかった。だから、
出自の隠しごとも定説化されていない。
なぜ名主の長子が跡を継がずに出奔したのかも、得度するまでのおよそ4年間がほぼ空白である。家出して光照寺に入って修行したという定説のような話もそうではなかったようである。
この間、新潟・新発田の隠居僧大而宗龍に相見し、その後参禅したり、禅問答までしたようであるが、出雲崎からそこまでたびたび訪れたとは思えない。度々訪れる距離にない。
ではそのころ良寛さ(文孝)はどこから通(かよ)ったかについても語っていないし、記録が残っていない。
それもあって多くの研究家たちは、踏み込んでいないようである。
そして、岡山玉島の円通寺で13年間修行したが、そこで何を学んだかもほとんど語られて居ない。
国仙和尚示寂後普住した玄透則中と生き方・考え方に大きく齟齬が生じて、法系を継ぐことを断念して円通寺を去り、行脚というよりも漂泊を5年くらい費やしているが、出奔からその間の18年間のこともほとんど、わたくしたちはしらない。
そして、継父以南との確執が原因で、良寛さは出奔してから以南と再会したのは母の法要で帰郷した時以降なかったそれくらい、以南には会わずに来た。
その以南が隠居して5年間東北を俳諧行脚し、それを終えて京に俳句で打って出るとき、由之から手紙で以南は京に居ることを伝えられていたが、それでも良寛さは会わなかった。ところが、以南入水で遺した辞世の歌と句を読み取り、僧侶として大成しないかぎり戻らないと固く誓っていたがその半年後に帰郷した。
なぜ以南と会わなかったのか、そして以南の入水の理由と、良寛さの帰郷の理由の因果関係は、詳細を語っていないから、今日まで謎のままである。
良寛さに関する書籍などでも帰郷に至った謎は語られていない。僧侶として大成するまでは帰らないと書き置きして出奔したのであるから、帰れなかった。
そして国仙和尚と玉島円通寺に赴く22歳のあれから、(母の法要を除き)以南とはずっと会っていない。むしろ避けてきた。ところが、以南が自殺してののち、ある仕掛けにはまって帰郷に至った。
「法要での家族の歌詠み」、「追善句会法要」、「追善句集『天真仏』上梓」、「小林一茶が著す『株番』への投稿」を読み解くと、見事に強く深く根ざした一本のそのプロジェクトでつながっている。
この仕掛け人は、以南とその山本家一族および親類縁者と、良寛さと700年間続いている名主橘屋を見事に救ったのである。
仕掛けたプロデューサーが居た。これらも私は読み込んだ。詳細はいずれ明らかにするが、その入水に関して小林一茶の『株番』に以南入水の経緯の詳細と辞世の歌が掲載されていることは多くの著者で語られている。だが、その刊行は入水17年後であったことも、いつごろどこで一茶に依頼したのかの記述も多くの研究家たちはその確認に踏み込めていない。
そして、一茶は以南のことをあまりよく知らなかったと思われる。それは小林一茶の生存中の行動を見ることで推測できるのであるが、一茶はほとんど定住せずに移動し続けていて、以南との接点が見当たらない。名だたる句会に一茶も参加しているが、その地域と以南の所在がその時は合致しない。一茶と以南の俳諧の師たちとの関係性も見当たらない。以南は俳諧で有名であるかのように言われているが、生存中はおそらく一茶の耳には入っていなかった可能性もある。しかも、一茶と以南の年齢差も大きい。なのに、なぜ一茶は『株番』を著して世にしらしめたのか、その動機も明らかになっていない。
これらもおよそ読み解けたから言えるのであるが、以南と一茶はさほど懇意ではなかった。誰か強力なプロデューサーが働きかけ、一茶はその気にはなったが、この情報を開示する効果的なタイミングを見計らった結果が、入水17年後のあの時となった模様である。
後年、訳あって一茶は『株番』に以南入水の経緯の詳細と辞世の歌を掲載したのである。ではどのような訳があったろう。これまでの研究家たちは、このことすらも踏み込んでこなかった。踏み込めなかったのかもしれない。
このようなことも含めて、あれやこれやで、良寛さの人生の前半は、一貫して謎が多い。取りも直さず、それは良寛さがほとんど語らず、書き残していないことに起因する。
口下手で、それが原因して失敗が多かった幼少期であったようであるし、名主の名跡を捨てて出奔したのであるから余計に寡黙にならざるを得なかったのであろう。
口に衝いて出るとき、衝突や確執を生んだことは誰よりも自身で気づき、苦労したようである。だが、十三経をはじめとする書物や歌や詩で感性と知性が育まれ、口頭で伝えきれないことを他の手段を用いればそれができることも身に着けた。禅の修行を通じて、仏法を修得した。これらから良寛さに膨大なボキャブラリーが生まれた。
良寛さは口に出して語るときは信頼のおける人のみで、他者には寡黙を通した替りに、詩歌と書で表現して、伝えることをした。
帰郷するまでの半生は、幼馴染の何人かは別として、ほとんど人との接触がなかった。出雲崎を離れて親しく心を交わしたと思われるのは、師の国仙和尚と兄弟弟子の義提尼くらいしか居ない。その後18年振りに帰郷した当初も、殆ど独りであった。
ところが五合庵に上ってののち、多くの人々と交わり、人生の集大成をおこない、人として、どのように生きることが自分にとっても他人にとっても意義深いのかを示した。
それが簡単にできた訳ではない。想像を絶するほどの苦難があったことが読み取れる。そもそも世事に疎(うと)くて、対人関係が極めて苦手であった。少年期の友人とは自然に交わっていたが、その他の人たちとは関係が保てなかった。
家を飛び出して放浪した18~22歳の4年間、どのような暮らし方をしていたか。食っていかなければ生きていけないのであるから、どこかで働くのが普通だと思うが、その道は選んでいないのも人付き合いが苦手だからでろう。そして13年間禅寺で修行し、5年間諸方行脚・遍歴・漂泊し、帰郷後半年間乞食して五合庵に隠棲したように、人を避けた。
その良寛さが、多くの人々と交わった。家族関係、姻戚縁者、友人などを除いた一般人との付き合いで、歴史に名を残した一般人は200名を超えている。名こそ残って居ない人の内のことであるから、相当なものだ。
何故それができたのかについて触れている書籍はあるのだろうか。確証はもちろんないが、わたくしには理解できる。
五合庵に上ってのおよそ10年間で大きく舵取りがあった。特にその後半の7年間は、急激に磨き挙げられた。手前4年間の中盤ころには野僧の良寛さはすでに人々から大徳とか禅師と呼ばれていたほど人びとから尊敬されていた。江戸の国学者で歌人の大村光枝はその五合庵に上って来て宿泊し、その後も禅師と尊称した。
13年間の玉島円通寺での修行や、5年間諸方行脚して、何を見につけたのか。ここのところも、わたくしたちは多くを知らない。
だが、生き方に迷ったときのお手本となる良寛さに至った。苦労の積み重ねで得たその答えをわたくしたちは容易に得ることができるのであるが、
少しでも近づきたいと思うのであれば、それはやはり少しどころか、本気にならざるを得ないだろう。
だが、近づきたいと思わずに、わたくしたちはわたくしたちのできることを、今ここで出来る分だけ自分なりに、自分ならではのやり方で、まず他の人びとのためになることを実行する軽やかな生き方をしてみてはどうか、と良寛さの声が聞こえてきそうである。