出奔からの略譜
 

良寛年譜は二段構成。

この略譜の下部に他に類のないたちもり三郎オリジナルの良寛年譜を掲載

令和 5(‘23)年 6月19日 更新

良寛さ略譜: 出奔から放浪

 

 

1775(安永4)年 7月17日夜、文孝出奔。文孝(のち了寛)18歳 以南40歳

1776(安永5)年 放浪。文孝19歳

1777(安永6)年 放浪。文孝20歳

良寛さ略譜: 紫雲寺村観音院大而宗龍に相見

 

出家以前のこの頃、文孝は大而宗龍(だいじ:他に「だいに」そうりゅう)禅師に師事試みる

良寛さ略譜: 光照寺で得度し、玉島円通寺へ


 

1778(安永7)年 弟 由之名主見習いになる。17歳 良寛21歳

1779(安永 8)年 5月 良寛さ得度。国仙に伴い備中玉島円通寺に。良寛22歳 以南44歳

良寛さ略譜: 円通寺での修行

 

1780(安永 9)年  円通寺にて修行2年目。良寛23歳

1781(安永10)年 天明元年4月2日-)年  円通寺にて修行3年目。良寛24歳

1782(天明 2)年 円通寺にて修行4年目。良寛25歳

1783(天明 3)年 円通寺にて修行5年目。良寛26歳 4月29日 母おのぶ歿、享年49 以南47歳

1784(天明 4)年  円通寺にて修行6年目。良寛27歳

 

1785(天明 5)年  円通寺にて修行7年目。良寛28歳。4月29日の前 国仙和尚東国巡錫のふれこみにしたがって亡母三回忌で良寛帰郷。良寛28歳

  5月 新潟県新発田市紫雲寺村観音院で大而(だいじ)宗龍和尚(69歳)に相見したか

 10月 観音院の宗龍に再び面会したか

 

良寛さ略譜: 円通寺修行時代

 

11月 大忍国仙、大本山永平寺から、曹洞宗第一の格式で、法門の盛んな師家にとって必要な資格「常恒会の公許」を得た。以南50歳

1786(天明 6)年 4月 以南(51歳)隠居し、弟の由之(25歳)に名主職を継ぐ。円通寺にて修行8年目。良寛29歳

 以南51歳の時、以南隠居後俳諧行脚の奥の細道の旅へ

 

1787(天明 7)年 円通寺にて修行9年目。良寛30歳

1788(天明 8)年 円通寺にて修行10年目このころ四国・九州に行脚。良寛31歳

1789(寛政元)年 7月 円通寺にて修行11年目国仙和尚衆の行脚に加わり、信州湯の原に宿泊。善光寺に詣でる。良寛32歳。以南54歳

  8月13日 紫雲寺村観音院大而宗龍(だいじそうりゅう)示寂。享年73。10月13日大隆寺にて本葬

 

1790(寛政 2)年 円通寺にて修行12年目師・国仙より印可の偈一等首座の位を授けられ、円通寺の境内・覚樹庵を預けられ、覚樹庵主となる。良寛33歳

1791(寛政 3)年 3月18日 円通寺にて修行13年目師の大忍国仙、玉島において病で遷化(69歳)。良寛34歳

  5月7日 大森子陽病死。享年54

 

  9月 玄透即中円通寺に十一世として普住。62歳。良寛34歳

  9月 以南最後の旅に出る。以南56歳

 おそらくこの年、追放か退去か。良寛円通寺を去り、諸方行脚・遍歴・漂泊

 

良寛さ略譜: 諸方行脚・遍歴・漂白時代

 

1792(寛政 4)年 諸方行脚・遍歴・漂泊2年目。良寛35歳

1793(寛政 5)年 諸方行脚・遍歴・漂泊3年目。土佐で近藤万丈に会ったか。良寛36歳

1794(寛政 6)年 諸方行脚・遍歴・漂泊4年目。大和国長谷寺で修行中の宥澄、菩提寺円明院を継ぐか

(円明院第十世観山円澄)。良寛37歳。以南59歳

 京都御所内(朝廷)で国文学者の四男香の詩が光格天皇に上る。良寛37歳。以南59歳

 3年前、円通寺11世となった玄透即中は、関三那の一、武蔵龍隠寺に転じる。永平寺の五十世となる準備のためか。玄透65歳

  以南上洛。良寛37歳。以南59歳

 

1795(寛政 7)年 4月22日 諸方行脚・遍歴・漂泊5年目玉島の玄透即中、永平寺に入って第五十代の法灯を継ぐ。玄透66歳

 

良寛さ略譜: 以南入水と帰郷

 

(良寛さ略譜)

 

 

 7月25日 京都桂川に 橘以南、入水(60歳)。良寛38

 ふたたび京都にもどり、帰郷を決意するか

 8月 上洛した遺児達によって父以南の二十一日目の法要追善法会をおこなう。良寛ここで歌を詠む。

 

 「葉月十日あまり五日の夜

 うち群れて都の月を見つれどもなれにし鄙(ひな)ぞ恋ひしかりける

 

 9月 出雲崎の円明院で、七七忌(四九日法要)をおこなう。

 

由之、香、由之の妻安子らは歌を、良寛ここで以南の歌にたいし句で詠む。

 

 山里にすぎやう(修行)しけるをり夜のいと心うきに雁の鳴きければ

と前置きして、

 蘇迷廬(そめいろ)の訪れ告げよ夜の雁  良寛

 

 秋、紀州高野に父以南の菩提を弔う

 

良寛さ略譜: 越後出雲崎へ帰郷

 

(良寛さ略譜)

 

 

1796(寛政 8)年 1月 良寛越後に帰るか。生家には入らずに国上山近在を転々。良寛39歳

5歳年下の幼馴染で漢学塾の学友、良寛の法弟であり道友であり庇護者でもあった三輪左一には度々会っていたと思われる

  5月22日、良寛さの実父桂 誉章病死。享年63

 

1797(寛政 9)年 弟の香(26歳)。大阪に遁れ、歌集を詠む。良寛40歳

 

良寛さ略譜: 第一次五合庵時代

 

 原田鵲齋(じゃくさい・幼名有則)の世話で真言宗国上寺の五合庵を借りることができた良寛、五合庵に上る

 

1798(寛政10)年 3月27日  弟の香、京都桂川に(入水)客死。享年28。五合庵の良寛41歳 

1800(寛政12)年 6月5日  歌道に優れた国学者大村光枝(48歳)、江戸より越後国上山五合庵の良寛(43歳)を訪れる

1801(享和元)年 同郷の俳人や名古屋や京の俳人が参集し法要が営まれ、追善句会行われた。良寛44歳

 

良寛さ略譜: 仮寓を転々とした時代

 

1802(文化元)年 3月 継父以南七回忌にちなみ、前川丈雲により以南追善句集『天真仏』が上梓された。良寛45歳

 陰暦11月15日 佐渡小木地震

このころ、5年間住み慣れた五合庵を出て、親しかった寺泊の照明寺第十三世良恕上人の招請で真言宗密蔵院に仮住い~国上の真言宗本覚院へ仮寓(国上寺前住の義苗、退隠して五合庵に入る)

 

 良寛さ、羽前行脚か

 甥・馬之助(泰樹13歳)名主見習いとなる

 大村光枝、江戸にて由之に会う

 三島和島村島崎(現長岡市)の鍛冶屋早川甚五衛門の長男、遍澄生まれる

 

 伊能忠敬、越後海岸測量。そのため橘屋に宿す

 十返舎一九『東海道中膝栗毛』初篇刊

 

1803(享和 3)年 大忍魯仙(23歳)。宇治の興聖寺で、厳しい禅匠として天下に鳴り響く玄楼奥龍(狼玄楼、虎光通と言われていた)に参禅し、霊潭魯龍から法を嗣ぎ、7月宇治を発ち永平寺に拝登した後、尼瀬に帰郷。良寛46歳

 

良寛さは、本覚院や国上寺および宝珠院の僧たちに、仏教の基礎学「俱舎論」を10日間講義した。その中に、国上寺修行僧の隆全(18歳)があった。

 

良寛さの道友4人のうち、若き道僧が立て続けに2人も獲得できた画期的な時期であった。一人は魯仙(23歳)。もう一人は、隆全(18歳)。良寛さよりも23~28も若い道友で、二人から仏法と歌で感性と知性に強い刺激を受け、良寛さは人間的にも作品面においても深く、濃密に高め沁み込ませることができた。

 

生涯の道友3人を、1807(文化 4)年 三輪左一、1808(文化5)年 東岫有願、1811(文化 8)年大忍魯仙と立て続けに喪うが、新潟三条の真言宗宝塔院住職隆全和尚は、良寛さを支え続けた。

 

敬愛する弘智法印の画像に題して七言絶句を作り、ミイラ像の前で自らを警め誓う(西生寺での『自警語』)

 

義提尼、岡山県倉敷の真如院庵主となる

伊能忠敬、佐渡測量 

アメリカ船長崎に来航し、通商を要求。幕府これを拒絶

 

1804(文化元)年 出雲崎の百姓が連盟して橘屋排斥を出訴。良寛47歳

 7月 由之、公金横領と日ごろの専制振りを町民に訴えられる

 

(そめいろの訪れ告げよ夜の雁と詠んだ時から7年後の今日も黒染めの野僧であったが、郷党の市井の人々からも仏教者からも、江戸の国文学者からも「大徳」とか「禅師(ぜじ)と敬われていた

 

(良寛さ略譜)

 

1805(文化 2)年 出雲崎中山村の西照寺の庵に仮寓の頃か、3月 由之、出雲崎代官所から訴えられ白川藩預かりとなる。島崎村へ欠落。良寛48歳

 

3月 良寛さ、長野の善光寺に詣でる。ここは一遍、親鸞、源平の兵火で焼失した東大寺大仏殿を諸国勧進で再建した浄土宗の僧重源(ちょうげん)も参拝している無宗派の寺で、性別貴賤を問わない平等(無差別)の単立寺院である。衰亡する生家名主橘屋山本家の救いを祈ったか。

 

6月 弟の由之、町民に訴えられる

7月 僧大忍魯仙(25歳)自詠の詩集『無礙集』京・松月堂にて出版の中に良寛賞揚の語をなす。良寛さ刺激を受けたか

 

1806(文化 3)年 五合庵仮住まいの丙寅三月 秋夜弄月巻(七言古詩)を書く。良寛49歳

9月11日ロシア船樺太に侵入する

疱瘡流行(子供が多く死亡)

 

良寛さ、疱瘡流行により死亡した多くの子供たちの追弔詩集をつくる

 

(良寛さ略譜)

 

 

1807(文化 4)年 玄透禅師即中示寂。良寛50歳

与板町大坂屋六代目の末弟。庇護者で法弟の三輪左一病死。享年45

東岫有願に影響を受け、懐素の「自叙帖」、「秋萩帖」を学び始めたか。

 

ロシア船択捉に侵入する

アメリカ船、長崎に来航する

 

1808(文化 5)年 道友で庇護者の僧・東岫有願病死。良寛51歳

 

松田伝十郎、間宮林蔵と樺太探索

イギリス艦船フェートン号、長崎に侵入

 

良寛さ略譜: 第三期五合庵仮住まい時代

 

1809(文化 6)年 原田鵲齋(じゃくさい47歳)、しきりに往来する。良寛52歳

江戸の儒学者亀田鵬齋(47歳)が五合庵の良寛さを訪ね、以降交友がはじまる。

江戸・川柳に「鵬齋は 越後帰りで 字がくねり」がある。『良寛法師賦呈』 の詩を作る

 

1810(文化 7)年 弟由之,事によって家財歿す。所払いの処分を受け、島崎に隠棲。良寛53歳

良寛さ、弟由之に意見する。

亀田鵬齋、新潟新津・桂家(良寛さの実父方)にて『万巻楼記(日本最古の図書館)』を撰す。

由之隠居し、剃髪。馬之助家督を継ぐが、直後名主見習い取放の申渡しを受け、出雲崎名主橘屋良寛さんの目と鼻の先で、祈り空しく700年の幕を閉じた。

 

1811(文化 8)年 亀田鵬齋、出雲崎敦賀屋のために『聚遠亭記』を作る。良寛54歳

 

越後地方打ちこわし起こる

道友魯仙和尚尼瀬の双善寺で示寂。享年31。

 

1803(享和 3)年から8年間、濃密な付き合いである時は微妙の法門を説き、詩歌や生き方で真実相や面目を感得させた。魯仙を訪ね、数日間一言も語らず詩歌の贈答をしたこともあった。魯仙の病を全治させ「そのご恩は全く無限で、どうしてお報い申し上げたらよいでしょう」と詩で残した。

 

わが子のように若い魯仙であったが、互いにわかり合えた気の合った二人であった。「大忍は俊利な士 屢話す僧舎の中 一たび京洛に別れてより 消息杳として通ぜず」と贈った。埼玉県深谷市矢島744の慶福寺に眠り、良寛さはそこを訪ね、墓参りしている。

橘崑崙『北越奇談』著す。挿絵は葛飾北斎。巻の六人物の中に「了寛」で紹介されている。

五合庵~牧ケ花の観照寺仮住まいの良寛さ、小さな詩集『小楷詩巻』成る。

真宗浄立寺天華上人(69歳)外学に富んで詩文に名あり。良寛さ共に遊ぶ

 

1812(文化 9)年 画家巌田洲尾、良寛さを訪ね詩集『萍踪録』に良寛さの記録を載せる。良寛55歳

自筆詩集『布留散東』を良寛さ、つくる

巌田州尾詩集『萍踪録』著わす

鈴木文臺『文台文襍-訪良寛禅師居』著

 

1813(文化10)年 小林一茶『株番』をようやく著し、17年前の継父以南の自殺を昨日のように克明に報せた。五合庵の良寛56歳

 

1814(文化11)年 鈴木文臺『喫烟詩話』』著わす

 

1815(文化12)年 遍澄(13歳)、道友・隆全和尚の口添えで58歳の良寛さの法弟となり五合庵に共に住む。

 

『正法眼蔵』九十五巻の開版成る

小田島允武 『越後野志』著わす

 

良寛さ略譜: 乙子神社10年時代

 

1816(文化13)年  老朽化と朝夕の山道の登り降りが老身にこたえるようになり五合庵を下り、乙子神社境内の社務所に移り住む。遍澄(13歳)、良寛59歳。八畳の部屋を良寛が使い、二畳の小部屋を遍澄が使い、69歳までのおよそ10年間、良寛さを支え10年間暮らした。

鈴木文臺 『草庵集序』著わすが、良寛詩集は出版を許されなかった。

 

1817(文化14)年 良寛60歳 鈴木文臺(22歳)、「良寛詩集」を編むも、良寛さ文台の出版を許さず(許可しなかった良寛の意向は貞心尼に受け継がれ、1867(慶応3)年、良寛歿後36年版行した蔵雲和尚編『良寛道人遺稿』につながった)

 

1818(文化15・文政元年4月22日 - )年 大関文仲『良寛禅師伝』を著す。良寛61歳

 

1819(文政2)年 五合庵を世話した庇護者で友人の解良叔問病歿す。良寛62歳

 

1821(文政4)年 神竜『名家古今詩選』出版。良寛64歳

 

1822(文政5)年 維馨尼(いきように)歿。享年58。貞心尼24歳。良寛65歳 

小池世貞『良寛詩集草庵集』写本を成す

 

1823(文政6)年 丹羽思亭 『良寛伝』書く

 

1824(文政7)年 長女妹 むら子病歿。良寛67歳

 

良寛さ略譜: 木村家 7年弱の時代

 

1826(文政9)年  亀田鵬齋、江戸で病歿。良寛69歳 

夏のころ貞心尼、島崎の良寛さの庵を訪問、留守のため歌と手毬を託す。

 

秋、島崎(新潟・和島村)の能登屋木村家屋敷内の庵に移り住む。

遍澄(24歳)、10年間の良寛さとの暮らしを離れ、地蔵堂願王閣主となる 

 

1827(文政10)年 庇護者で友人の原田鵲齋(有則)病歿。良寛70歳

 

1828(文政11)年11月12日 三条大地震 山田杜皐宛の書翰で

災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ 臘八 良寛」

良寛71歳

ここに銘記した「臘八」は何を以っての8年前か。1819(文政2)年の8月24日に、山田杜皐と同じ庇護者で友人の解良叔問病歿したとき故解良叔問の草中に、良寛さは筆写の法華経を埋めたそのことを指してのことか

それとも長岡藩藩主牧野忠精が良寛さのところにやって来て、

焚くほどは風がもてくる枯葉かな

 

の句で追い返したことに関係してのことか。

 

 

良寛さ略譜: 良寛さ示寂

 

1831(天保2)年  良寛さ示寂。享年74

良寛さ略譜: 良寛さ歿後

 

 

 
 

 

野辺おくり後の、良寛さ略譜

 
 
 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

 

■ 1831(天保2)年 良寛さ入寂の年

 

野辺おくりのこの日、木村家の木村元右衛門は「良寛上人御遷化諸事留帳」を書き残した

 

貞心尼筆「蓮の露」末尾の、「鴈島なる稲川惟清翁の書きそへしこと葉」に記された文の稲川惟清は、「良寛」について文書を書いた。

別に稲川 惟清 詠草断簡には、立春と題して「大やしま春立 け ふの夕暮や日のいる国も霞 そむ ら む」、郭公と題して「こと鳥をよはにしづ めて 霍公 鳥雲 ゐ にたかくなのる一声」、夏神事と題して「蚕がふかとみれば夏田もうゑぞするあないとまなのしづがたわざや」の歌を詠んだ

 

8月 良寛さ実弟・山本由之(ゆうし) 歌日記 『八重菊日記』の原稿本のなかで、良寛さのことを禅師(ぜじ)」と慕わって呼称し、良寛さ臨終の場面「世の中のおふさきるさもあすよりは誰にとひてか君は定めむ」までたっぷりと記述した 

 

8月 証聴 「良寛禅師碑銘並序を記す

夫古聖先德之處于世雖隱顯異途收放不同然至弘妙道濟群情則其歸一揆本邦雲浦良寛禪師爲人也氣宇超邁而擧措迂濶也夙因所根自懷出塵之志安永八己亥歳廿二時會承備之圓通國仙忍老行化將謂曇花易逢知識難遇時不可失俄往詣欲遂宿願仙一見器重爲薙染立名號曰大愚服勤久之於其眞參實踐也大有古德風貌忍老附偈曰良也如愚道轉寛爲附山形爛藤杖到處壁間午睡閑師已雖有省悟猶叩諸方末后謁宗龍乎紫雲深究道奧爾來道業彌純一不與他浮花爲伍潛行密用眞醇淸白山雲水萍居居無常愚魯日用無一法與人雖然詩歌以寓心墨蹟以寄情淳々乎敎誨妙能安懷老少而平坦處直壁立萬仭不垂手下具垂手眼是以設久參上士倒退三千如斯活手段自不非常之人孰能立非常之功哉文政十丁亥齡古稀逼招移衣鉢於島崎木村氏別齋五易裘葛天保紀元庚寅冬示微恙臨終環坐咸乞遺偈師即開口阿一聲耳端然坐化焉實是同暦二辛卯正月六日世壽七十四法臘五十三也遷時顔貌如如(衍)生四縁哀悼不啻闍維日千有餘人來聚靡弗齋擎手流泣也嗚呼如師實苦海慈航澆代優曇予嘗荷道愛今聞訃音悲感切于衷且恐景行遺烈遂泯沒而不傳乎世因忘固陋述厥梗概敢爲之銘乃勒堅珉以貽不朽云

   銘曰

 體寛大道 良徹幽玄 騰々任運 受記忍仙

 春秋皮裡 默識愚賢 據無出也 與餘輩懸

 有時孤峻 人難近前 有時落艸 童打鞦韆

 文童(章)筆硯 布施有縁 外訥内敏 眼辨烏焉

 權實兼帶 宗説莞全 氣貴回互 宛轉正徧

   天保二辛卯仲秋

       參徒北越

         證聽謹撰

とある。

特に、「 ・・・ 終るに臨み、環坐みな遺偈(ゆいげ)を乞う。師すなわち口を開いて「あ」(阿)と一声せしのみ。端然として坐化す。実にこれ同暦(天保)二辛卯正月六日、世寿七十四、法臘五十三なり。」の箇所、「良寛さが、いよいよ臨終をむかえようとするとき、人々は輪をつくって遺偈(ゆいげ)、すなわちこの世で最期につくる偈(げ)を乞うたところ師は口を開いて、「あ」(阿)と一声だけ発せられ、そのまま端然と坐って遷化(せんげ)された。七十四歳、法臘(ほうろう)では五十三歳であった」と。

おお!ほとんど研究家たちから語られていないようであるが、天保 2年は西暦1831年で、「出家し、具足戒を守ってから重ねた年月が53年であった。よって世壽は七十四。すなわち出生は宝暦4年(西暦1754年)が正しい」と、ここに刻印されている。

別に後述するが、虎屋久左衞門氏の蔵する「良寛禪師碑石並序」には「証願が書いた」とある。

遍澄は1826(文政9)年、木村家に良寛(69歳)さのお世話を依頼し案内した後、良寛さのところへ貞心尼がやって来た。時同じくしてこの年、大庄屋・富取武左衛門の強い懇請によって、遍澄は地蔵堂願王閣(がんのうかく)4代目(6代目の説もある)の閣主(堂守/ 一般寺院で云う住職)となって釈遍澄となり、遍澄法師と呼ばれた。24歳のときである。

調べていないからいい加減な話になるが、先述した証願の願は願王閣の願王閣の願でがないか証聴の名は「聴いた証」からそうしたのではないか。共に証(證」」とあるのは「聴いた証」を後世に正しく残したいという願望からではなかったか、と推測している。

と云うのも、解良栄重の『良寛禅師奇話』に、出家した理由を尋ねられた良寛さは「遍澄に問うべし」と返答したと記されているが、出家の理由もさることながら、後年貞心尼にも告白したが、良寛さから「正しいことを正しく伝えてほしい」と依頼されていたと思われる。碑に刻まれたその年は遡れば1779(安永 8)年のことで、その年に良寛さが国仙大和尚から得度したのが間違いなく22歳のときであることを「良寛さご本人から聴いた証」として後世にこの碑で残したと言えないか。

貞心尼も蔵雲和尚への書簡で正しい年齢を師良寛さから聞いたことが書いてあって、このとき貞心尼も記録として残したい考慮があった。

別に、証願が書いた記載内容の異なる「良寛禪師碑石並序」もある。これは相馬御風『良寛を語る』(同書、232頁)で、「右碑文は東京神田小柳町一丁目虎屋久左衞門氏の蔵するところであるといふが、おそらくは建碑されずに終つたものでないかと思ふ」とある。撰ぶに当たって由之(ゆうし)や秉炬(ひんこ)師の活眼大機和尚そして貞心尼の意見調整の上ではなかったか。

 

鈴木文臺は、『呈良寛禅師』と題した漢詩を書いた

この頃、鈴木文臺は、『哭良寛禅師』を筆写

 

10月 亀谷 某 『良寛尊者詩集』 稿本作成

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

■ 1832(天保3)年 良寛歿後 1年 

甥(由之の長男)馬之助病歿す。父より先に逝った

 

■ 1833(天保4)年 良寛歿後 2年

3月 良寛さの墓碑が建立された

 

証聴法師による「良寛禅師碑銘並序」を記した墓碑が島崎隆泉寺墓地に建立される

亀倉と名乗る御仁が、『良寛尊者詩集』の原稿を書いた

 

■ 1834(天保 5)年 良寛歿後 3年

正月13日 二男由之歿 享年73 墓は良寛さの隣にとされた

 

7月 大関文仲歿す。享年54。晩年は盲目になっていた

 

小出の雪堂殿に依頼して良寛禅師の肖像を貞心尼描き蔵雲和尚版の『良寛道人遺稿』に掲載

 

長谷川久による『諸見聞記』のなかに良寛さのことが記載された

 

■ 1835(天保 6)年 良寛歿後 4年

5月 1日 貞心尼(40歳)の贈答歌集 『連(はちす)の露』(山田静里が命名)書き終える(完成)

 

この頃 新潟三条の真言宗宝塔院住職で良寛さ道友四人のなかの一人の隆全和尚 良寛さの歌124首、旋頭歌(せどうか)2首・長歌1首をまとめた良寛歌集の稿本としては最古の『良寛法師歌集』公刊

 

■ 1836(天保7)年  良寛歿後 5年

7月11日 円通寺で良寛さに和歌の影響をもたらし、共に国仙から印可の偈を受けた義提尼歿す。享年77

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

■ 1837(天保 8)年 良寛歿後 6年

1月28日 丹羽思亭(にわしてい)『跋僧良寛草書五十韻』を筆写。足軽の出だが、藩主健齋公に認められた新発田藩の儒者。江戸に学び詩文・琴・書をよくした。

 

一般寺院と異なり、住職・檀家の制度がなく町の鎮守堂として地域住民の方々により維持されていた新潟県燕市地蔵堂本町1丁目の地蔵堂願王閣(がんのうかく)本堂が再建され富取家が寄進した

 

 

■ 1838(天保9)年  良寛歿後 7年

 

■ 1839(天保10)年  良寛歿後 8年

 

■ 1840(天保11)年  良寛歿後 9年

上州出身の国学者である飯塚久利は桂家を訪れ、新津駅桂樹苑三十景和歌を詠んだ

 

越後・佐渡の地図作製に尽力し、その名が江戸にも知られていた越後・新発田藩の地理学者小泉蒼軒は『庚子随筆』の中で「良寛道人の歌」稿本を作成

 

■ 1841(天保12)年 良寛歿後10年

12月12日 鈴木文臺(46歳) 『草堂集』および『旦飯野(あさいの)神社考』を著す

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

■ 1842(天保13)年 良寛歿後11年

2月 出雲崎の儒者。亀田鵬齋の弟子で、鵬齋に良寛を紹介した内藤鐘山(ないとうしょうざん) 『沙門良寛法師詩集175編』                

 

9月 了本子勉 『良寛禅師語録序』 筆写

 

■ 1843(天保14)年 良寛歿後12年

『北越雪譜』の鈴木牧之(ぼくし)と交友関係にあって上州出身の国学者飯塚久利は桂家を訪れ、誉正の話や資料をもとにして良寛さのことをまとめ『橘物語』を書いた。これは、28年がかりで書きあげ、全180回、98巻106冊の大長編小説。五合庵にあって遍澄が弟子として同居生活しはじめた頃から、書き始めていることになる

 

■ 1844(天保15、弘化元)年  良寛歿後13年

(天保年間) 燕市小関の名主で国文学者上杉篤興(うえすぎあつおき) 。良寛様や由之と親しく、『木端集(良寛歌集)』を残す

 

(天保年間) 書写者不明(小池世貞?) 『国上沙門良寛詠歌、草庵集』 稿本作成

 

(天保年間) 江戸時代後期の儒者松島北渚(まつしま ほくしょ1814-1844) 『事実文編拾遺 - 良寛伝』 筆写

 

弘化元年12月 貞心尼「(文書)良寛」筆写

 

■ 1845(弘化 2)年 良寛歿後14年

 

4月 備中(岡山県)玉島の国学者で僧侶の近藤万丈が、51年前の1791年~1795年頃に土佐で良寛に会ったときの様子や印象を記した『寝ざめの友』 「土佐にて良寛に逢ふ記」を書き残す

 

4月 鈴木文臺(50歳) 『跋良寛上人』 筆写

 

新発田藩の地理学者小泉蒼軒 『乙巳随筆 - 良寛禅師伝(大関文仲筆と同じ)』 稿本作成

 

~ 1847(弘化4)年頃 解良栄重 『良寛禅師奇話』 ・『良寛禅師奇談後編』 稿本作成

 

鈴木文臺(50歳) 『跋良寛上人書後』 筆写

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

■ 1846(弘化3)年 良寛歿後15年

鈴木文臺(51歳)、解良氏のために「題良寛上人横巻」を撰す

 

■ 1847(弘化4)年 良寛歿後16年

鈴木文臺(52歳)、『撰・題良寛上人横巻』作る

 

■ 1848(弘化5、嘉永元)年 良寛歿後17年

遍澄46歳のこの時、眼病にかかる。

 

鈴木文臺(53歳)、「草堂集序並附言」を撰す

 

(弘化年間) のち曹洞宗管長の諸岳奕堂(もろたけまたどう)または諸嶽 奕堂(しょがく えきどう)あるいは旃崖奕堂(せんがい えきどう)禅師(曹洞宗)『良寛和尚詩集)』 稿本作成

 

■ 1849(嘉永2)年 良寛歿後18年

5月 鈴木文臺(54歳), 『撰・草堂集序並附言(良寛漢詩集)』を著す

 

7月 松岡 某 『良寛法師草庵集』 稿本作成

 

鈴木文臺の甥(おい)鈴木順亭 写本 『草堂集』 稿本作成

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

■ 1850(嘉永3)年 良歿後19年

 

新発田の地理学者小泉蒼軒 『庚戌随筆』の中で「良寛地震の詩」稿本を作成

 

詩人・有本芳水(ほうすい)  『良寛詩集』(良寛尊者詩集179編) 稿本を作成

 

弟子遍澄(48歳)は、眼病のなか、散乱、散逸した良寛さの詩をはじめ作品を最初に蒐集し、整理し、それらを『良寛道人遺稿』の開版者蔵雲和尚に託した。

その後遍澄は、この年まで付近の子弟の教育を行ったりして地蔵堂願王閣主を24年間努めたが、眼病がすすんで島崎(現長岡市)に帰るため、願王閣主を去る。それから26年間を良寛さとの思い出の日々を楽しみながらも、不自由な生活を送ったと思われる

 

謙巌蔵雲和尚(1812文化 9年~1869明治2年)は、長野県穂高村生まれ。上州(群馬県)前橋の曹洞宗(禅宗)龍海院第二九世(1857(安政 4)年から1868(明治元)年まで12年間住した)住職。詩、歌、画にすぐれていた。弘化4年、越後へ巡錫して越後柏崎在吉井の善法寺で良寛詩遺稿に接してその真価を見抜き、「優曇華「(三千年に一度開花する珍しく貴重な華)を見たような心境」と感激して刊行を期し、五合庵を訪ねたり貞心尼の許を訪れ、志を貞心尼に伝え、信頼され、「私もかねがねその事心にかけていましたが漢詩故に自分には及ばぬことと思いましたが成就を願っています」と心から賛同し激励した。

鈴木桐軒、鈴木文臺兄弟により遺稿編集のことが企てられていた。しかし貞心尼は、これをも断った。何故か。「受戒得度せぬ人、または如来の八大人覚を聴かざる徒に遺稿を手工(たく)ませると、師の道徳(風光)を害(そこな)うからだ」と。

だが貞心尼 は、たまたま越後出身の謙巌・蔵雲和尚(前橋竜海院二十九世)に相見。良寛和尚に感銘を受けた蔵雲和尚に上梓かたをお願いした。

この間の消息を伝えた書翰に、「序文の事、あふせの如く、俗人又は師(其人を)を知らぬ者(知らずして)の書きたるは、中々に徳を損じ、無きにはおとる事も御座候。されば君、師の道徳を知りて其詩を開板し、世に長く残さんと思召す御心ざしの深き事、何人か及ぶべき  貞心尼九拝 

竜海院方丈様御もとへ 」の書簡に、蔵雲和尚は、「まことやおふせのごとく、ちかごろは僧俗ともに道を守らず、見るもきくもかたはらいたき事のみにて 行く人のたえてなければ やへむぐらしげりて道もわかれざりけり」と返事

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

■ 1851(嘉永4)年 良寛歿後20年 

6月 鈴木文臺(56歳)篤学にたいし長岡牧野候からを賞状および銀を賜る

 

11月 古沢 強?  『五合庵詩集』 稿本作成

 

■ 1852(嘉永5)年 良寛歿後21年 

5月 鈴木文臺 『鈴木家蔵良寛筆蹟横巻跋』 筆写

鈴木文臺(57歳) 『良寛上人遺墨跋』を作る

 

■ 1853(嘉永6)年 良寛歿後22年 

3月 庇護者原田正貞歿。享年65

 

3月 鈴木文臺(58歳) 燕町東樹氏のために『天上大風由来記』 筆写

鈴木文臺、牧野候の儒官に登用され、二人扶持を賜る

 

4月 3日 (筆写不明) 『良寛詩歌集(青木本)』 稿本作成

 

■ 1854(嘉永7、安政元)年 良寛歿後23年

桂家当主誉正の妻、歌人桂とき子歿。とき子は山本由之から歌道を学んだ

 

(嘉永年間) 山形県鶴岡市の国学者池田玄斎 『病間雑抄 – 良寛』 稿本作成

 

■ 1855(安政2)年 良寛歿後24年

 

■ 1856(安政3)年 良寛歿後25年

鈴木文臺(61歳)、三宅氏のために「良寛和歌題言」を作る

 

■ 1857(安政4)年 良寛歿後26年 

鈴木文臺(62歳) 『村上藩三宅徳卿所収良寛師和歌題言』作る

 

遍澄(55歳)失明。失明状態で以降19年間、静かな余生となった

 

■ 1858(安政5)年 良寛歿後27年 

乙子神社の良寛詩碑成る

 

鈴木文臺(63歳) 『安政戌午良寛上人碑成阿純亭請粗識其縁由院因賦贈』作る

 

中略

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)

 

1867(慶応3)年  蔵雲和尚編『良寛道人遺稿』版行。良寛歿後36年。貞心尼から書簡で良寛に関するアドバイスを受けて、公刊に値する内容でまとめた。

書簡にしたためた貞心尼のアドバイスは以下であった。

「俗人又は師(其人を)を知らぬ者(知らずして)の書きたるは 中々に徳を損じ 無きにはおとる事も御座候 されば君 師の道徳を知りて其詩を開板し 世に長く残さんと思召す御心ざしの深き事 何人か及ぶべき ... 受戒得度せぬ人 または如来の八大人覚を聴かざる徒に遺稿を手工(たく)ませると 師の道徳(風光)を害(そこな)うから  貞心尼九拝」

 

1870(明治3)年 鈴木文臺歿。享年75。良寛歿後39年

 

1872(明治5)年 貞心尼「不求庵」でこの世を去る。享年74。良寛歿後41年 

 

 福沢諭吉『学問のすすめ』初版本刊行 福沢諭吉・小幡篤次郎共著

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)
 
 
■ 1875(明治6)年 良寛歿後44年 
 
 
■ 1876(明治7)年 良寛歿後45年 
 

弟子の遍澄(へんちょう)さ歿す。享年74

 

鈴木文臺も貞心尼臣にも既に居なくなったこの年の9月13日、良寛さの唯一の弟子で、その10年間師に昼夜尽くした。

 

1815(文化12)年 良寛さが58歳の時、遍澄さんは良寛さの法弟となり、五合庵を皮切りに共に暮らしたが、特に乙子神社境内の社務所草案に住んで居た頃、良寛さの創作活動が活発になった。この間、わたくしたちがしる良寛さの作品が盛り沢山創作された。 それは身の回りの世話などで遍澄さんのお勤めあって出来たことであった。

 

 その後、貞心尼の良寛さへの積極的なアプローチに気を利かせて師から離れて行ったが、後年、視力を失ったなかで散逸していた作品の蒐集に尽力した。

 

このような弟子であったから、良寛さの最期は、貞心尼ではなく遍澄さんの膝に頭を置いて永眠したという。

良寛さの最後の言葉は、南無阿弥陀仏 の「阿」であったと駆けつけて来た人たちによって言われているが、弟子への「ありがとう」の「あ」であったような気がしている。弟子に身を任せての南無阿弥陀仏だとすれば、如何にも良寛さんらしいと思う向きがある反面、「ありがとう」の「あ」であったとすればそれも良寛さのようであるとも思えるのである。

1831(天保2)年秋、証聴(遍澄)の「良寛禅師碑銘竝(ならびに)序」には、

「天保紀元庚寅冬示微恙臨終環坐咸乞遺偈師即開口阿一聲耳端然坐化焉實是同暦二辛卯正月六日世壽七十四法臘五十三也」(天保紀元庚寅冬、微恙を示す。終るに臨み環坐咸(みな)遺偈を乞ふ。師即ち口を開いて阿(あ)と一声せしのみ。端然として坐化す。実に是(これ)同暦二辛卯正月六日、世壽七十四、法臘五十三なり)」

 

天保元年には微(軽い)恙(病気)を示したのちの臨終を迎えたときの様子が描かれている。

おお!ほとんど黙視されるだけで終わっているようであるが、天保 2年は西暦1831年で、出家し、具足戒を守ってから重ねた年月が53年であったと、ここに刻印されている。

解良栄重の『良寛禅師奇話』に、出家した理由を尋ねられた良寛さは「遍澄に問うべし」と返答したと記されているが、その年は遡れば1779(安永 8)年のことで、その年に良寛さが国仙大和尚から得度したのが間違いなく22歳のときであることを「聴いた証」をこの

で、この歳をしる人は極めて限られた特別の人であったことを思えば、

 

「 ・・・ 終るに臨み、環坐みな遺偈(ゆいげ)を乞う。師すなわち口を開いてと一声せしのみ。端然として坐化す。実にこれ同暦(天保)二辛卯正月六日、世寿七十四、法臘五十三なり。」

とある。

良寛さが、いよいよ臨終をむかえようとするとき、人々は輪をつくって遺偈(ゆいげ)、すなわちこの世で最期につくる偈(げ)を乞うたところ師は口を開いて、)と一声だけ発せられ、そのまま端然と坐って遷化(せんげ)された。七十四歳、法臘(ほうろう)では五十三歳であった。」というところか。

 

そればかりか遍澄は、

良寛さ没後、江戸末期から明治維新の慌ただしい世相のなか、不自由な眼の身で師の作品を方々から集め、蔵雲和尚やに託すなど作品に多大な貢献をした。重ねた言い方になるが、この弟子が活躍しなかったならば、わたくしたちは多くの良寛さの作品を知ることも見ることもなかった。 
 

その遍澄(へんちょう)さ歿す。享年74

師良寛さ、そして貞心尼と同じく享年74でこの世を去った。

この弟子がもし良寛さの弟子でなかったなら、そして蔵雲和尚に多くの良寛さの作品を託さなかったなら、蔵雲和尚の偉業は果たせなかったから、その部分は贋作に紛れて埋もれていたやもしれない。遍澄さ!多謝!!である。

 

( 明治・大正を経て昭和に入り ・・・ )

 

 

(野辺おくり後の、良寛さ略譜)
 
 
■ 1928(昭和3)年 良寛歿後97年 

 

故鈴木文臺、従五位を贈られる。

遍澄さよりも6年前に、良寛さから公刊を許されなかった鈴木文臺が、良寛さ歿後39年の明治 3年、他界した。享年75 であった。

あったが、良寛さ歿後97年 の1928(昭和3)年11月10日に時の政府から故人に従五位が贈られた。58年前の 1870(明治3)年に歿している鈴木文臺に時の政府は勲章を授与した。真の目的は何にあったのであろう。

道徳の教材としてや政治的に利用されるような利用のされかたをもっとも恐れて避けてきた生前の良寛さであったが、19歳ころから良寛さに魅かれて、生涯テーマのモチーフにし創作し、良寛さからは出版を断られていたが、結果は、裏切ってまでして多くの著作を世に送り出してきた鈴木文臺の功績にたいしてであった。 


それが贈られる直前の6月4日

奉天に引き上げる張作霖を乗せた特別列車を関東軍高級参謀河本大作らが爆殺が発生した。

 

良寛さが66歳のとき経世家佐藤信淵は、

世界の中心である日本が、文字通りの世界の中心となるための秘策を提示する 「混同秘策」を成立させ、

満州をまず攻め取れと提案した。

 

このころから日本の軍国主義が動き出していた。

 

時の儒学者たちが五合庵の良寛さに寄ってたかって利用したように、

多くの人の手によって「人間良寛」が明確に浮き彫りになってきた歿後97年経ったこのとき、

恰好なネタとして利用するため故人鈴木文臺に従五位を贈り、時の政府は人心を惑わした、と思っている。

 

もちろん、鈴木文臺には問題はない。ないどころか、鈴木文臺も利用されたのである。仕掛けられたと思うのだ。

素直でやさしい国民が必要だったのだろう、またもや良寛さを持ち出して虚像化、神格化を企んだのかもしれない。

日本は、この頃から関東軍の力が大きくなって行って、敵を中国から連合国にまで拡大していったことは周知のとおりである。 /

 

 

 

略譜あとがき

 

 

生前、出奔したときから帰郷して五合庵に上る前頃まで良寛さんは基本独りであった。

 

このころまでほとんど何も出来ていなかった。何も成していなかった。

 

少なくとも18歳から39歳までの禅僧としての修行は、良寛さ自身が語るように寝食を忘れて衝天の士気で取り組んだ。師大忍国仙大和尚から一等首座の位のまま曹洞宗を飛び出してしまった。始祖道元の教えでは法系を継がねばならなかった。だが完全に裏切ってしまった。それから、諸方行脚・遍歴と言えば聞こえがいいが、漂泊すること5年。自分探しは未だ答えを得ていない。しびれを切らした以南は死を代償に帰郷させた。帰郷後の半年間も模索続けた。そして五合庵。

 

この間身につけた知見は、人間として悟達の連続であったろうが、自分は僧侶として何を為すかの自分探しも終わらず、見定めたうえでの使命も見えていない状態であった。

 

ところが40歳代の10年間、年譜を見るかぎり後半の7年間に自分探しの結論を見出したうえで、使命をも超えた良寛的仏法の創造を完成したと思われるのである。

 

そして見落としてはならないことは、それに向けて実に多くの人々によって支えられたことがよくわかる。

 

人々は良寛さのために、良寛さは人々のためにという関係を成立させている。

 

わたくしたちは僧侶ではないから、良寛さのような答え探しの仕方の真似をする訳にはいかない。

 

出来たとしても、同じように悟りを繰り返せる訳でもない。

 

しかし、

 

人が人としてどのように生きるかの示唆を、わたくしたちに替わって実践して形で見せてくれた。

 

帰納法とせずに演繹法で知ることができた。

 

この良寛さの教えは、大劫(だいごう)の間輝きつづけるであろうから、100年後、500年後、1000年後の青年たちも演繹法で少しの努力で容易に知ることができる。そして良寛さの作品に触れて、最高の美を味わい、歓び合える。

 

人類のためのその形見を残してくれたという意味では、作品と共に大切に受け継いで行かねばならないであろう。

 

 

以上は略譜でした。 以下、年譜です。

 

 

 

 

良寛年譜

 
 

良寛年譜/  出雲崎名主橘屋跡取り不在期

 
(良寛年譜)
 
 
良寛さが出家した148年前に日本仏教は葬式仏教へと向かいはじめていた

 

 

■ 1631寛永 8年 

 

日本仏教が葬式仏教へと向かう大きな転機は、江戸幕府が定めた檀家制度である。寺請制度や本末制度、1631 (寛永8)年の寺院の新寺建立禁止令などを通して、檀那寺は檀家を強く固定化することに成功する。

 

18歳だった文孝(のち良寛さ)が、名主見習いを放棄し黙って出奔後放浪した挙句、光照寺で禅に参じたのち巡錫した大忍国仙によって得度したのは良寛(文孝)さ22歳の1779(安永 8)年であったから、日本仏教が葬式仏教へと向かった時から148年後のこととなる

 

何よりも家制度が優先された時代であった

 

つまり、江戸時代の社会にはこの制度があったので、二男三男などを壻に取る前に養女を輿入れさせるなどの工夫をして家制度は保たれていた。

家を継ぐことが綿々と続いていた時代のことであった。その一人が、「おその」さんで、良寛さ誕生で歴史に名を残すことになった。

不名誉なことかもしれず、気の毒なおそのさんから良寛さがつながっている

 

(良寛年譜)

 
■ 1730享保15       

[ 跡取り不在期 ] (跡取り不在初年度

 

良寛物語は、良寛さが誕生する20年前から始まっていた
 
 

1730(享保15)年 8月21日に、良寛さの母おのぶの伯母(父の姉)「おその」が、佐渡の分家から出雲崎の本家橘屋山本家へ嫁いだが、子供に恵まれず終いとなった

 

つまり、700年間脈々と継げられた越後出雲崎の町名主橘屋山本家の跡取り不在の初年度となる。

以降20年間、この状態が続いて、ようやく家を継ぐ長子として誕生したのが、良寛さである。

もちろんこれは僧侶になっての名(法号)で、幼名は栄蔵。元服して文孝。得度(出家)する前は一時了寛と名乗っていたが、得度して自ら道号「大愚」と名乗り、法号は師の国仙和尚から「良寛」を与えられた

 

良寛さは、新潟の出雲崎の名主になるため生まれてきた人だった
 

だが、それは、栄蔵が誕生して22年後のことで、名主橘屋山本家としては、跡を継ぐ長子が誕生したとき、曾祖父も祖父も生存して居たから、喜びも一入であっただろうが、その長男の文孝さんが18歳のとき、出奔して僧侶になってしまったことから良寛物語と名主橘屋物語が始まり、今日私たちが知る良寛さとなったのである。

家制度が存在していた時代は、社会構造の一つとして、家長を筆頭とした家単位で管理されていて、それは身分制度の中で動き、名主の長子がその名主を継ぐ制度になっていた。

継ぐに当たって、司るところの御役所(おやくどころ)の代官所に届け出し、受理されてその任務に就く慣わしであった。

 

良寛さの母の伯母が居なければ、良寛さの作品も世に存在しなかった
 

言い換えれば、その人に子宝があったならば、日本人こころの故郷と言える良寛さも、一点も曇りのない良寛美の輝かしい多くの作品も世に存在しなかったことになる

 

これは重大な問題で、これから先百年、三百年、五百年とつづくであろう社会にあって、後世の人々は、良寛さも良寛美もまったくしらない暮らしとなることを意味したことになる。

 

人として如何に生きるべきか。この答えを良寛さは30数年苦行して見出し、示した。

 

もっと重要なことは、良寛さは人としての生き方を三十数年の修行で体得して、それを、私たちに示してくれたそれを、私たちは簡単に知ることができる。生き方の道を見失ったとき方向づけてくれている。この財産は大きい。おその様さまと感謝したい。

 

この年、江戸時代の国学者・文献学者・医師の本居宣長生まれる

 

(良寛年譜)
 
 
■ 1731(享保16)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の2年目)

 

 

■ 1732(享保17)年       

[ 跡取り不在期 ] (跡取り不在の3年目)

 

享保の飢饉

 

玉島円通寺の大先輩修行僧仙桂さんはこの年に生まれた

 

 

■ 1733(享保18)年           

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の4年目)

 

江戸で米問屋高間伝兵衛宅が打ち壊される。

 

■ 1734(享保19)年          

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の5年目)

 

良寛さの実父桂新次郎(四代目誉章)誕生 

 

シベリアから千島に進出してきたロシアの探検隊が、陸奥安房沖に出没

(良寛年譜)
 
 
■ 1735(享保20)年       

[ 跡取り不在期 ] (跡取り不在の6年目)

 

青木昆陽薩摩芋の性質と栽培法を記した『蕃薯考(ばんしょこう)』を著す

 

■ 1736(享保21年、元文元年4月28日 - )年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の7年目)

 

■ 1737(元文2)年          

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の8年目)

 

有願さが居なければ現在知る良寛さも居なかった

 

曹洞宗玉島円通寺の修行僧としては良寛さの大先輩に当たる東岫有願(とうしゅう・うがん)和尚が、代官島村の名主田澤孫右エ門の長子として生まれる。

良寛さにとって道友として一般に位置づかれているから、そうかもしれないが、むしろ完璧な師であったと私はそう思う

 

この人との出会いがなければ、私たちが知る良寛さも良寛さの作品もないと言っても過言ではないからだ。書も彼から教わっている。彼も良寛さから教わっている。

 

しかし残念ながらこの人をしる情報は極めて少ない。その少ないながらも、キッパリと言い切れるほど良寛さにとってかけがえのない人であった

 

つまり、良寛さには漢学の大森子陽先生、大而宗龍和尚、円通寺十世大忍国仙和尚の三人の師があったと研究本にはよく書かれているが、彼らから学んだことは良寛さの修行のフィニッシュにおいて、決定的な貢献はないが、有願さ(良寛さが知り合ったときは還俗していたと言われている)によって良寛さは閃いた。悟達である。

 

そして五合庵を離れて市井に根を下ろし、良寛さならではの菩薩行を活発化して行って、それを面白がってというと言い過ぎかもしれないが、少なくとも苦しいことが一つもない嬉々として愉しんで菩薩行に励んだ。励んだではない。その感慨もないくらい軽く伸びやかに人間らしく生きた。そのきっかけは、間違いなく有願さである

 

有願さは、若いとき諸国を行脚し、その後、新潟県燕市秋葉町1-5-4 万能寺六世の和尚となった。秋葉町と言えば、実父桂家四代目誉章の家の直ぐ傍である

 

その後隠居して、新潟市新飯田の円通庵(田面庵)で子供等に手習いを教えながら暮らしていた。

 

生い立ちの境遇も、気質も性格も、目指した僧侶の方向も、身に着けた学芸も生き方も、奇行のあるところも似ている。しかも年齢的には継父以南よりも一つ下で、まさに良寛さにとって父親のような間柄でありながら、年齢差を感じさせないくらい友人のように身近に感じさせる。この東岫有願との出会いは良寛さにとって決定的であったと見ている。

 

この有願さを道友として、田面庵に通って良寛さは、有願さから学び取って行った。その熱意や努力は並大抵のことではなかったと確信近いかたちで感じ取っている。ともかく尋常なことではなかったと思われる。自分探しの道がようやく有願によって見えて来たからである。何度も何度も頻繁に足を運んだはずだ。

 

良寛さが51歳のとき有願さは病死した。(享年72)。有願さは、この世の別れに際し良寛さを呼び寄せ、その膝にもたれて息をひきとったと言われている。有願さは良寛さの人としての温もりを感じながら目を閉じた。良寛さも尊敬する師の最後を看取ることができた。まさにこの時が、良寛物語の分岐点であったと思っている。

 

有願さは旅立って、そこにはもう東岫有願が居ないのに、良寛さは有願さの住んで居た庵を何度も訪ねている。

 

良寛さがこの時、五合庵(燕市国上1407番地)に仮住まいしていたのであれば、ここから新潟市新飯田円通庵(田面庵)までは片道4時間8分かかる。出雲崎町大字中山の西照寺に住んで居たなら、ここから片道6時間39分かかる。この時間をかけて、良寛さは居なくなった東岫有願に逢いたくて足しげく通ったことになる。それほど忘れられない有願さだった。そのような大切な大切な有願さが、この年にこの世に誕生した。

 

(良寛年譜)
 
 
■ 1738(元文3)年       

[ 跡取り不在期 ] (跡取り不在の9年目)

 
栄蔵(良寛さ)の漢学の師大森子陽生まれる
 

 

■ 1739(元文4)年      

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の10年目)

 

青木昆陽、幕府に登用される

平賀源内(11歳)このころ、からくり掛軸「御神酒(おみき)天神」をつくる

 

■ 1740(元文5)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の11年目)

 

 

■ 1741(元文6、寛保元年2月27日 -)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の12年目)

 

平賀源内(13歳)、三好喜右衛門に本草学を学んだ。

本草学とは今の薬学、博物学。

喜右衛門は漢学に造詣が深いのみならず農地開墾・池の造築改修を為し、陶磁器(小原焼)も造ったと言い、それゆえ源内も製陶の知識は早くから備わっていた。

 

■ 1742(寛保2)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の13年目)

 

 

■ 1743(寛保3)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の14年目)

 

 

■ 1744(寛保4、延享元年2月21日 - )年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の15年目)

 

 

■ 1745(延享2)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の16年目)

 

(良寛年譜)
 
 
■ 1746(延享3)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の17年目)

 

 

■ 1747(延享4)年       

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の18年目)

 

 

■ 1748(延享5、寛延元)年       

[ 跡取り不在期 ] (跡取り不在の19年目)

 

仮名手本忠臣蔵が初演される

 

■ 1749寛延 2          

[ 跡取り不在期 ](跡取り不在の20年目

 

跡取り不在が続いたくらい、名主橘屋は衰弱しきった空白の20年間だった

 

「おその」が、町名主橘屋山本家に嫁いで、長子に恵まれなかったため、再度佐渡相川の橘屋から養女を貰い受けることが決まって、良寛さの母が16歳のとき実現するのであるが、それまでの20年間のことがまったく空白状態となっている。

他にこれまで養子・養女の動きがあったのかは不明である。記録がない。

 

橘屋の衰退振りは、20年前に比べて30パーセント弱の実態

橘屋は、20年前おそのを迎え入れたときの力から、良寛さの母おのぶの時は、およそ30パーセント弱まで落ち込んでいる。それを裏付ける記録がある。つまりこのときすでに、本家・分家共に橘屋山本家は衰えていた。

現在私たちが知る名主橘屋の騒動や衰退振り以前に、同様か違ったかは不明だが、問題は大小問わずあったものと推定される。

 

良寛年譜/  橘屋衰退

 

 

(良寛年譜)
 
 
橘屋は勢いづいていた京屋にことごとく敗北し、弱体化。文孝18歳での出奔の悲劇はここから始まる

 

大きな問題は、代官所に記録が残って居れば知ることができるのであろうが、それを知るまでもなく、橘屋は特に西隣の尼瀬の京屋にことごとくやられて敗北し、力を失って居たことは確かである。

そこにおのぶであり、後年、文孝(良寛さ)の悲劇となるのである。

 

平賀源内。発明家・文芸家・陶芸家・画家・本草家・起業家・鉱山家となる。

21歳のこの年、父没で家督を継ぎ、平賀姓を名乗る。

 

高松藩志度御蔵番一人扶持、切米三石。藩の栗林薬園に関係か。渡辺桃源ら志度の俳諧仲間と親交、俳号李山

 

(良寛年譜)

 

■ 1750寛延 3年       

[ 実父新次郎との結婚期 ] (結婚1年目) 栄蔵誕生4年前。

 

以南と再婚する前の良寛さの実父
 

記録史料『佐渡国略記』に、「午6月5日 相川大間町の橘屋庄兵衛(相川橘屋五代目当主)妹おのぶ(16歳)が越後新津生まれの17歳の名跡新次郎と結婚の目合わせをするために母おみねと出雲崎橘屋左衛門方へ差越し 6月8日に相川を出立 7月13日に帰る」と記載されている。

 

20年振りに期待された良寛さの母
 

6月8日良寛の母おのぶ16歳のとき、佐渡相川の橘屋から養女となって、越後(新潟県)出雲崎の橘屋本家に入る。伯母おそのが嫁いだが子宝に恵まれなかったため20年振りに期待された。

 

おのぶ(16歳)が新津から来た名跡新次郎(17歳)こと新津の桂家四代目誉章(たかふみ)と夫婦となった。

 

幕府、農民の強訴・徒党・逃散を禁ずる

 

(良寛年譜)

 

■ 1751寛延4年宝暦元年10月27日 -)          

[ 実父新次郎との結婚期 ] (結婚 2年目) 栄蔵誕生 3年前。

 
良寛さに兄が居た。生きて居れば良寛さの人生は大きく変わっていた

 

良寛さの兄「ともたか(知孝か)」誕生といわれる。6歳で知空童子(ちくうどうし)夭折するか。

 

良寛さの母、郷里佐渡へ一旦里帰り
 

「4月18日 出雲崎橘屋左衛門方より養女おのぶ(17歳)、佐渡相川大間町の橘屋庄兵衛方へ来る。是の者は兄庄兵衛方より左衛門方へ遣わし婚礼致し、この度里帰りに来たり候由」。

 

 

(良寛年譜)

 

■ 1752宝暦2年     

[ 実父新次郎との結婚期 ] (結婚3年目) 栄蔵誕生2年前。
 

香川県高松藩士の子平賀源内(24歳)、 藩主・松平頼恭(よりたか)はわずか1年ほどだったが長崎に遊学させた。

源内は、西洋文化に触れ、医学、動植物、鉱物、物理、科学、地理などを勉強した。

 

(良寛年譜)

 

■ 1753宝暦3   

[ 実父新次郎との結婚期 ] (結婚4年目) 栄蔵誕生の1年前。

 

おそのさん役割を果たせず、良寛さ・以南の存在を知ることなく他界した

 

3月10日 おその歿。悲しいことに、良寛さの誕生を知らずに他界してしまった。気の毒なことだ。

 

平賀源内(25歳)長崎遊学の帰途、備後鞆之津(福山市鞆)で陶土を見つけ製陶を勧める

 

 

(良寛年譜)

 

■ 1754宝暦4         

[ 実父新次郎との結婚期 ] (結婚5年目に離婚) 栄蔵 1歳

 

この頃良寛さの実父と母の離婚が決まる

 

2~3月頃のことか。おのぶ(20歳)、新次郎(21歳)の時、新次郎が新津の桂家四代目を継ぐことで、おのぶとの離婚が決まる。

 

以南とのおのぶの結婚決まる
 

秋、新之助(のち俳号を以南)と、「おのぶ」(20歳) の結婚が決まった。

「新之助(以南)」と、「おのぶ」再婚一年前。

 

 

家制度のあおりで、以南が橘屋の名跡を継ぐための婿入りが役所で許可された

 

以南の義父新木与五右衛門(勝富)から与板御役所に、重内(以南)を11月25日に出雲崎橘屋へ名跡(みょうせき)を継がせるため婿入りさせたいと願いが出され、これが御役所から許可された。

 

実父新次郎が新津の桂家に引き戻された
 

3月頃、新次郎が新津に引き戻される。

新次郎が新津の桂家に戻ったあと、おのぶの妊娠が発覚した(4~5月の頃か?)のを知らされた以南の義父は、御役所へ入壻延期の願いを出した。

 

 
以南の婿入りは山本家と桂家の調整のため3ヶ月延期された
 

この願いで三ヶ月延期され、山本家と桂家の調整がなされたのであろう。経緯と結論は桂家にも伝えられたと思われる。

 

8月 平賀源内(26歳)、藩務退役願い許可。従弟権太夫を妹里与に入婿させ平賀家の家督を譲る。

 

この年の12月に栄蔵良寛さ誕生

 

12月 栄蔵(良寛さ)改めて長子として誕生となった。

菩提寺の円明院の過去帳には良寛さんの誕生日の記載がないらしい。良寛さが改竄か。

 

大而宗龍禅師(38歳)加賀(金沢)藩前田家の天徳院で修行。

美濃郡上藩の百姓強訴(郡上一揆)

 

(良寛年譜)
 
 
■ 1755宝暦5           

[ おのぶ再婚期 ]  (再婚 1年目) 栄蔵 2歳

 

1月 平賀源内(27歳)、量程器(今の万歩計)を作製。

 

以南入壻(にゅうせい)
 

2月18日に与板から橘屋に入壻した新木家二男の重内、娶せられて橘泰雄(20歳)・通称新之助(のち俳号を以南)と、「おのぶ」が(21歳)で結婚(再婚)した。

 

3月 平賀源内(27歳)、藩の重臣木村季明の求めで磁針器(方角を測る道具)を作製。

 

 

■ 1756宝暦6           

[ おのぶ再婚期 ]  (再婚 2年目) 栄蔵 3歳

 

3月 平賀源内(28歳)、大坂(戸田旭山に本草学を学ぶ)を経て江戸(田村藍水に本草学を学ぶ)へ。

渡辺桃源らと有馬温泉に遊び、句集を編む。江戸の本草家田村元雄に入門。

 

天徳院(金沢市)住職悦巌素忻大和尚の下で大而宗龍(40歳)首座

 

名主見習いの新之助のち俳号:以南、21歳

 

良寛年譜/ 出自の謎

 

■ 1757宝暦7           

[ 再婚3年目 ]   栄蔵 4歳

栄蔵良寛さ)、この年の誕生の説もある

 

6月 平賀源内(29歳)、林家に入門、湯島聖堂に寓居。

7月 平賀源内、師元雄を説いて第1回薬品会を湯島に開催。

 

新之助(のちに俳号:以南)22歳のこのころ、名主見習いか。

大而宗龍続いて永平寺に登り瑞世(ずいせ)の式を済ませ、悦巌素忻の法を嗣ぎ、当時の曹洞宗の主流とも言うべき月舟・徳翁門下の宗匠となった。

 

良寛年譜/  通説ではこの年に良寛さ誕生

 
 

 

■ 1758宝暦8年           

[ 誕生~幼年期 ]  (再婚4年目栄蔵 5歳

 

通説ではこの年に良寛さ誕生
 

通説では、この年の12月に栄蔵(良寛さ)誕生。幼名栄蔵。のち文孝。字は曲(まがり)。

越後出雲崎の名主役橘屋こと山本家の長子として生まれる。母おのぶ(24歳)

 

実父桂家四代目誉章はこの時から橘屋から身を引くか?
誉章が栄蔵(良寛さ)を桂家に入籍したいとの要請でもめての結論か。

 

 

以南の実子由之は隠居後、この桂家でしばらく過ごす。良寛さの計らいからか?
 
 

幕府、朝廷の尊王論者竹内式部ら17人を捕えた宝暦事件が起こる

平賀源内(30歳)、田村元雄、神田で第2回薬品会。源内5種出品

 

 

 

■ 1759宝暦9年 栄蔵 6歳          

[ 幼年期 ]

 

8月 平賀源内(31歳)、湯島で第3回薬品会、会主源内、紅毛産8種を含む50種出品。

9月、平賀源内、高松藩から「医術修行致シ候ニ付三人扶持」のお達し。

 

出雲崎の代官所管轄替え(出雲崎の代官所、従来の長岡藩預かりから高田藩預かりとなる)

 

通説ではこの年に以南は名主を継いだ説があるが、未だ名代であったようだ

 

入婿した栄蔵の父泰雄(以南)、名主名代職と神官の職を継ぎ、次郎左衛門と称す。以南24歳

以南、石井神社の神職を継ぐ。

竹内式部追放される

 

良寛年譜/  敦賀屋嘉七事件を起こした橘屋名主以南

 

(良寛年譜) 
 
 
■ 1760宝暦10年 栄蔵 7歳          

[ 幼年期 ]

 

5月 平賀源内(32歳)、この時から薬坊主格となり、「銀拾枚四人扶持」

7月、藩主頼恭に随行し帰郷、途中紀州の物産調査、ホルトノキ発見。秋、讃岐で採薬行

江戸大火

 

敦賀屋嘉七事件の橘屋名主以南は、嘉七を冷たい仕打ちで禍根残す
 
 

夏、町年寄敦賀屋吉左衛門の分家敦賀屋嘉七(善兵衛)事件発生。

(下駄履きで幕府役人の駕籠出迎えたため若党から踏みつけ打擲(ちょうてき)して嘉七顔に傷。

名主橘屋の意向を反映して作成され町年寄格辞退の願い出た事件。

 

この事件で橘屋が嘉七を庇わなかったことが禍根の原因となるが、それは名代の以南というより名主の新左衛門の責任だった

 

 

妹むら子(長女)生まれる。以南25歳

 

良寛年譜/  以南の愚直と若気の至りと虚勢と傲慢さで招いた敦賀屋祭礼事件

 

 

■ 1761宝暦11年 栄蔵 8歳          

[ 幼年期 ]

2月 平賀源内(33歳)、「禄仕拝辞願」提出(9月に許可)

 

3月、『木に餅の生弁(なるべん)』執筆。

5月『紅毛花譜』入手。

12月、幕命により芒硝を採取。このころ神田白壁町不動新道に移る。

 

以南の愚直と若気の至りと虚勢と傲慢さで招いた敦賀屋祭礼事件

 

9月18日 祭礼の件につき以南は、今度は出雲崎年寄敦賀屋本家で本陣宿をつとめる敦賀屋吉左衛門を巻き込んで事件を起こし、敦賀屋は代官所に告訴。以南名主名代26歳

 

11月11日 代官所へ十二所権現の氏子53人連署で両者和順計らいの願い提出

 

橘屋名主(良寛さの祖父山本新左衛門)の名主としての経営力にも問題があったと言える

 

曾祖父左門良胤歿 享年77

義提尼出生

信州上田藩全域で強訴・打ちこわし(上田騒動)

 

良寛年譜/  橘屋前に建てられていた金紋高札は資格を失い、取り外され、出雲崎は幕府勘定所直属とな

 

 
 
■ 1762宝暦12)年 栄蔵 9歳          

[ 幼少年期 ]

 

3月13日 天徳院を退院した大而宗龍の師・悦巌禅師が新潟新発田市紫雲寺村の観音院に帰居していたが示寂 

享年67。(以南27歳)

 

閏4月10日、平賀源内(34歳)、湯島で第5回東都薬品会を主催。

全国25箇所に取次所を設けるという日本で初めての全国規模での東都薬品会(物産博覧会)を開催する。

9月博物好きの松平頼恭公の下で相模や紀州海岸で貝を採取して『紀州産物志』執筆。

『貝殻目録』を著わし、讃岐の山野にても色々採取する。

 

9月9日 画家・谷 文晁生まれる。後年1809(文化6)年、出雲崎に来杖。

 

弟二男泰儀(俳号由之 - ゆうし)出生。以南27歳

 

これまで名主役橘屋前に立てられていた金紋高札は資格を失い、取り外された

出雲崎の名主役橘屋前に立てられていた高札は、勝訴した尼瀬敦賀屋前に設置される。「こうさつ」または「たてふだ」と呼び、掟、条目、法度などを書いて村の繁華な所など要所に立てたもの他人の手紙を敬って呼ぶ語。ここで言う橘屋や敦賀屋は、高札場。以南27歳 

 

出雲崎、幕府勘定所直属となる

山脇東洋歿(58歳)

 

良寛年譜/  以南の名主経営の脆弱さによって勝負に負けたその姿を見て栄蔵は育った 栄蔵 6歳

 
 
 
■ 1763宝暦13年 栄蔵 6歳       

[ 幼少年期 ]

 

7月 平賀源内(35歳)、全5回にわたる出品物2000種を基に『物類品隲』刊。

巻之六に「蔗(しょ=さとうきび)ヲ軋(きしり)テ漿ヲ取ル図」があり鳩渓山人自画としている。

 

本草学においては真実に近い描写が必要で、『物類品隲』においては 南蘋(なんぴん)派の宋紫石に絵を描かせている。

 

写実的な西洋画に強く惹かれたことは間違い無く、第2回目の長崎遊学の時自らが西洋画を描き、実技を身につけたと思う。

 

それが神戸市博物館蔵の「西洋婦人図」である。

 

その西洋婦人の襟の青色は西洋の合成顔料=プルシアンブルーで、源内は『物類品隲』の中でベレインブラーウと言って取り上げ、自らも使用し、それが秋田蘭画、更には北斎の富嶽三十六景に使われる青色の先鞭をつけたのである。

 

9月、賀茂真淵に入門。11月、平線儀(水平を出す道具)製作。

 

同月、『根南志具佐5巻』『風流志道軒伝5巻』を風来山人というペンネームで相次いで刊行。その内容と文体で多くの人々を魅了し影響を与え、"戯作(江戸戯作)の開祖"と言われていた。

 

以南の名主経営の脆弱さによって勝負に負けたその姿を見て栄蔵は育った

 

金紋高札の掲示場を尼瀬町に移転の件可決され、以南の敗訴となる。以南28歳

 

小林一茶 信濃の柏原村で生まれる 

 

良寛年譜/  以南(29歳)町名主となる 栄蔵 7歳

 

 

■ 1764宝暦14明和元年6月2日 - )年 栄蔵 7歳          

[ 少年期 ]

1月 平賀源内(36歳)、秩父へ。

中津川山中で石綿発見。

2月、香敷を試織、火浣布と名付けて(火で洗う布・燃えない布)を創製し、幕府に献上する。

 

ここでいよいよ以南は名主となるが、マネジメント能力に欠けていた。誰も教えていないのでは。
 
 

以南(29歳)、町名主となる

良寛年譜/  尼瀬にある曹洞宗光照寺の寺子屋に通う  以南30歳

 

 

 

■ 1765明和2年 栄蔵 8歳          

[ 少年期 ]

 

3月 平賀源内(37歳)、ドドネウス『紅毛本草』入手。

 

4月『火浣布略説』その奥付『嗣出書目』に日本物産図譜への構想を示す。

 

『物産書目』に記された如く多くの西洋の博物書を取り揃えたが、その構想は実現することなく終わったようだ。

 

源内は多くの分野に活躍していたけれど、親友杉田玄白は、本草家としての源内こそ本来の姿だと評価していた。

 

『番椒譜』は発刊前の書だが、唐辛子研究書として今尚抜群の書である。

 

栄蔵(良寛さ)と光照寺との関係の始まりは寺小屋での勉強

 

尼瀬にある曹洞宗光照寺の寺子屋に通う  以南30歳

良寛さの祖父、先代新左衛門病歿す

弟(三男)富蔵(誕生後夭折か。理空童子)

 

 

 
 
 
■ 1766明和 3年 栄蔵 9歳          

[ 少年期 ]

 

秋 平賀源内(38歳)、秩父中津川で「寒水石」をはじめ金銀銅鉄・明礬・磁石なども見つけ、中島一族と組んで秋、秩父の金山事業および鉄山事業に着手するが、いずれも休業に追い込まれた。

 

しかし鉄山事業の時は休止したあと、そこから運搬のための道路・河川の改修を利用し、製鉄に縁のあった炭焼きを大々的に事業として起こした。

 

豊富な森林資源を荒川通船を利用することにより低コストで江戸へ運ぶことを考えたこの事業は、源内の起業家としての面目躍如であり成功する筈であったが、資金不足から問屋に資本参加を頼み、当然利潤が少なくなり、熱意も無くなり尻すぼみとなる。

 

この時の師は光照寺十一世蘭谷万秀(らんこくばんしゅう)だったか。玄乗破了は第十二世

 

尼瀬にある曹洞宗光照寺の寺子屋に通う 2年目。以南31歳

 

 

 

■ 1767明和4年 栄蔵10歳      

[ 少年期 ]

 

蘭谷万秀和尚は橘屋山本家と親戚関係の人

 

尼瀬にある曹洞宗光照寺の寺子屋に通う 3年目

三男宥澄(ゆうちょう)生まれる  以南32歳

良寛詩『一思少年時読書在空堂』は、この頃のことか。

 

7月、田沼意次(49歳)が側用人(そばようにん)に就任

平賀源内(39歳)、『長枕褥合戦』を著す

上杉鷹山、米沢藩主となり藩政改革に着手

山県大弐、幕府批判の科(とが)で死刑、明和事件

江戸や関東で秘事法門弾圧

良寛年譜/  小学、三字経のほか十三経を習い読む

 

 

 

■ 1768明和5年 栄蔵11歳         

[ 少年期 ] 

 

1月 平賀源内(40歳)、タルモメイトル(寒暖計/ 寒熱昇降器)製作。

 

2月『日本創製寒熱昇降記』筆。

3月、『風来六々部集』所収の『痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』執筆。

 

漢学の基礎を学ぶ前の基礎を光照寺で10歳までの3年間で学んだことになる

 

栄蔵が子陽門下となったのはこの年からとも翌年からともの両説がある。

 

以南(33歳)、北海道に旅する

 
 

この1768(明和5)年は、田沼意次(49歳)が、第十代将軍徳川家治の命令を老中に伝達することを司った側用人(そばようにん)に就任後1年の時で、平賀源内(40歳)は、タルモメイトル(寒暖計/ 寒熱昇降器)製作。

2月『日本創製寒熱昇降記』筆。3月、『風来六々部集』所収の『痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』執筆。

 

以南(33歳)は、北海道に旅。

 

栄蔵のち良寛さは、光照寺の寺子屋に3年間通ったのち、儒者大森子陽の門下となって、親戚の中村家に止宿し、狭川塾で漢学の基礎を学ぶ6年間の足掛かりの年であった

 
 
■ 1769明和6年 栄蔵12歳          

[ 少年期 ]

 

1月 平賀源内(41歳)『根無草後編』5巻刊。

 

8月 大忍国仙和尚、相模国(神奈川県)愛甲郡愛川町勝楽寺の十八世を経て、円通寺第十世となり普住。47歳。

 

儒者大森子陽の狭川塾で漢学の基礎を学ぶ

 

小学、三字経のほか十三経を習い読む

十三経は中国の典籍十三種で、『周易』・『尚書』・『毛詩』・『周礼』・『儀礼』・『春秋左氏伝』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』・『四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(詩経・易経・書経・春秋・礼記』・『文選』・『唐詩選』・『孝経』・『爾雅』を言い、儒学の基本的な経典。

 

良寛さは、論語の影響に加え、歌は西行、詩は寒山、思想的には荘子の影響を強く受けた。
強く受けたことが、後年の詩歌や書などににじみ出ていると言える

経書に親しみ、とくに『論語』を昧読する。盆踊りを嫌って論語を読んでいたという。特にその中の「里仁篇」を愛誦。『論語』は生涯座右から離さなかった。

 

二女 たか生まれる。以南34歳

 

 

 

■ 1770明和 7年 栄蔵13歳       

[ 少年期 ]

 

1月 平賀源内(42歳)、浄瑠璃『源氏大草紙』著す。

 

浄瑠璃『神霊矢口渡』初演。以後続々源内新作浄瑠璃上演。大請けとなる。

 

それまでの江戸の浄瑠璃は大坂で人気のあるものを再上演するといった状態であったものを、江戸を舞台に江戸弁を取り入れ、筋書きも面白く今に上演されているほどで、「江戸浄瑠璃の開祖」とも言われている。

 

浄瑠璃では福内鬼外というペンネームで9編作り、上演されている。10月、阿蘭陀翻訳御用として再び長崎へ。

 

4月 当時全国に百姓一揆多発していたので幕府は、農民の徒党・強訴・逃散取締令発令した。

 

狭川塾「三峰館」を退学して出雲崎に戻ったのは18歳の時。止宿して6年間学んだ
 

儒者大森子陽の狭川塾で漢学の基礎を更に学ぶ。

 

 

■ 1771明和8年 栄蔵14歳          

[ 少年期 ]

 

5月 平賀源内(43歳)、浄瑠璃『弓勢智勇湊』著す。

 

長崎で中国・オランダから高価な陶磁器が輸入されるのを見て、天草深江村の土が製陶に適しているのに気づき、製陶事業は先ず幕府に取り組ませるべく最初は時の幕府『陶器工夫書』を天草代官に提出。

大いに輸出することも可能であり、国益になると進言。受け入れられないので長崎からの帰途讃岐の地で渡辺桃源(宇治屋)などに出資を呼び掛ける。

それに誰も応じてくれなかった。

第2回長崎遊学の帰途、大坂に滞在し攝津多田銀銅山(現:兵庫県猪名川町)を調査・水抜き工夫をする。

 

また大和吉野山から大峰山にかけての金峰山では試掘を計画した。

 

長崎からの帰途小豆島に寄り、大坂に滞在。

7月松平頼恭没。

郷里志度で、源内焼の陶法を伝える。

 

今日小学、三字経のほか十三経と同じ内容を同レベルで
学んだとすると、どの程度の学識が得られるのだろうか。
文部省の学習指導要領と比較対象ではないが、人間形成の意味でどうなのだろう

 

儒者大森子陽の狭川塾で漢学の基礎を深める。

四男香(かおる)生まれる  以南36歳

 

越後大旱魃つづく。百姓一揆起こる

大旱魃つづく

与謝蕪村、池大雅二人による『十便十宜図』が描かれる

前野良沢、杉田玄白ら江戸小塚原で腑分けを見る

『解体新書』翻訳開始。杉田玄白は平賀源内の親友で、後年平賀源内の葬儀は玄白が仕切った。

 

御蔭参りに200万人が参加し、伊勢神宮を参拝。

閏3月、阿波国(徳島県)で始まった伊勢神宮(三重県伊勢市)への集団参宮は、やがて山陰、東海地方へも広まった。

その発端は、手習屋で学んでいた子どもたちが20~30人の集団で参宮に出掛けたことだと言われている。

御蔭参りは60年ごとに流行すると言われていた。

良寛年譜/  元服し、文孝となる

 

 

 

■ 1772明和9安永元年 栄蔵・文孝15歳          

[ 青少年期 ]  四男 香 2歳・三女 みか誕生5年前

 

2月 平賀源内(44歳)、目黒行人坂の大火で源内宅類焼。

 

在大坂、各地銅銀山を調査、日本初の羊の飼育から始めて羅紗を試織の国倫織(くにともおり)」と名付けて事業化を計画した。

 

これも民間に出資者が無く、秋、江戸に帰り、直ちに幕府勘定奉行川井越前守久敬にも進言。

 

秩父の鉄山事業を進め、翌年春着手する。

当初は鉄銭鋳造の需要で順調とみえたが、「吹方熟し申さず、行はれかね」て失敗に終わり安永3年中には休山となる。

 

しかし1800年には幕府の製絨所計画ができている。

菅原櫛(源内櫛)や金唐革コピーは資本がかからない程度で家内工業として起業した。

 

源内の作った金唐革は1830年代に大手の紙企業が取り上げ、明治になって大蔵省印刷局まで巻き込んだ輸出商品になる。

 

狭川塾で学んだ漢学だけでなく、橘屋山本家の蔵書にも手を伸ばして勉学に励んだと思われる

 

儒者大森子陽の狭川塾で漢学の基礎を学ぶ。

 

元服し、文孝となる。呼び名が替わって人格にどのような変化があったろう

 

山本栄蔵(のち良寛)から山本新左エ門文孝(ぶんこう)と名乗る。以南37歳

 

名主以南、またもや失策

 

以南、敦賀屋に対し、代官所の儀式参加の差し止めを策し、却って代官所の説論を受ける。

 

俳諧師・名古屋の久村暁台(43歳)連句集『秋の日』を刊行して中興俳諧の先駆者となる。

 

田沼意次老中に就任

会津藩で藩政改革に着手

良寛年譜/  儒者大森子陽の狭川塾で漢学の基礎を学ぶ

 

 

■ 1773安永2年 文孝16歳       

[ 青年期 ] 四男 香 3歳・三女 みか 誕生4年前

 

智光童子 (ちこうどうじ)良寛の弟・香と妹・みかの間に居たとされる妹、この年に誕生か。六歳で夭折

 

春 平賀源内(45歳)、中津川鉄山事業着手。

6月29日秋田藩の要請により、鉱山師吉田理兵衛と2人で鉱山の調査・指導に江戸を出立する。

院内銀山、阿仁銅山などで産銅から銀絞りを指導したり、沼館山で亜鉛を発見したりして10月19日久保田を発つまで110日余の行程であった。

 

秋田藩主佐竹曙山と藩士小田野直武に洋画を伝える。

 

秋田が西洋画の発祥の地(秋田蘭画)となったり、焼物にも新しい陶法を教えたりで、秋田にも大きな影響を残した。

 

司馬江漢らと親交。

浄瑠璃『嫩榕葉(わかみどり)相生源氏』著す。

 

儒者大森子陽の狭川塾で漢学の基礎を学ぶ。

全国に疫病流行する

諸国に疫病流行

 

 

 

■ 1774安永3年 文孝17歳       

[ 青年期 ]

 

7月 平賀源内(46歳)、浄瑠璃『前太平記古跡鑑』著す。

 

『里のをだ巻評』、『風来六々部集』所収の『放屁論(へっぴりろん)』刊行。

 

8月 前野良沢、杉田玄白らの『解体新書』刊行。

秋田へ鉱山指導に招かれた折、角館の宿で小田野直武に西洋画の陰影法・遠近法を教える。

それがきっかけで小田野直武は江戸に出て『解体新書』の挿絵を描き、西洋画法を身につけ、秋田の地に蘭画が広まるのである。

 

秋田藩主佐竹曙山の『画法綱領』と司馬江漢の『西洋画談』が共に源内の弟子であるところの画論から源内のそれも類推される。

 

南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内は居たのである。

 

妹、智光童子誕生はこの年の説もある

 

良寛さの実父は橘屋山本家から桂家に戻ったのが1754(宝暦4)年。それから20年経っていた

 

桂家三代目によって龍雲寺が建立される

継父以南の二人目の俳諧の師・暁台(45歳)

京都にしばしば上る。

義仲寺幻住庵に滞在。与謝野蕪村の来訪で交わる。

 

九州長崎沖の五島藩ではキリシタン関連の人別改めがおこなわれ、その結果、百姓が激減していることがわかった。

信仰保持の苦難に悩んでいたキリシタンたちが離島し、分散。

良寛年譜/  栄蔵(文孝・良寛さ)の実父が彼から離れて20年経っていた

 
 
■ 1775安永4年 文孝18歳       

[ 青年期名主見習い出奔放浪期 ]

 

6月 文孝、名主見習いのため大森子陽の狭川塾「三峰館」を退学。出雲崎に戻る。

 

文孝が結婚し離婚し、実子が居たが死亡した

 

文孝、関根家の娘歓(よし)と結婚するが、半年で離婚。別文献では、前年の1774(安永3)年とある。

 

前後して文孝はいよいよ名主見習いとなるが、長くは続かなかった

良寛年譜/  文孝、名主見習いとなる  以南、七夕事件を起こしてしまった

文孝、名主見習いとなる。

 

6月12日 名古屋の俳諧師暁台(46歳)出雲崎俳人の旦水を訪ね、佐渡へ渡る。

 

6月29日 暁台出雲崎に戻る。(名主 橘屋以南40歳)

 

継父以南、七夕事件を起こしてしまった

 

7月11日 敦賀屋祝儀事件起こる(親友の兄で学友の敦賀屋長兵衛の不始末を父以南(40歳)が、栄蔵を立ち会わせのうえ叱責して事件となる。

 

以南、敦賀屋の儀式参加差し止めを策し、代官所の説論を受ける。

 

良寛年譜/  遂に!文孝出奔

 
文孝出奔
 
 
18歳名主見習いの文孝は、業を煮やして出奔。
衝動的だったかもしれないが、知性と感性のマグマは溜まっていた。
姿を消した

 

7月17日(先勝)夜、文孝出奔。文孝18歳 以南40歳

 

出奔は、漢学その他で学んだ知識による18歳のボキャブラリーと以南との確執の齟齬が原因か。名主にならなければならなかった立場からの逃走もその一因ではなかったか。だがこの時は進路は読み込んでいなかったと思われる。本格的に自分探しが始まった
 
名主見習いの立場では勝手に姿を消すことはお上から許されていなかった

 

以南、代官所に56日の「他出願い」提出し、突然の出奔に慌てて文孝を探す

 

いきなり光照寺に飛び込んだのは考えにくい

 

これまでの通説では、尼瀬町の曹洞宗光照寺に投じて禅僧の見習いをするとあるが、放浪し身をしばらく隠した説が有力

 

4年後の玉島円通寺十世大忍国仙大和尚の光照寺への巡錫で得度(出家して大愚良寛となった)したのは「たまたまであった」との良寛さの記述から、いきなり光照寺に飛び込んだのは考えにくい。

 

以南は探したが見つけ出せなかった。

名主見習いが姿を消した」という問題は、立場上普通の家でとは事情が違って、見つけ出せなければ、奉行所に届け出て、代わりの者を申請し、江戸幕府まで報告が上がる事件であるから、以南がうろたえて探しに探した様子は手に取るように想像できる。

だが、名主の立場でそこまでしても以南には行方を掴むことはできないほどの重大問題であった。

 

名主見習いの文孝のち良寛さには、恰好の隠れ家があった

その隠れ家は、おそらく、若き文孝自らのこれからの進路に関する書籍を読み漁る絶好な環境にあったと、見ている。

 

危機的財政状況の米沢藩において藩主上杉鷹山が改革を本格的に開始

 

 

 

■ 1776安永5年 文孝19歳   

[ 放浪期 ]

 

多くの研究本によればいきなり光照寺に逃げ込み、そこで了寛と名乗り、自ら髪を剃り落したと言われているが、否、放浪していたという説がある

 

2月 以南の俳諧の師・暁台(49歳)京に上る。蕪村を訪ね伏見・嵯峨に遊ぶ。

 

文孝とは再従弟の、山田杜皐(とこう)出生。以南41歳

 

春 平賀源内(48歳)、菅原櫛(源内櫛)を売り出す。

『天狗髑髏鑒定縁起(しゃれこうべめききえんぎ)』著す。

 

11月 平賀源内が、エレキテル(摩擦静電気発生装置)に成功。

12月、『天狗髑髏鑒定縁起』執筆。

 

 

良寛年譜/  了観(文孝21歳)は妹「みか」が生まれたことを知っていたのだろうか

 

 

 

■ 1777安永6年 文孝20歳   

[ 放浪期 ]

 

5月、平賀源内(49歳)、『放屁論後編』刊行

 

文孝は、妹が誕生したことは知らなかったかもしれない

 

三女みか生まれる。以南42歳  

小林一茶15歳。郷里信濃柏原から江戸に奉公に出る。以降10年間消息不明

 

 

良寛年譜/  出奔~放浪~光照寺時代

 
 
 
 
■ 1778安永7年 文孝21歳   

[ 出奔放浪光照寺 ]

 

ロシアが通商を要求したり、平賀源内の発明や文芸活動を了観(文孝)は知っていたのだろうか。だとすれば、どのように重ね合わせて捉えていたのだろう

 

6月 ロシア船、蝦夷厚岸に来て貿易要求(ロシア船、蝦夷厚岸に来て通商要求。翌年、松前藩拒否)

 

8月 平賀源内(50歳)が晩年著した世相風刺読み物「談義本」のひとつ『菩提樹之弁』、9月の滑稽本『飛だ噂の評』成る

 

弟・二男泰儀(俳号:由之-ゆうし)17歳、新左衛門を襲名し名主見習いになる。了観21歳。以南43歳、桂誉章46歳、大而宗龍62歳。

了観文孝は済まぬ気持ちと家業隆盛を心から祈る気持ちであったろう

 

暁台(49歳)京に上るが、与謝野蕪村との交流は以前ほど親密さがない

 

文孝が大而宗龍和尚に相見したのは、宗龍が新潟に居たこの時しか好機はなかったのではないか

 

大而宗龍和尚プロジェクト17年目の新潟県新発田市・観音院にての第25回夏結制安居3か月間実施中に

文孝は、大而宗龍和尚に相見し、禅問答を投げかけ、師事を試みたことは想定できる

 

 

良寛年譜/  国仙和尚の光照寺来錫が文孝の人生を変えた

 

 

 

■ 1779安永 8年 出家した良寛文孝22歳       

[ 光照寺にて国仙和尚による得度出家受具備中玉島円通寺での修行 1年目 ]

 

文孝は師の手によってではなく自らの手で剃髪したとの説もある。

 

いつも原点に戻るとき良寛さは「了寛」と名乗った

 

そしてこのころ文孝、「了寛」と名乗っていたもようである。玄乗破了によって法名とされた説もあるが、了寛は得度していない時点の仮名であったのかもしれない。

 

この「了寛」の名は、玉島円通寺を離れた行脚中も名乗った。大而宗龍和尚のプロジェクトでの3か月間の修行時も「了寛」と名乗った。 だが以南の法要で歌や句を詠んだときは「良寛」とした。帰郷した後、半年間は「了寛」と名乗った。五合庵以降は「良寛」で通した。自分の立場を踏まえ、明白に使い分けている。新発田・観音院隠居の大而宗龍和尚に相見したときは剃髪していなかったと思われるから、この時は「了寛」ではなく「文孝」と名乗って面会したと思われる。

 

国仙和尚光照寺に来錫
 

大忍国仙大和尚は尼瀬の光照寺に巡錫し、5月からの3ヶ月間国仙の三番目の弟子玄乗破了の晋山結制と授戒会を兼ねて門人の大心を従えて越後入りした。解制は8月であったと言われている。

 

以南は良寛さの出家断念説得の口添えを光照寺先住の第十一世世蘭谷万秀に依頼したとも言われている
 
 

蘭谷万秀は名主橘屋山本家と親戚関係であったからでもあった。以南の願望は百も承知であったろうが、僧侶の立場で総合的に判断して22歳の了観(文孝)の将来を考えたとき、出家断念を説得する以南の要望に応えるべきか、幼い時寺小屋で勉学に励んだ頃から知っているだけに、応えたあとの了(文孝)の姿を創造して、最善の方法であろうかと悩んだはずだ。資性・気質も性格も、何が好きで何が嫌いか、将来どの程度の人物として育つ可能性も熟知した延長で、ここは僧侶になることが賢明であると結論づけて、直接調整できない立場から、大而宗龍和尚に依頼したのではないか。大而宗龍和尚は実父桂誉章と事前に相談した可能性もある。

 

その光照寺の玄乗破了の許に玉島円通寺十世国仙大和尚が身を寄せたのは、宗龍禅師(58歳)の計らいであったという説もあることからそう推測できるのである。法系が極めて近いことも話を通し易かったであろう。

実父の兄・桂家三代目誉春(たかはる)は、晩年には仏教に心を寄せ、宝暦13年栄蔵 6歳のとき秋葉山に円通閣、葛塚(旧豊栄市)に龍雲寺を建立した。

実父桂誉章はかつて在家信徒の身で大忍国仙の下で参禅して、その影響で宝暦13年秋葉山に円通閣を造り、玉島円通寺僧侶たちの北越への教化活動に支援していたようである。このような縁で、国仙和尚の門弟として僧侶になる方向が定まったのではないか。

 

良寛年譜/  禅僧良寛誕生経緯の仮説

 

良寛誕生経緯の仮説

 

大而宗龍和尚は隠居の身であったから弟子入りは受け入れて貰えなかったであろう。文孝は大忍国仙に強い意志で師事した。後年玉島円通寺で国仙を日本一と讃えたが、初対面の時から随いたいと素直に思ったことであろう。

 

継父以南を交えての相談の結果、出家断念説得を受けていた蘭谷万秀も賛同し、出家することがその場で決まったのであろう。この背後に大而宗龍や実父桂誉章の計らいが働いていたとも思える。

 

おそらく、玄乗破了の晋山結制後の授戒会で参禅して、良寛さは初めて玉島円通寺十世国仙大和尚の気高く威厳がある姿に大而宗龍和尚とはまた違った受け止めを心に刻んだのではないだろうか。まさに因縁の瞬間であった。(良寛さ22歳、以南44歳実父桂誉章47歳)

 

国仙和尚の存在を了観(文孝)に伝えたのは誰か。了観にたいし、玄乗破了の師円通寺十世大忍国仙大和尚が来錫するから相見するといいと進言した者が居る。それが誰だったのか。玄乗破了が濃厚だ。背後に先代もちらつく。その後ろも影を見る。

 

良寛年譜/  禅僧大愚良寛時代

 

 

大愚良寛誕生は、「たまたま」だった。

『偶剃鬚髪作僧伽』(漢詩屏風)に「たまたま鬚髪を剃って僧伽となり」と書いた。他にも複数在る

 

それにしても良寛さは「僧侶になったのは、たまたまであった」と書き残している。どのような経緯で得度したのか。鬚髪を剃ってはこれまでと違い出家の式で師の剃りを得てのことである。

玄乗破了の晋山結制に立ち会って、参禅したのが先でその後、得度の方向で動いたのではないか

 

良寛さは「僧となって禅を学びしに非ず、禅に参じて後僧となる」と言っているように、出奔後すぐに光照寺に飛び込んで僧となったのではなく、国仙和尚が光照寺に立ち寄った後、禅に参じて得度したということだろう。

 

良寛年譜/  母との永訣の丘

 

 
母との永訣の蛇崩れの丘

 

9月一行は出立。母との永訣の「蛇崩れの丘」にて手を挙げて城闉(じょういん)に謝す大愚良寛のぎこちない黒染の姿を母おのぶは、どのような気持ちで送っただろう。

 

裏日本日本海沿岸で生まれて育って、初めて見る表日本の穏やかで波が美しく映える瀬戸内海を背後に自分探しの修行が始まった

 

良寛さは大忍国仙和尚に随侍して、越後を回り、その後長野の善光寺、大坂を経由して備中(岡山県)玉島の円通寺に掛錫。十世の大忍国仙の室に伴い円通寺に入り安居する。国仙57歳。以南44歳

 

妹 智光童子6歳?夭折か。

 

平賀源内(51歳)、『金の生木』、浄瑠璃『荒御霊(あらみたま)新田神徳』、浄瑠璃『実生(みばえ)源氏金王桜』著す。

 

光格天皇即位

暁台(50歳)、京で活躍

 

良寛年譜/  寝食を忘れて曹洞禅を修得し続けた良寛さ

 

 

  

 

■ 1780安永 9年  良寛23歳       

[ 円通寺での修行 2年目 ]

 

暁台(51歳)、京で活躍

 

橘以南この頃、「炉ふたいでその俤おもかげをわすればや」の句を詠む。

 

自分探しの道で、先ず禅修行僧として何を修得するか課題で、良寛さはひたすらそれに励んだ

 

曹洞宗における代表的な宗典としての開経偈、摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)、日用経典の修証義、妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈、舍利礼文、普回向五観の偈、普勧坐禅儀、五観の偈(食事の偈)、正法眼蔵、伝光録に加え、懺悔文、大悲心陀羅尼 が曹洞宗のお経であるから、少なくとも、これらに書かれている教えは身に染み込ませた。精神構造の基礎を成したと思われる。

 
寝食を忘れて曹洞禅を修得し続けた良寛さ
 

基礎を成したということは、経で用いられた言語とその意味するところを悉くマスターして自分のものにして行った。殆ど寝食を忘れてのことであったと良寛さは述懐している。

 

仏典・経典の用語は、仏教独特であるばかりか、禅宗の曹洞宗は曹洞宗での解釈となろう。道元を始祖とする曹洞禅は、道元が帰朝後の1233年34歳のときに、京都の深草に興聖寺を開き、本格的な僧堂(坐禅堂)を建立し坐禅修行をつづけたことに始まる。

 

この当時、曹洞宗の教えは実に多くの高僧によって546年間も語りつがれていた。

 

良寛さが22歳で玉島円通寺に安居したのが1779(安永8)年であるから、曹洞宗の教えは実に多くの高僧によって546年間も語りつがれていた。この間微動だもしなかった根本理念もあったろうが、高僧らによって磨き輝いた教えも受け継がれただろうことを考えると、良寛さが18歳ころから読み解いた禅にたいして円通寺の13年間で得た知識は目から鱗も多かったにちがいない。

 

良寛さの詩歌その他発する言語の持つ真の意味は、修行して得た仏典や経典が礎になっているものが多々ある。真の良寛さを知るには、これと、禅で悟って体得した数々の真理と良寛さの持つ感性および徳性を合わせ持ってのこととなろう。

 

良寛さのことだから、徹底的に用語を繙き、読み込んだと思える。真面目で勉強熱心で実直で素直であったから、一つひとつ用語を解釈して自分のものにしたものと思う。

 

良寛さのこの頃、道友で庇護者で師の円通庵(田面庵)東岫有願は、諸国行脚し、越後帰郷後、燕・万能寺の六世として普住。

 

相当な脱線ぶりで気取り屋狂顚の奇僧 円通庵(田面庵)東岫有願は、良寛さより20歳年上の庇護者であり書の師であり道友以上の存在の、良寛さにとって生涯を決める気づきに貢献した禅僧(後年還俗して居た)。有願が居なければ今日の良寛さはない。

 

 

良寛年譜/  源内 !

 

 

平賀源内(52歳)浄瑠璃『霊験宮戸川』を著す。彼の最後の仕事となった

 

平賀源内の、あっけない最期。

 

11月20日 大名屋敷の修理を任された平賀源内は自宅で建築業者の秋田屋久左衛門の子・久五郎と松本十郎兵衛、家中の丈右衛門とともに11月20日自宅で酒を飲んでいた。

 

ここで源内が作成した修理計画書を2人に見せて合意を得ようとしたが、その後、酔って眠った平賀源内が翌日目を覚ますと修理計画書がないことに気づく。

 

これを「2人が計画書を盗んでいった」と考えた源内は2人を切り付け、久五郎は死亡し丈右衛門もケガ。

 

この罪により捕らえられた源内は約1か月後の12月18日に破傷風を発症、小伝馬町の獄中でそのまま52歳の若さで帰らぬ人となった。

 

源内 !

友人の杉田玄白は幕府の許可が下りない中で葬儀も行い、友人らの手で浅草総泉寺に埋葬された。

 

浅草総泉寺はその後板橋に移転するが、墓所は現在も寺院があった場所に残っている。墓所住所:東京都台東区橋場2-22-2

 

良寛年譜/  良寛さ道友の大忍魯仙が尼瀬に生まれる

 

 

 
 
 
■ 1781安永10年 天明元年4月2日- )年 良寛24歳      

[ 円通寺での修行 3年目 ]

 

良寛さ円通寺での修行 3年目の24歳のとき、小黒佐久太(大忍魯仙)尼瀬に生まれた

 

以南の二人目の俳諧の師・暁台の活動は活発に行われていた

 

暁台(50歳)湖南と京での芭蕉百回忌(1793(寛政5)年興行)の準備に取り掛かる。

 

頼山陽はこの頃、生まれた

 

江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人の頼山陽生まれる。

主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。

 

初代近江屋長兵衛、大阪・道修町で薬種商を開業

 

 
 
■ 1782天明 2年 良寛25歳       

[ 円通寺での修行4年目 ]

 

7月 下総印旛沼干拓に着手

天明の大飢饉奥州に始まり全国に及び、1787(天明 7)年まで続く。

長岡城が浸水

暁台(51歳)江戸の方へ足を運び東北白河の関を超え、奥州に入る。北陸までの旅を企画したが雪の山中で断念。

 

伊勢亀山領内の光太夫(神昌丸の船頭)が紀州の御回米を積んで江戸に向かう。途中、駿河の沖で大暴風雨にあう(太平洋を8ヶ月漂流。翌年7月20日まで)

 

良寛年譜/  以南は俳諧の道でも挫折

 

良寛さの母が亡くなっ(1783(天明 3)年)て三年後、代官所を尼瀬より出雲崎に復帰する訴訟にたいし敗れた(1786(天明 6)年)。同じ年に神明社社地所有権争いに関する訴訟も橘屋側の敗訴となった。

 

橘以南は翌年隠居して、たびたび俳諧の旅に出た挙句、10年の奥の細道の旅へ出、謎を残して失跡した。

 

名主旧家を継いだが、経営能力に欠け時代の流れに押し流された以南は、俳諧の道でも挫折したか

 

以南は、1759(宝暦 9)年 栄蔵 2歳。以南24歳のとき町名主になった。それから28年間、時代に流されて衰退する橘屋を支えようとしたのであろうが、それが出来ず、次男の由之に家督を譲って、特段名主としての仕事を果たすことができなかった。争いに負けただけでなく、「修道陰徳」といったことも成すことなく終えた。得意とした俳句で余生をと考えたのかもしれないが、旅に出て帰らず、京の桂川に入水した。自殺 しなければ、普通一般の父親と受け止められたのではないか。だが、それと引き換えに良寛さが帰郷を決意したのであるから、「陰徳」はあったと言えるのかもしれない)

 

岐阜県高山市・大隆寺にて第31回夏結制安居。修行僧数73名。安居助化師大而宗龍66歳。延べ1,635名の禅僧を育てた。

 

4月、岐阜県高山市・大隆寺にて一般在家対象の授戒会を修行。戒弟数85名。戒師大而宗龍。

 

(■ 大隆寺にてのこの授戒会の「住職」は、弟弟子の竺翁慧林が就いた)

 

■ 1783天明 3年 良寛26歳       

[ 円通寺での修行5年目 ]

 

3月 2日 暁台(52歳)京に上る

3月17日 暁台、芭蕉真蹟懐紙一軸桐箱箱書き

 

良寛年譜/  母おのぶ歿。享年49 良寛26歳。以南48歳

 

 

 

玉島円通寺で良寛さ修行中に母が倒れた。遂に死に目に逢えなかった

 

4月29日 母おのぶ歿。享年49 良寛26歳。以南48歳

 

秋 暁台、信濃から甲斐に赴き、「藤田の可都里は年頃文してしれる好人」として訪れる。

 

蒲原・魚沼郡下とともに出雲崎に米騒動一揆起こる

 

暁台、義仲寺・洛東安養寺端寮・金福寺で芭蕉百回忌取越追善俳諧を興行。2年前から準備していた。

 

それらをまとめて『風羅念仏』法会の巻を刊行。百年目を待たず天下の大宗匠として意欲満々90年に当たる年に主催。

 

空前の芭蕉ブームとなった。

以南の兄弟子井上士朗はこの法会に参じなかった。

 

光太夫らアリューシャン列島のひとつに漂着。ここで原住民の間で4年間くらす。(天明7年7月まで)

 

天命の大飢饉2年目(冷害のため諸国で例のない大飢饉、奥羽地方餓死者多数。一機続発)

 

諸国、例のない大飢饉。奥州餓死者多数。

大坂などで打ち壊し

一揆続発

浅間山噴火

百姓一揆取り締まり令出る

大槻玄沢『蘭学階梯』を著す

本居宣長『漢字三音考』刊行

 

 
 
 
■ 1784天明 4年 良寛27歳       

[ 円通寺での修行6年目 ]

 

日本の南画家・篆刻家・出版家の五適杜澂、以南を頼って出雲崎に来る

 

紀行家で国学者の菅江真澄来越し、出雲崎の良寛生家橘屋にも止まる

 

天命の大飢饉3年目

田沼意知、親族により斬殺さる。父、意次とともに嫌われものだったため、 世の中は喝采

 

良寛年譜/  母三回忌で帰郷した良寛さ、大而宗龍和尚に相見した

 

 

 

■ 1785天明 5年 良寛28歳   

[ 円通寺での修行 7年目 ]

 

母三回忌で帰郷した良寛さ、大而宗龍和尚に相見した

 

4月29日の前 国仙和尚東国巡錫のふれこみにしたがって亡母三回忌で良寛さ帰郷。

 

5月 新潟県新発田市紫雲寺村観音院で良寛さ了寛と名乗り大而宗龍(だいじそうりゅう)和尚69歳に相見した

 

10月、観音院の宗龍に面会したか

 

円通寺十世大忍国仙大和尚の自画像に良寛さは、円通寺での修業中のいつのことであったか、

 
吾こそは大日本国国仙の真嗣良寛
 
 

と賛を入れた。(円通寺所蔵)

 
 

大忍国仙大和尚が良寛さの本師であることに違いないが、大而宗龍和尚にたいしても同じ特別な気持ちを描いていたと思われる。

良寛さは、遺した詩歌には両師について語って居たかについて現時点で定かではないが、30数年間の苦行において、二人の師から自分探しの答えの方向を度々見出そうとしたものと思われる。 

 

11月 大忍国仙、大本山永平寺から曹洞宗第一の格式で法門の盛んな師家にとって必要な資格常恒会の公許を得た。

 

 

第1回香伝寺から第33回観音院までの安居参加者延べ1751名の名が記されていて、夏、新潟県新発田市紫雲寺村の観音院にて結制夏安居(安居助化師大而宗龍)に参加した安居僧数58名の修行僧の中に、香司(時間を知らせる職務)も務めて参加した良寛さの名が大隆寺所蔵の授戒会参加者リスト『夏冬安居牒』に記載され記録されている。

 

「備中円ゆう寺徒了寛香司」との解説があるが、「ゆう」は「通」にも読み取れるから、「備中円通寺徒了寛香司」となるようである。

 

円通寺で修行中の良寛さ28歳の参加と言えよう。69歳の大而宗龍に久し振りの再会である。真摯に向き合う良寛さが想像できる。平成28(2016)年10月 5日発行の松本市壽著『良寛旅と人生』によると、「1785(天明 5)年 28歳 4月、亡母三回忌に帰郷。10月、観音院の宗龍に面会」とある。夏安居して10月に宗龍庵で相見ということか。

 

大而宗龍が実施した最後の33回目の安居は、新潟に戻って来ての観音院でのことであった。それに玉島円通寺修行5年目の良寛さ28歳は、3ヶ月間この結制安居参加したことになる。

 

僧侶として、人としてどうあるべきかを眼に焼き付けた良寛さだったろう。

 

良寛年譜/  出雲崎名主橘屋敗北

 

 
 
 橘屋はまた敗北した
 

 

以南(50歳 )、代官所を尼瀬より出雲崎に復帰する訴訟に橘屋敗れる。

 

尼瀬の神社社地に関する訴訟いずれも橘屋側の敗訴となる。

 

良寛さの道友となる隆全和尚(のち、三条の真言宗の宝塔院の住職)この年に生まれる

 

天命の大飢饉4年目

老中田沼意次は蝦夷地(北海道)へ調査隊を派遣(国防のため)

 

平賀源内のエレキテル(摩擦静電気発生装置)を復元。

 

単なる復元ではなく、蓄電装置・摩擦装置など構造も、外国文献とも異なる7年の試行錯誤の跡が窺がえる。

 

源内の考えは外国の素晴らしさは理解した上で、高価な輸入などしなくてもわが国にも有る(薬草など)、作れるということを、全国の人々に知らしたのである。

 

 
 
 
■ 1786天明 6年 良寛29歳   

[ 円通寺での修行 8年目 ]

 

弟・由之、正式に町名主となる。以南51歳で隠居

 

4月 以南(51歳)隠居し、弟の由之(ゆうし25歳)に家督を継ぎ、正式に町名主となる

 

8月1日 暁台、母を喪う

 

以南隠居後5年間、奥の細道を俳諧行脚。橘屋を振り返ることはなかった

 

以南、師匠の許しを得てか、修行の東北の奥の細道5年の俳諧行脚

 

天命の大飢饉5年目

田沼意次失脚。田沼時代終わる

松平定信老中となる(寛政の改革の始まり)

 

良寛年譜/  弟・由之、正式に町名主となる。以南51歳で隠居

 

 

 

■ 1787天明 7年 良寛30歳   

[ 円通寺での修行 9年目 ]

 

長岡藩農民一揆

この頃小林一茶25歳。俳句で頭角を現す

一茶(25歳)の作品の初見は、信州から出版された『真の佐さ古ご』

 

小黒佐久太は7歳の時に出雲崎町川西尼瀬にある曹洞宗の双善寺で剃髪し僧大忍魯仙となる

 

天命の大飢饉6年目

天明の打ちこわし起こる(江戸・大坂など各地で打ちこわし騒動)

 

松平定信が老中首座に就任。寛政の改革が始まる

 

倹約令出る

林 子平『海国兵談』を著す。江戸湾がロンドンのテムズ河と水路でつながっていると述べて、海防(海岸防御の略)の必要を説いた。

 

林子平はもともとは儒学を学んだ武士であるが、その学的系統が、荻生徂徠に始まる従来の儒学批判の系統の太宰春台の経世学派に属しており、孔子や孟子のものの見方を現代に応用してどのように現代を捉え、それを改革しようとするかということを学問の主眼においていた。

 

そのような訓練を受けた林 子平であった。

 

その上に彼は蘭学者にも多くの知人友人が居たために、西洋の新しい知見も耳にすることができた。

 

この年から1791(寛政3)年にかけて刊行されたが、幕府の咎めるところとなり、絶版・板木没収・作者の林子平(1738‐1793)は禁固を命ぜられるにいたったが、密かに筆写されて広く普及した。

 

たまたま海獣とりのロシア船が光太夫の暮らすアリューシャン列島の島にやって来た。

 

この船でカムチャトカのペトロパーヴロフスク港に渡る。

 

以後幾多の辛酸をなめながらイルクーツクを経てペテルスブルグに辿り着き、女帝エスカテリーナ2世に面謁、ついに帰国の念願が叶い、ラクスマン使節に伴われて苦節10年ののち北海道根室に帰ってきた。

 

良寛年譜/  後年、良寛さの道友となる魯仙が曹洞宗の双善寺で剃髪

 
 
 
 
■ 1788天明 8年 良寛31歳       

[ 円通寺での修行10年目 ]

 

4月 尊号事件  

6月24日 田沼意次歿。

紀州藩の足軽の子として生まれ、9代将軍家重の小姓から頭角を現し、10代将軍家治の時に老中まで上りつめ、権勢をふるった。

 

田沼意次というと、賄賂にまみれた金権政治家というイメージが強い。

 

しかし、田沼意次を積極的に評価する向きもある。

鎖国時代にもかかわらず、開明的な思想の持ち主であったというものである。

 

北海道や東北に調査隊を派遣して、どのような産物があるかを調べさせた。

 

そうした物産を、長崎から中国へ、あるいはロシアとの国交を開いて輸出し、外貨を稼ぐという構想を持っていた。

 

幕府の財政の安定と強化のため、独自の経済政策を持っていたという。

 

このころ良寛さ、四国・九州に行脚

出雲崎の代官所、高田藩預かりとなる。以南53歳

 

ロシア船蝦夷地に来航

 

良寛年譜/  円通寺での修行11年目

 

 
 
 
■ 1789天明9寛政元年 1月25日 - )年 良寛32歳       

[ 円通寺での修行11年目 ]

 

6月 越後平野大水害

 

7月 国仙和尚衆の行脚に加わり、信州湯の原に宿泊。善光寺に詣でる。

 

この行脚の折り初めて大而宗龍に相見したとする説は考えにくい。もしそうだとすれば、師国仙と同行することになり、貞心尼が蔵雲和尚に出した書簡の内容と大いに齟齬が生じるからだ。

 

8月13日 紫雲寺村観音院大而宗龍示寂。享年73。10月13日大隆寺にて本葬。

 

良寛さ、西国行脚か

由之(28歳)の長男の馬之助生まれる

江戸の国文学者で歌人の大村光枝由之を訪ね橘屋に止宿する。以南54歳

 

長岡藩農民一揆

寛政の改革による倹約令

寛政改革による奢侈禁止令発布

中井竹山『草茅危害』を著す

幕府、諸大名に備荒のための囲米を命ずる

幕府、棄捐令[キエンレイ]を発する

 

 
 
 
■ 1790寛政 2年 良寛33歳       

[ 円通寺での修行12年目 ]

 

良寛さ、師・国仙より印可の偈を受ける。一等首座の位を授けられ、円通寺の境内・覚樹庵を預けられ覚樹庵主となる。修行僧リーダー格のトップの位置であるが、こののち「瑞世」に昇格し和尚へと進みながら法継への道へ他の修行僧たちと同じように出世していくことになるのが道元の教えであったが、こののち良寛さはそれを自らの手で絶った。何故か。

 

暁台(59歳)二条家から免許される。以南55歳

『古事記伝』最初の五巻刊行

寛政異学の禁

旧里帰農の奨励(江戸で帰村奨励の触れを出す)

洒落本著作禁止される

本多利明『経世秘策』を著す(越後村上出身の本多利明『経世秘策』を著す)

 

幕領、諸藩を問わず、諸国に郷蔵をつくらせ、備荒貯穀を命じる

 

石川島に人足寄場を開設

幕府、江戸来住者の帰郷奨励(旧里農令)

 

 
 
 
■ 1791寛政 3年 良寛34歳

[ 円通寺での修行13年目諸方行脚遍歴漂泊 1年目 ]

 

3月18日  雲水修行の印可偈を授かり、3~4か月後師の大忍国仙、玉島において病で示寂。世寿69歳

 

( 遺偈: 入魔入仏 六十九年 透出魔仏 閑話座閑 )

 

墓は水月庵から移設し倉敷市長連寺に現存。木造や什宝は三重県大福寺へ移された。

 

3月 山東京伝、洒落本で手鎖の刑となる享年56。 『北越雪譜』の鈴木牧之ぼくしと交友)

 

5月7日 大森子陽、羽前・鶴岡で病死。享年54

 

5月20日 小林一茶(29歳)は江戸から14年振りに郷里信濃の国柏原に戻る

9月 玄透即中円通寺に十一世として普住。玄透即中62歳

 

9月 以南最後の旅に出、京に入る。以南56歳

 

9月 外国船撃攘令(異国船渡来の際の処置を指令する)

 

9月 林 子平『海国兵団』上梓。幕府の忌諱に触れ翌年絶版。林 子平処罰される

 

 

► このころ了(良)寛さ帰郷説もある(根拠不明)

大村光枝、橘屋に止宿する

 

尊号事件により中山愛親閉門される

高山彦九郎自殺

江戸で混浴禁止令

 

田沼意次に代わって老中となった松平定信は『海国兵談』がその立場の根拠が不確実な伝聞による点が多いとして林子平を処罰したが、皮肉にも子平の予言が的中して、ロシアのラックスマンが交易を求めて根室へ来航(ペートル大帝の命令により)。

 

定信は国法により対外交渉は長崎で行うことを告げ、長崎入港の信牌を与えたため、ラックスマンは根室から退去。

 

このラクスマン使節にともなわれて苦節10年ののち光太夫らが北海道根室に帰ってきた。

 

帰国がかなったのは光太夫、磯吉、小市の3人。小市はせっかく根室までたどりつきながら、幕府とラクスマンとの交渉が長引いたため、根室で抑留中に病死。

 

光太夫と磯吉は後に江戸に送られ、幕府役人の徹底的な訊問を受け(尋問にあたったのは当代第一流の蘭学者として令名の高かった将軍家の侍医桂川甫周。


光太夫の訊問から大著『北槎聞略』を著す)それがすんでも故郷に帰ることは許されず、江戸番町の薬草園に軟禁された。

 

幕府、諸大名に海防強化を命ずる

松平定信老中辞し、引退。寛政の改革終わり

和学講談所起こる

 

良寛年譜/  諸方行脚・遍歴・漂泊時代

 

おそらくこの年、良寛さ追放か。または退去か。良寛さ円通寺を去り、諸方行脚・遍歴

 

出家以前に自らを了寛と名乗っていた。光照寺で得度後、国仙から法号を「良寛」となった。

天明 5(1785)年岡山・玉島の円通寺で良寛さ修行 7年目に、新潟県新発田市・観音院での大而宗龍の夏安居に参加した時も自らを了寛と名乗っていた。そして道元禅師の掟を破って円通寺を去り、諸国行脚に出たこの時から、再び「了寛」と名乗った。良寛さのこだわりがここにも伺える。

 

 
 
 
■ 1792寛政 4年 良寛35歳       

[ 諸方行脚・遍歴・漂泊 2年目 ]

 

1月21日  以南の俳諧の師・名古屋の久村暁台(61歳)京にて歿。

 

一茶30歳。下総・安房地方を廻り3月江戸出発し、京都・大阪・四国・九州を廻る旅

 

まき竹のほぐれて月の朧かな  橘以南(57歳) ... この頃の句か

 

雲仙普賢岳が噴火し、死者は約5,000人。「島原大変」と言われた。「肥後迷惑」と呼ばれる津波による死者は約1万人。了(良)寛さが長崎に赴くという記述が研究本に書かれているが、この島原に自分探しで行ったのかもしれない。

 

大黒屋光太夫と共にロシアの特使ラクスマンが根室に来航。通商を要求する。

 

ロシアの特使ラスクマンに長崎入港許可書を与える。

 

 

 
■ 1793寛政 5年 良寛36歳       

[ 諸方行脚遍歴漂泊 3年目 ]

 

土佐で近藤万丈に会ったか。

 

この頃以南は、京・二条家に出入りを許されて、歌論を披瀝する機会はあったようだが、俳諧はなかなか評価されなかった。以南58歳

 

一茶31歳。熊本八代で新春を迎え、九州各地を経て長崎へ。

 

良寛年譜/  土佐にて万丈著『寝ざめの書』   国文学者として京都御所の香、詩が光格天皇に上る

 

 
 
 
■ 1794寛政 6年 良寛37歳        

[ 諸方行脚・遍歴・漂泊 4年目 ]

 

秋 以南上洛。以南59歳

以南の実兄与板の新木氏歿

 

了(良)寛さ、土佐にて近藤万丈と会見したか

 

大和国長谷寺で修行中の三男 宥澄(観山円澄)、菩提寺円明院を第十世 継ぐ。十世快慶の説もある。

 

円通寺十一世の玄透即中(65歳)は、永平寺五十世となる準備のため、関三那の一、武蔵龍隠寺に転じる。

 

国文学者として京都御所の香、詩が光格天皇に上る

 

光格天皇は、1779(安永8)年12月 9歳で皇位をついだ。在位38年,譲位後は院政を23年間おこなう。中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。1868年(慶応4年/明治元年)の一世一元の詔発布以前に譲位した最後の天皇であり、以降、2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位するまでの202年間、譲位した天皇はいなかった。

 

32歳の一茶、この年の動向不詳(どこかの句会で以南と会ったか)

 

良寛年譜/  橘 以南入水

 

 
 
 
■ 1795寛政 7年 良寛38歳       

[ 諸方行脚・遍歴・漂泊5年目 ]

 

4月22日 玉島の玄透即中永平寺に入って第五十代の法灯を継ぐ玄透66歳

 

6月本居宣長『秘本玉くしげ』を著す

 

7月25日 京の洛西桂川に橘以南60歳)、入水

 

8月 上洛した遺児達によって父以南の二十一日目の法要をおこなう。由之、香、由之の妻安子、了(良)寛さが追善の歌を詠む。(長男良寛38歳・長女 むら子36歳・二男 由之34歳・二女 たか27歳・三男 宥澄26歳・四男 香25歳・三女 みか19歳)

 

二女 たかは、出雲崎の町年寄高島伊八郎に嫁ぎ、四男十女を育てる 1812(文化 9)年)病歿。享年44 。(良寛55歳)

 

三女みかは、出雲崎羽黒の浄土真宗浄玄寺曽根智現に嫁いだ。この寺に『阿弥陀経』借覧の依頼状が伝存している。老後剃髪して妙現尼といった。特に和歌に優れ、兄思いだった。歌や絵が遺されている。1852(嘉永5)年歿。

 

8月 丸山応挙死去 享年63

 

9月 出雲崎の円明院で、七七忌(四九日法要)をおこなう

 

秋、了(良)寛さ紀州高野に以南の菩提を弔うか。

 

 

了(良)寛 ふたたび京都にもどり、帰郷を決意するか

 

一茶は何故このとき以南の入水を採り上げなかったのか。

 

小林一茶(33歳)四国香川・観音寺で新年を迎える。一茶、そこから倉敷・姫路を経て大阪の『西国紀行』成る。『たびしうゑ』刊行

 

良寛年譜/  帰郷

 

 
 
 
■ 1796寛政 8年 良寛39歳      

[ 帰郷期 ]

 

 1月  了(良)寛さ帰郷。生家には入らずに国上山近在を転々とする  ► 翌年帰郷の説もある

直江津経由で郷本を北上し、出雲崎の「生家山本家橘屋前を素通りした」を表記した書物があるというが、北陸道から右に折れて代官所前を通って出雲崎町大字中山(西照寺付近)~米田(旧出雲崎小学校)間の道を通れば、生家前を通らずに済む。「塩焼の廃屋小屋」をねぐらにして托鉢を続け、名主橘屋の文孝を覚られないよう身分を付していたこの頃も「了寛」と名乗った。

 

 

一茶34歳、四国へ渡る。松山城の月見会に出席。一茶一所不在の暮らし

 

イギリス船攘夷地絵鞆(室蘭)に来航(イギリス船攘夷地に来航。翌年にかけて日本沿岸を測量)

 

幕府、諸国の破戒僧70余名を捕らえる(幕府、諸国の破戒僧70余名を捕らえる)

 

 
 
 
■ 1797寛政 9年 良寛40歳       

[ 帰郷期 晩秋 良寛初めて五合庵に上る ]

 

了(良)寛さ帰郷。生家には入らずに国上山近在を転々とする  ► 前年帰郷の説もある

 

流転したのち、五合庵に上る。五合庵に寓すること18年

 

10月 小林一茶義仲寺の芭蕉忌(時雨忌)に参る

一茶35歳。愛媛・松山で新春を迎える。福山・尾道を経て、高松、小豆島訪問

 

弟の香(27歳)大阪に遁れ、歌集を詠む。号を澹斎(たんさい)。禁中の学師菅原長親の勧学館塾頭をつとめ、光格天皇の詩会にも侍坐した。当時、勤王志士の集合地の東福寺に葬られている。1798歿。

 

江戸の落語禁止

対馬海上に外国船出歿す

ロシア人が択捉えとろふに上陸

高田屋嘉兵衛ロシア船に捕まる

 

 

 

■ 1798寛政10年 良寛41歳       

[ 第 1期五合庵仮住まい2年目川向こうの真木山に医をこととしていた原田鵲齋の尋良寛上人の詩に、いつ草庵を訪ねても結跏趺坐ばかりさながら古禅林を想わせると伝えている ]

 

3月27日 弟の香、京都桂川に入水客死。享年28

 

6月本居宣長『古事記伝』完成・「古事記伝」浄書

 

8月近藤重蔵、千島(列島)を探検する

 

鵲齋はその後阿部定珍(55歳)、解良叔問を誘って五合庵を訪れた。

 

原田鵲齋(36歳)と五合庵で親交。良寛さと詩歌を贈答。

 

長岡藩士・奥村五兵衛の次女として生まれ幼名「ます」のち、貞心尼誕生。

 

由之、水原代官所に家筋書提出

 

小林一茶(36歳)奈良の長谷寺で新春を迎える。京都で「さらば笠」刊行、木曽路を経て柏原に帰郷。8月に江戸に戻る。

 

幕府の人口調査によれば、この頃の越後の人口は男54万、女51万人。

 

幕臣の近藤重蔵が択捉えとろふ島を探索

 

伊能忠敬攘夷地を測量

本居宣長『古事記伝』を著す

 

良寛年譜/  五合庵仮住まい 3年目

 

 
 
 
 
■ 1799寛政 11年 良寛42歳       

[ 第 1期五合庵仮住まい3年目 ]

 

一茶(37歳)甲斐・北越に旅する

幕府、蝦夷地を直轄する

司馬江漢『西洋画談』刊行

伊能忠敬、蝦夷地を測量

 

良寛年譜/  五合庵仮住まい4年目

 

 
 
 
■ 1800寛政12年 良寛43歳      

[ 第 1期五合庵仮住まい 4年目 ]

 

正月 5日 良寛の弟宥澄、円明院第十世観山円澄病歿す。享年34

 

6月5日 良寛43歳。歌道に優れた国学者大村光枝、江戸より越後良寛さを訪れる。

 

7月 大村光枝再び良寛を訪ねる。翌日も光枝と歌を唱和。辞去時、旋頭歌交換。

 

由之、水原代官所訴願に敗れる

由之、町民より三百両取り立てる

由之、水原代官所復帰運動のため江戸へ出府

 

原田鵲齋(38歳)、五合庵で良寛さと詩歌を詠み交わす

 

帰郷して5年にして郷党の人々から大徳や禅師と言われる

 

以南七回忌法要を京都・桂川畔で執行  ▶ 翌年の説もある

 

伊能忠敬が蝦夷地を測量を始める

聖堂(聖平坂学問所)落成

 

良寛年譜/  五合庵仮住まい5年目

 

 

 

■ 1801寛政13享和元年  良寛44歳       

[ 第 1期五合庵仮住まい5年目 ]

 

6月5日 歌人で江戸の国学者大村光枝、五合庵の良寛さを訪れる。五合庵に泊まり、翌日も歌を唱和。辞去時、旋頭歌交換。

 

阿部定珍(58歳)と五合庵で酒一献傾ける

 

§ 良寛さの歌 『よしあしの なにはの事はさもあらばあれ 共につくさむ一杯の酒』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの歌 『あすよりは 後のよすがは いざ知らず 今日の一日は 酔ひにけらしも』は、このころ作られたか

 

以南七回忌法要を京都・桂川畔で執行  ▶ 前年の説もある

 

京で俳諧の友らが参集し以南の法要が営まれ追善句会が開催された。

 

大忍魯仙(23歳) 、宇治の興聖寺にて周旋。厳しい禅匠として天下に鳴り響く玄楼奥龍(狼玄楼、虎光通と言われていた)に参禅し、霊潭魯龍から法を嗣ぐ。

 

小林一茶(39歳)柏原へ帰郷。4月父発病し死亡。継母・義弟と遺産相続で争う。

 

大森子陽の遺子求古、京より帰る

 

良寛年譜/  五合庵仮住まい ~ 仮住まい転々とする

 

 
 
 
■ 1802享和 2年 良寛45歳       

[ 第 1期五合庵仮住まい6年目  5年間住み慣れた五合庵を出て寺泊照明寺を頼り境内の真言宗密蔵院に仮住い  国上の真言宗本覚院へ仮寓  牧ヶ花の真言宗観照寺へ仮寓 ]

 

3月 以南七回忌にちなみ、前川丈雲により以南追善句集『天真仏』が上梓された。

 

陰暦11月15日 佐渡小木地震

 

このころ、5年間住み慣れた五合庵を出て、親しかった寺泊の照明寺第十三世良恕上人の招請で真言宗密蔵院に仮住い~国上の真言宗本覚院へ仮寓。

 

国上寺前住の義苗、退隠して五合庵に入る。

阿部定珍(59歳)に手紙を送る 「僧も此度は密蔵院に移り候 観音堂のもり致し、飯は照明寺にて ・・・ 」

 

§ 良寛さの詩 『観音堂側仮草庵 緑木千章独相親 ・・・ 』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの歌 『寺泊に飯乞いて こき走る鱈にも我は似たるかも ・・・ 』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの長歌 『寺泊にありし時読める 大殿の とののみ山の み林は ・・・ 』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの歌 『密蔵院を去るとき詠じた歌『えにしあらば 又も住みなん大殿の 森の下庵いたくあらすな』は、このころ作られたか

 

良寛さ、羽前行脚か

甥馬之助(泰樹13歳)名主見習いとなる

 

大村光枝、江戸にて由之に会う

 

三島和島村島崎(現長岡市)の鍛冶屋早川甚五衛門の長男、遍澄生まれる。

 

伊能忠敬、越後海岸測量。そのため橘屋に宿す

 

蝦夷(箱館)奉行を置く

幕府東蝦夷地を上知。西蝦夷地でアイヌ餓死者多数

 

十返舎一九『東海道中膝栗毛』初篇刊

 

 

良寛年譜/  義苗、退隠して五合庵に入るため仮住まいを転々とする

 

 
 
 
■ 1803享和 3年 良寛46歳       

[ 牧ヶ花の観照寺仮住まい  国上の真言宗本覚院へ仮寓  牧ヶ花の真言宗観照寺仮寓  7月 野積の真言宗西生寺へ仮住まい  国上の真言宗本覚院へ仮寓 ]

 

良寛さの道友4人のうち、若き道僧が立て続けに2人も獲得できた画期的な年であった。

 

僧大忍魯仙(23歳)、7月 宇治を発ち永平寺に拝登した後、尼瀬に帰郷。

 

§ 良寛さの逸話 『良寛魯仙を訪ね、数日間一言も語らず詩歌の贈答』は、このころ起きたことか。

 

良寛さ、本覚院衆僧や国上寺の僧たちおよび宝珠院の僧に、仏教の基礎学「俱舎論」を10日間講義。

 

敬愛する弘智法印の画像に題して七言絶句を作り、ミイラ像の前で自らを警める誓う(西生寺での『自警語』)

 

良寛さの悟りは繰り返されていたと思われる。

 

義提尼、岡山県倉敷の真如院庵主となる。

 

伊能忠敬、佐渡測量  

麻疹流行

 

アメリカ船長崎に来航し、通商を要求。幕府これを拒絶

 

良寛年譜/  五合庵仮住まい  翌年 2月まで五合庵定住

 

 
 
 
■ 1804享和4文化元年 良寛47歳       

[ 五合庵仮住まい 1月22日  翌年 2月まで五合庵定住 ]

 

正月22日 国上山隠居・五合庵主の義苗が病死。再び五合庵に入り、定住。

 

7月 由之、公金横領と日ごろの専制振りを町民に訴えられる。

 

§ 良寛さの歌 由之を諌めて良寛一首 『きてみれば わがふるさとは あれにけり にはもまがきも おちばのみして』は、このころ作られたか

 

夏 僧大忍魯仙(24歳)頸城郡松之山温泉で病を養う。

 

10月16日玉島円通寺の僧・仙桂(1732年生まれ)病死。享年74

 

10月頃、小林一茶(42歳)、江東区大島から墨田区緑1丁目の借家に移る。『寛政三年紀行』まとめる。

 

出雲崎百姓連盟して橘屋排斥を出訴

寺泊照明寺密蔵院で過去帳を記す

ロシア使節レザノフが長崎に来航し通商を要求

天然痘流行

『万葉集仙覚抄』出版

 

良寛年譜/  五合庵仮住まい

 
 
 
 
■ 1805文化 2年 良寛48歳       

[ 2月まで五合庵仮住まい ]

 

3月 由之、出雲崎代官所から訴えられ白川藩預かりとなる。島崎村へ欠落。

 

3月 良寛さは、一遍、親鸞、源平の兵火で焼失した東大寺大仏殿を諸国勧進で再建した浄土宗の僧重源(ちょうげん)も参拝している無宗派で性別貴賤を問わない平等(無差別)の単立寺院「長野の善光寺」に詣でる。衰亡する生家名主橘屋山本家の救いを祈ったか。

 

6月 弟の由之、町民に訴えられる

 

7月 僧大忍魯仙(25歳)自詠の詩集『無礙集』京・松月堂にて出版の中に良寛賞揚の語をなす。

 

由之、代官所から訴えられる

 

 

 

■ 1806文化 3年 良寛49歳       

[ 五合庵仮住まい ]

 

丙寅三月 秋夜弄月巻(七言古詩)を書く

 

9月11日ロシア船樺太に侵入する

疱瘡流行(子供が多く死亡)

 

良寛さ、疱瘡流行により死亡した多くの子供たちの追弔詩集をつくる。

 

江戸後期-明治時代の儒者の岡田鴨里生まれる。文政8年京都にでて頼山陽に学ぶ。師の遺志をつぎ「日本外史補」を著した。阿波徳島藩につかえ、洲本学問所[益習館]教授となる

 

 
 
 
■ 1807文化 4年  良寛50歳       

[ 仮住まいの五合庵  西照寺の庵に仮寓 ]

 

4月28日 玄透禅師即中、かつて住山した美濃の善応寺で示寂。世寿79歳。玉島円通寺の定紋が永平寺と同じ「笹ささ竜胆りんどう」であるのは玄透禅師住山の因縁に由来するもの。

 

5月1日 与板町大坂屋六代目の末弟。庇護者で法弟の三輪左一病死。

 

10月 5日 出雲崎中山村の西照寺の庵に仮寓する

 

懐素の「自叙帖」、「秋萩帖」を学び始めたか(五十の手習い)

 

小林一茶(45歳)2度帰郷し、父の遺産交渉

 

ロシア船択捉に侵入する

松前氏を内地に移し、蝦夷一円を直轄地として幕府自ら経営と防備にあたることとした

 

アメリカ船、長崎に来航する

幕府、書物問屋仲間を介し出版統制強化

 

 

良寛年譜/  仮住まいの五合庵 ~ 西照寺の庵に仮寓

 

 
 
 
■ 1808文化5年 良寛51歳       

[ (仮住まいの五合庵) ~ 西照寺の庵に仮寓 ]

 

8月3日 新飯田村の田面庵(曹洞宗永安寺の末寺)道友で庇護者の僧・東岫有願病死

 

§ 良寛の詩 『有願居士の故居を過ぐ』 「去年三月 江上の路 ・・・ 」は、このころ作られたか

 

§ 良寛の回想詩 『 ・・・ 苦思す 有願子 平生 狂顚のごとし ・・・ 』は、このころ作られたか

 

9月 2日 加藤千蔭歿す

松田伝十郎、間宮林蔵と樺太探索

イギリス艦船フェートン号、長崎に侵入

幕府は露船打払令を公布

 

良寛年譜/  第 3期五合庵仮住まい

 

 

 

■ 1809文化6年 良寛52歳       

[ 第 3期五合庵仮住まい ]

 

4月 原田鵲齋(47歳)、しきりに往来する。鵲齋、「良寛法師賦呈」の詩を作る。

 

§ 良寛さの歌 『友がきの身まかりて この里の往き来の人の あまたあれど ・・・ 』は、このころ作られたか。

 

4月 亀田鵬斎、江戸を出立

9月 亀田鵬斎、越後・佐渡に来遊。

 

良寛さと交わり唱和す。 ► 良寛さと交わり唱和したのは翌年の説もある。

 

鵬齋は文化8年まで越後各地に滞在する

 

§ 良寛さの逸話 『亀田鵬齋の『論語』の講義に、註釈本をあてにせず自分で考えて説明すべきだと抗議した良寛の話』は、このころ起きたことか

 

§ 良寛さの逸話 『良寛から夕食をご馳走になったが、呆れかえった亀田鵬齋との話』は、このころ起きたことか

 

§ 良寛さの逸話 『亀田鵬齋に足を著せた桶で、良寛が米をといだ話』は、このころ起きたことか

 

§ 良寛さの逸話 『翌朝、「なんばんが好きだ」と答えたら、良寛は紙に数行「なんばん なんばん なんばん」と書いてくれた話』は、このころ起きたことか

 

§ 良寛さの逸話 『客あしらいがきらいの話』は、このころ起きたことか

 

§ 良寛さの詩 『日々日々又日々 間伴児童送此身 ... 』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの逸話 『くされ儒家』は、このころ起きたことか

 

江戸・川柳に「鵬齋は 越後帰りで 字がくねり」がある。『良寛法師賦呈』 の詩を作る

 

10月 亀田鵬齋燕・神保家に滞在

10月24日 亀田鵬齋燕新潟に入り越年

 

遍澄 7歳ごろ、菩堤寺である真言宗妙徳寺に預けられ、見習奉公をしながら、住職の賢深和尚から読み書きを学ぶ。

 

鈴木文臺(14歳)、後藤託玩に師事する。この前後解良叔問の蔵書を借りて勉学。

 

上田秋成歿

 

良寛年譜/  第 3期五合庵仮住まい ~ 秋 牧ヶ花国上村の大字の観照寺庵に仮住

 

 
 
 
■ 1810文化7)年 良寛53歳       

[ 第 3期五合庵仮住まい ~ 秋 牧ヶ花国上村の大字の観照寺庵に仮住 ]

 

2月 白河・会津二藩、幕命により相模、安房海岸に砲台を築く

 

2月 松之尾(岩崎家)、石瀬(棚橋家)、岩室、弥彦を経て寺泊(菊屋)に遊び、「聚感園亀田鵬齋、記」を作る。

 

4月 亀田鵬齋、出雲崎より佐渡へ渡り、沢根矢島家に逗留。5月~ 7月田中葵園、本間黙斎、藤沢拙斎、山本半右衛門らに会い、7月25日佐渡より越後に帰る。8月~10月にかけて下越一帯を巡歴。

 

佐藤吉太郎氏が相馬御風に持参した『橘屋山本家過去帳』の1810(文化7)年5月までの分は書風の変遷から良寛さの筆跡で書かれたものであるが、文化9年4月以後は他の二三人の筆跡とのこと。このことから、良寛さが書いた箇所は、1810(文化7)年5月(良寛53歳)~1812(文化 9)(良寛55歳)。ところが日めくり三日のところにある文化九年の戒名も十八日項にある文政八年の戒名も、幕末弘化二年の戒名も同筆だという。

 

亀田鵬齋、国上の五合庵に良寛さを訪問  ► 良寛さと交わり唱和したのは前年の説もある。

 

秋 牧ヶ花(国上村の大字)の観照寺庵に仮住する

 

11月、弟由之,事によって家財歿す。出雲崎代官比留間助左衛門正興によって、所払いの処分を受け、島崎に隠棲。家財没収の処分を受けたが、田畑や家屋敷はそのまま残り、馬之助が引き継ぐ。

 

良寛さ、弟由之に意見する

 

§ 良寛さの歌 『何故に家を出でしと折りふしは 心にはぢよ黒染の袖』は、このころ作られたか。

 

§ 良寛さの歌 『黒染のわが衣手のゆたならば うき世の民を おほはしものを』は、このころ作られたか。

 

12月。亀田鵬齋、新津・桂家(良寛実父四代目誉たか章ふみ)で『万巻楼記(日本最古の図書館)』を撰す。

 

亀田鵬齋、燕で越年

 

甥・馬之助(泰樹)は、13歳で名主見習いとなり、8年後の21歳。父由之は隠居して文章の書き方の原稿をまとめたり、得意とする歌(和歌)三昧の準備に取り掛かっていたこのとき、お上から名主見習い取放(とりはなし)の申渡しを受ける。役儀取上(やくぎとりあげ)で、名主職(なぬし・し)という公職を帯びた出雲崎の名主橘屋を免ずる刑(免職)が科せられたのである。700余年も続いた橘屋の支配権は終わりを告げてしまった。

 

馬之助こと泰樹(やすき)、左門ともいう。書の達人。井鼻村の名主となる。馬之助には妾が居て男児本間利兵衛泰人は菓子屋になる。

 

由之孫泰世出生。由之48歳

 

解良栄重出生

鈴木文臺、後藤託玩に師事する。この前後解良叔問の蔵書を借りて勉学。

 

「大日本史」を水戸徳川家が朝廷に謙譲

 

千島および沿海州の測量にきたロシアのゴロブニンを国後島で捕らえ松前に護送幽閉した。1813(文化10)年に放還した

 

良寛年譜/  五合庵  牧ヶ花の観照寺庵に仮住

 

 
 
 
■ 1811文化8年 良寛54歳       

[ ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ]

 

3月 亀田鵬齋、見附(金井家)・与板(新木家)・地蔵堂(中村家)を訪れ、4月、出雲崎にて敦賀屋(鳥井家)のために『聚遠亭記』 を作る。

 

5月 亀田鵬齋、十日町酒井家を訪ねる

 

5月 越後岩船・北蒲原両郡の窮民、各地の地主、富豪宅を打ちこわす。越後地方打ちこわし起こる

 

6月、亀田鵬齋、飯山を経て信州に入り帰府

 

弟由之(49歳)隠居し、剃髪

§ 良寛さの歌 『遊女もなつく良寛に隠居して剃髪した由之が苦言』は、このころ作られたか

 

由之 『黒染の衣着ながら 浮かれ女と うかうか遊ぶ 君が心は

 

良寛さ 『うかうかと 浮世をわたる身にしあれば よしやいふとも 人はうきよめ

 

由之 『うかうかと わたるもよしや世の中は 来ぬ世のことを何と思はむ

 

良寛さ 『この世さへ うからうからと わたる身は 来ぬ世のことを何と思はむ

 

甥・馬之助(22歳)が橘屋の家督を継ぐ

 

禅僧大忍魯仙尼瀬の双善寺で示寂。 享年31

 

橘崑崙『北越奇談』著す。挿絵は葛飾北斎。巻の六人物の中に「了寛」で紹介されている。

 

この頃自筆詩集『草堂集貫華』・三十六の詩からなる良寛さの小さな詩集「小楷詩巻」成る。(東京の小西康仁氏所蔵)

 

自筆所持本『良寛草堂集』は、『草堂集貫華』から良寛さが選んで妹むら子に贈った詩集とされている。

 

むら子は、寺泊回船問屋外山文左衛門に嫁いだ。外山氏宛の手紙5通によれば、着物、食べ物をはじめ物心両面の世話をしている 1824(文政7)年歿 

 

§ 良寛さの詩 『苦吟実如清秋秋蟲 詩成自怪拡張漫  ・・・ 』は、このころ作られたか。

 

真宗浄立寺天華上人(69歳)外学に富んで詩文に名あり。良寛さ共に遊ぶ。

 

良寛年譜/  五合庵  牧ヶ花の観照寺庵に仮住

 

 
 
 
■ 1812文化 9年 良寛55歳       

[ 五合庵  牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ]

 

4月 3日 妹たか(高島伊八郎妻)病歿。享年44

 

8月13日 廻船業者(海商)高田屋嘉兵衛ロシア船につかまる(陰暦9月18日)朝、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕された)

 

9月 6日 三峰館の学友・富取之則病歿す

 

11月(翌 1月) 小林一茶故郷永住を決意して帰郷。借家に住み遺産問題に取り組む。

 

画家巌田洲尾、良寛さを訪ね詩集『萍踪録』に良寛さの記録を載せる。

 

自筆詩集『布留散東』を良寛さ、つくる

 

鈴木文臺『文台文襍-訪良寛禅師居』著

 

 

良寛年譜/   牧ヶ花の観照寺庵に仮住

 

 
 
 
■ 1813文化10年 良寛56歳       

[ ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ]

 

7月5日 蒲生君平歿す享年46

 

良寛さ三輪権平より『万葉集略解』を借り、熱心に移点をする。

 

鈴木文臺(18歳)良寛さを記した「喫烟詩話」を書く。

 

鈴木文臺、「寄良寛禅師」の詩をつくる

鈴木文臺、「訪良寛禅師居」の詩をつくる

 

鈴木文臺、良寛さ手記の「草堂詩集」を良寛さより借覧

 

§ 良寛さの逸話 『訪ねて来た文臺に火葬場の破れ椀で昼食をふるまった話』は、このころ起きたことか

 

§ 良寛さの逸話 『(ちがや)を箸替わりして文臺に差し出した話』は、このころ起きたことか

 

§ 良寛さの逸話 『長善館の文臺を訪ね竹ぼうきで書いた文字をクイズにした話』は、このころ起きたことか

 

鈴木文臺、江戸の太田錦城から教えを受ける

鈴木文臺、錦城を助けて論語・唐詩選を講ずる

 

鈴木文臺 を評して、良寛座にあり歎称していう「この児、他日必ず大器を成すべし」と。

 

画家巌田洲尾「鷗盟集」出版。良寛さの詩がある

 

遍澄(13歳)家に呼び戻される。読書好きだったことから「鍛冶屋良寛」と周囲に呼ばれた

 

小林一茶51歳。継母と弟を相手にした遺産相続問題が解決し、故郷柏原に定住することになる

 

一茶(48歳)『株番』を著わし、(継父)以南の死も記す

 

上杉篤興『骨董録-良寛禅師の教訓の辞』著わす

 

蒲原地方農民一揆頻発

 

良寛年譜/  五合庵  冬は乙子神社側庵に下りて仮住

 
 
 
■ 1814文化11年 良寛57歳       

[ 五合庵  冬は乙子神社側庵に下りて仮住 ]

 

1月12日 玄透即中禅師の高弟、円通寺十三世復庵遵古和尚歿す。玄透の指示で永平寺に上って監院として伽藍の復興や、『正法眼蔵』の開版、祖規復古運動を推進。

 

隠居剃髪した弟由之、越前・三国に旅する。

鈴木文臺(19歳)の旅につき良寛さ、詩を賦して文臺に与える。

 

光照寺玄乗破了歿す。

 

良寛年譜/  五合庵後期

 

 

 

■ 1815文化12年 良寛58歳       

[ 五合庵 ]

 

4 月 杉田玄白『蘭学事始』刊

4月 越後南蒲原郡下田・見付両郷の農民、新検地に反対して役人・庄屋・富豪宅を打ちこわす

 

遍澄、良寛さの法弟となり、五合庵に共に住む

 

写本『良寛禅師詩集』成る

 

『正法眼蔵』九十五巻の開版成る

出雲崎代官所、幕府直属となる

小田島允武『越後野志』刊

 

良寛年譜/  乙子神社境内の社務所 1年目

 

 
 
 
■ 1816文化13年 良寛59歳       

[ 五合庵老朽化と朝夕の山道の登り降りが老身にこたえるようになり) ~ 冬 乙子神社境内の社務所に移り住む以来誰いうこともなく乙子神社草庵と呼ぶようになった ]

 

2月 幕府、諸国の人口を調査する

 

8月 坂口文仲、五合庵の良寛さを訪ね、歌の唱和をす。

 

乙子神社草庵の八畳の部屋を良寛さが使い、二畳の小部屋を遍澄が使い、10年間暮らした。

 

鈴木文臺(21歳)、夏五合庵の良寛さを訪ねる

 

文台文襍-夏夜寄良寛禅師

 

鈴木文臺、草堂集序(良寛漢詩集)

 

画家巌田洲尾歿 享年25

 

国文学者で歌人の江戸の大村光枝病歿す。享年64

 

良寛年譜/  乙子神社境内の社務所 2年目

 

 
 
 
■ 1817文化14年 良寛60歳       

[ 乙子神社境内の社務所 2年目 ] ► このころ乙子神社境内の社務所に移り住む説がある

 

§ 良寛さの詩 『今 草庵を結んで宮守となり 半ば社人に似て半ば僧に似たり』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの歌 『この宮の 森の木下に子供らと 手まりつきつつ暮らしぬるかな』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの詩 『あしびきの 国上の山の山かげの 乙子の宮に 宮づかひ 朝な夕なに岩とこの 苔むす道を ・・・』は、このころ作られたか

 

2月12日 友人解良叔問叔問の依頼に応じ、法華経を書き移す。

 

9月 イギリス船浦賀入港

 

維馨尼江戸托鉢、越冬。

 

良寛さ江戸から北上し、宿願の理想郷香聚界と最大級の賛辞をもって称えた柳津圓蔵寺詣を果たした。このあと更に米沢から鶴岡(師大森子陽の墓を訪ねる)を経て帰郷、の旅に出る。米沢道中の詩がある。

 

§ 良寛さの歌 『ふるさとを はるばる出でて武蔵野の くまなき月を ひとり見るかな』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの歌 『越の空も 同じ光の月影を あはれと見るや武蔵野の原』は、このころ作られたか

 

江戸の維馨尼を想う良寛さの詩 『対君不語 不語意悠哉 ・・・ 』は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの悲恋の歌と言われている『秋のなざめ』は、このころ作られたか

 

この年の暮に維馨尼(いきょうに)宛書簡「君欲求蔵経」を送る。

 

 

隠居剃髪した弟由之、越前に旅する

 

由之、号は巣守。和歌や国学に造詣が深い。歌や詩の諷詠、文法書(文章作法の書)『くらげの骨』、『東北旅行記』、『由之日記』、『八重菊日記』を著したり、遺墨集を出したり、歌人として国学者として活躍しする方向に向いた。名主に専念できなかった。晩年は、与板の松下庵に住む 

 

鈴木文臺(22歳)、「良寛詩集」を編むも、良寛さは出版を許さず。

 

鈴木文臺、寺泊に塾「楽波亭」を開く

 

オランダ船2隻、新任商館長ブロムホフを乗せて入港、オランダ本国の独立を伝える

 

杉田玄白歿 享年85

 

良寛年譜/  乙子神社境内の社務所 3年目

 

 
 
■ 1818文化15 文政元年 良寛61歳      

[ 乙子神社境内の社務所 3年目 ]

 

4月22日 地蔵堂の、叔母中村リサ病歿

 

§ 良寛さの歌 『たむけんと書きなすことのいとよわみ あはれなりけり昔思へば』は、このころ作られたか

 

5月13日イギリス船浦賀入港

 

大関文仲『良寛禅師伝』を著す。大関文仲とは面識はなかったようであるが、互いに文通はあった。

 

§ 良寛さの書簡 大関文仲宛 『 ・・・ 世の中の是非得失の事 うるさく存じ 物にかかはらぬ性質に候間 御ゆるしたまはり度く候』と書き送って、公開することを切に禁じた。したがってこの「良寛禅師伝」は公刊されなかった。良寛さのおもいをはせながら、その伝記を綴ったと伝えられる彼の書庫は、いまも月潟村に残っている

 

§ 良寛さの歌 文仲老人にこたふ『あしびきの よそのみやまの もみじばも いとどうつくし きみがことのは』は、このころ作られたか

 

由之より道元の「傘松道詠集」を贈られる。

 

維馨尼(いきように)江戸より帰る

 

徳昌寺は新潟県長岡市与板町与板にある曹洞宗の寺院。この虎((萬象古範)和尚は一切経を求めに伊勢松坂へ赴く。

 

長岡藩第九代藩主牧野忠精は、2月から村上藩と共同して三潟付近の排水工事と新水路掘削工事を行い、出雲崎代官の異議を押さえて1820(文政 3)年に完成させて、38町歩の水腐地の良田化と2,600石余りの新田開発に成功する。

 

百姓の取締りしばしば下令される(このころ、百姓の取締りしばしば下令される。

 

英商船長コードン、浦賀に来航し貿易を要求、幕府これを拒絶。

 

良寛年譜/  乙子神社境内の社務所 4年目

 

 
 
 
■ 1819文政2年 良寛62歳       

[ 乙子神社境内の社務所 4年目 ]

 

4月 長岡藩主・牧野忠精の来訪を受け、長岡に勧招されるも、これを辞退。牧野忠精公勧招の返事として、

 

炊くほどは 風が持てくる 落葉かな 』 (良寛)

 

 として示した。小林一茶の句『炊くほどは 風が呉れたる 落葉かな』に対し ... (良寛さが一茶の著した『株番』の存在をしいていたかは不明)。

 

良寛さは、渡部の阿部定珍(76歳)のために定珍所蔵の『万葉集校異』に 、加藤千蔭著『万葉集略解』を参考に朱墨で注と振仮名を書き込む。

 

小林一茶『おらが春』できる(一茶55歳)

関西・四国に一揆起こる

 

8月24日 庇護者で友人の解良叔問病歿す 享年55。故解良叔問の草中に、良寛さは筆写の法華経を埋めた。

 

良寛年譜/  乙子神社境内の社務所 5年目

 

 

 

■ 1820文政3年 良寛63歳    

[ 乙子神社境内の社務所 5年目 ]

 

12月22日 本多利明歿す

このころ二、三年行脚の旅か

由之、この年越前の旅より帰国

万葉短歌抄『あきのゝ』はこの頃の作か

 

『法華転』もこの頃の作と思える

 

関長ます(22歳。後の貞心尼)。夫の医師・関長温と死別し長岡に帰る。

 

ます、福島村に来る。柏崎在の下宿の閻王寺で剃髪し尼僧になる。法名:貞心尼。22歳

 

幕府浦賀奉行に命じ、海防を厳にする

市河寛斎歿す 享年72

浦上玉堂歿す 享年76

清水次郎長 (山本長五郎)清水市美濃輪に生まれる

 

 
 
 
■ 1821文政4年 良寛64歳       

[ 乙子神社境内の社務所 6年目 ]

 

寺泊外山家で、むら子・弟由之らと過ごす

 

3月 弟由之、酒田方面の旅に出る

伊能忠敬、大日本沿海興地全図を完成。

 

幕府、蝦夷地を松前藩に返す(幕府は蝦夷地を松前氏に還附し、幕府による拓殖事業を中止)

 

諸国風水害

 

 

 

■ 1822文政5年 良寛65歳   

[ 乙子神社境内の社務所 7年目 ]

 

4月28日 イギリス船浦賀入港

 

5月28日 イギリス船常陸大津浜に来航する

 

維馨尼(いきように)歿 享年58。貞心尼24歳

 

小林一茶 58歳のとき、脳梗塞で倒れるが回復した。「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」はこの頃詠んだ句か

 

 

 

■ 1823文政 6年 良寛66歳       

[ 乙子神社境内の社務所 8年目 ]

 

2月か3月シーボルト、長崎郊外の鳴滝に熟を開く

 

経世家(江戸時代における政治経済論者の総称)佐藤信淵は、世界の中心である日本が、文字通りの世界の中心となるための秘策を提示する 「混同秘策」を成立させ、満州をまず攻め取れと提案した。これから軍国主義の火種を出したということか。

 

二宮尊徳、小田原藩から野州桜町の分家領地の復興を委嘱。

 

オランダ商館にドイツ人医師、シーボルトが来る。鳴滝塾で西洋医学を伝授(~1828.8 国外追放命令)

 

 
 
■ 1824文政7年 良寛67歳       

[ 乙子神社境内の社務所 9年目 ]

 

12月17日 長女 むら子病歿 享年65

徳昌寺虎斑歿す 享年60  

 

村上藩郡奉行・三宅相馬転任(村上藩郡奉行・三宅相馬(23歳)、録事となり三条代官所に転任する)

 

英捕鯨船乗員、常陸国に上陸し捕らえられる

 

良寛年譜/  乙子神社境内の社務所10年目

 

 

 

■ 1825文政 8年 良寛68歳       

[ 乙子神社境内の社務所 10年目 ]

 

2月 幕府は諸大名に異国船打払いを指令(文政打払令)により、日本沿岸に近づく外国船の撃退が命じられる。

 

10月 峨眉山下の橋杭が椎谷浜に流れ着いた

 

§ 良寛さの詩 『題峨眉山下橋杭 ・・・ 』は、このころ作られたか

 

録事となり三条代官所に転任した三宅相馬(28歳)に餞別として歌『うちわたす あがたつかさに もの申す ・・・ 』 (良寛)『いくそばく うづのみ手もて おほみかみ ・・・ 』 (良寛) の二首「領民を統治する者の心構え」を贈るが、良寛の歌が理解できず友人の鈴木文臺へ手紙で歌の意図を詳しく訊ねる。

 

刈入で多忙の村人に猟場への道を掃かせた第7代の殿様で京都所司代の信敦に狩りを止めさせた

 

冬 越後未曽有の大雪

幕府は「異国船打払令」/「外国船打払令」(長崎を除く日本への入港を図る西洋船舶を打ち払う」を発した

 

岩倉具視生まれる

 

 

良寛年譜/  乙子神社境内の社務所11年目 木村家屋敷内の庵に移り住む

 

 
 
 
■ 1826文政9年 良寛69歳       

[ 乙子神社境内の社務所 11年目  島崎村の能登屋木村家屋敷内の庵に移り住む ]

 

3月9日 亀田鵬齋、江戸で病歿。享年73

3月 貞心尼(29歳)貞心尼、長岡在福島閻魔堂に移る

 

5月16日 旧三島郡寺泊町引岡村の農家で資産家小林一枝のところに「吉左衛門来て良寛禅師を置くべき庵を作り度と申してかへられる」と沙汰。

 

5月22日「国上良寛禅師許へ見舞い、源左衛門より沙汰せられし所を語り候処、前より在りし庵なら宜しけれども新しく作るにはイヤと被申候 ...」

 

夏のころ?貞心尼、島崎の良寛さの庵を訪問、留守のため歌と手毬を託す

 

8月18日 甥・馬之助(泰樹)の、妻遊子病歿。享年35

 

秋、島崎(新潟・和島村)の能登屋木村家屋敷内の庵に移り住む。 ► 初冬からの説もある

 

暮 阿部定珍(49歳)に近況を報ず良寛さの書簡がある

 

由之桂家四代目誉章の屋敷内に隠居遁世した

 

遍澄(24歳)、10年間の良寛さとの暮らしを離れ、地蔵堂願王閣主となる

 

良寛年譜/  一時、地蔵堂に住む  木村家屋敷内の庵 2年目

 

 
 
 
■ 1827文政10年 良寛70歳       

[ 一時、地蔵堂に住む  木村家屋敷内の庵 2年目 ]

 

2月16日 庇護者で友人の原田鵲齋(有則)病歿。享年65

 

6月 柏原村に大火が起こり、一茶の家もその被害を被り、一茶は以後、焼け残りの土蔵に住むことを余儀なくされる

 

秋 木村家で貞心尼の訪問を受け、徹夜で語り合ったらしい。貞心尼(30歳)。良寛70歳

 

11月19日(1月5日) 小林一茶歿す 享年65

 

頼山陽の『日本外史』

西郷隆盛が鹿児島・加治屋町に誕生

 

 
 
 
■ 1828文政11年 良寛71歳      

[ 3月 寺泊町の照明寺境内の密蔵院に仮住  木村家屋敷内の庵 3年目 ]


 

4月 木村元右衛門のために、『大蔵経記』碑文を撰す

 

初夏に貞心尼(31歳)を、福島・閻魔堂に訪ねる

 

秋、貞心尼と相会する

 

10月9日 シーボルト事件勃発(帰国の際に見つかった日本地図のため、追放される)

 

11月12日 三条大地震  死傷3,162名。家屋の全壊9,888戸、半壊7,276戸

 

§ 良寛さの書簡 「隆全和尚宛の書翰で「隆全をはじめ、宝塔院の住職、隆観(りゅうかん)や三浦屋幸助の安否をたずねられたもの」 霜月(しもつき)廿一日    宝塔院御隠居様 良寛

 

§ 良寛さの書簡 『山田杜皐宛の書翰で「死ぬ時節には死ぬがよく候」』与板の酒造家山田杜皐(やまだとこう)に伝えた書翰にある。

 

「地震は信(まこと)に大変に候 野僧草庵は何事もなく親類中死人もなくめで度存候   うちつけに死なば死なずて長らへてかかるうき目を見るがわびしさ 

 

しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ 臘八 良寛」

 

三条の真言宗の隆全隠居、三条大地震被災の無縁仏を懇ろに葬る

 

冬、大夢高枕、早川樵巴の両名が、島崎の草庵を訪れ画賛する

 

歌集『久賀美』をつくる

 

与板の徳昌寺虎斑(萬象古範)和尚『大蔵経』を木村家に質入れ

 

§ 良寛さの歌 『あしびきの 西の山はに ちかき日を 招きてかへす 人もあらぬか』は、このころ作られたか

 

木村元右衛門質草の『大蔵経』を虎斑和尚に質金を取らずに返した

 

§ 良寛さの歌 『み経の再びみ寺に帰るを見て これの主人のみ心を悦びて あさもよし きもがこゝろの まことゆも 経はみ寺に 帰るなりけり』は、このころ作られたか

 

三条の八幡宮境内に良寛詩碑「十字街頭乞食了 八幡宮辺方徘徊」が建つ

 

能登屋木村元右衛門のために一切経碑文を選す

 

塩尻峠改修

 

 

良寛年譜/  木村家屋敷内の庵 4年目

 

 
 
 
■ 1829文政12年 良寛72歳       

[ 木村家屋敷内の庵 4年目 ]

 

3月21日 江戸大火。神田より出火し、下町繁華街全焼する

 

8月、三条の真言宗宝塔院の隆全隠居(45歳)境内に地霧亡霊塔(市指定文化財〉を建て、被災者を懇ろに葬る。

 

与板藩主 徳昌寺で震災犠牲者の供養法会を営む。

 

『良寛・由之兄弟和歌巻』なる

良寛筆「一蓮塔(石偏の塔)」の墓碑建つ。

貞心尼良寛さを訪ね、応答の歌を作る

 

『これぞこの仏の道に遊びつつ つくや つきせぬ御法(みのり)なるらむ (貞心)』

 

§ 良寛さの歌 

つきて見よ ひ ふ み よ い む な や ここのとを とをと 納めてまた始まるを

 

は、このころ作られたか (良寛)

 

『君にかく あひ見ることの嬉しさも まださめやらぬ 夢かとぞ思ふ (貞心)』

 

夢の世に かつまどろみて夢をまた 語るも夢も それがまにまに』

 

は、このころ作られたか (良寛)

 

§ 良寛さの歌 

いついつと 待ちにし人は 来りけり 今は逢ひ見て 何か思はむ』

(良寛)は、このころ作られたか

 

いき死にの 境はなれて 住む身にも  さらぬ別れの あるぞ悲しき (貞心)

 

釈迦の御前に契りてし、ことな忘れそ世は隔つとも』 

(良寛)

 

良寛さ、三条大地震羅災者無縁供養長編の弔詩を作る

 

松平定信歿す 享年72

 

 
 
 
■ 1830文政13天保元年年 良寛73歳       

[ 木村家屋敷内の庵 5年目 ]

 

正月 弟・由之から中国製の筆を贈られる

 

2月 木村元右衛門の二女おかのに戒語を書いて与える

 

2月 弟・由之と詩歌唱和

3月 由之から座布団を贈られる

 

3月 由之は天保2年8月までの歌日記、山つと・八重菊日記の中に、歌人桂とき子との贈答歌を多く残した。とき子はこの頃から本格的に歌に取り組んでいる

 

春 貞心尼との野遊び

夏 貞心尼34歳。と与板の山田家で会う

 

解良栄重良寛を訪ね、作歌を学ぶ

宮川禄斎良寛肖像を描く

 

眼病に加えて胃腸病で、貞心尼との約束の訪問できず

 

夏より病臥。腹痛下痢繁くなる。直腸癌か

 

7月 痢病にかかる

8月 上旬悪性の下痢つづく

9月 激しい腹痛

 

阿部定珍(53歳)江戸に遊ぶ

 

秋には与板、地蔵堂中村家に臥床。寺泊、国上に暇を乞う

 

10月小康状態を得る

 

由之の弟子よせ子の御形見こひし歌のおかへし

 

「おはせし世に よせ子(与板町山田氏 由之の弟子)が御形見こひし歌のおかへし

 

§ 良寛さの歌 

かたみとて何残さん春は花山ほとゝぎす秋はもみぢば

 

は、このころ作られたか

 

§ 良寛さの歌 

散るさくら のこるさくらもちるさくら

 

は、このころ作られたか

 

良寛さの絶筆・伝遍澄筆良寛像に歌賛をする

 

12月、鈴木牧之(ぼくし)(『北越雪譜』)の著者の山水画に讃「壮年会極佳妙地老来頻動遍舟興」す。これと短冊を書き与える。これが遺墨中の最後のものと言われる

 

 

12月24日(新暦 2月 6日)から容体悪化

 

翌25日(新暦 2月 7日)貞心尼駆けつける

 

12月 25日 与板の由之(69歳)案じて看病のため馳せ付ける。足腰萎(な)えた良寛さ、渾身の力をしぼり貞心尼(34歳)に筆を執る

 

あづさゆみ 春になりなば草の庵を とく出でて来ませ 会いたきものを

 

かくて師走の末つ方、にわかに重らせ玉ふよし人の許より知らせたりければ、打ち驚きて急ぎまうでて見奉るに、さのみ悩ましき御けしきにもあらず、床の上に坐しゐ玉へるが、己がまゐりしをうれしとやおもほしけん

 

いついつと 待ちにし人は来りけり 今はあひ見て 何か思はむ

 

貞心尼は、涙にかき暗(く)れる。しかるに師は、あたかも般涅槃(はつねはん ‐ みまかること)の遺訓よろしく、

むさしのゝ 草葉のつゆのながらへて ながらへはつる 身にしあらねば

 

貞心尼は、これぞ最後の教誨ならめと胸に開き、昼夜御片はらに在りて、御有様見奉りぬるに、ただ日にそひてよわり行き玉ひぬれば、いかにせんととてもかくても、遠からずかくれさせ玉ふらめと思ふに、いとかなしくて、生き死にのさかひ(界)はなれて住む身にもさらぬ別れのあるぞ悲しきと、ふと漏らせば、師は聡く聴きつけ、御かえしに

 

うらを見せおもてを見せて散る紅葉

 

衰弱が進み重篤に陥る

衰弱がはなはだしくなる

年末には危篤状態

越後大旱魃

京都大地震

葛飾北斎「富岳三十六景」できる

 

御蔭参りは60年ごとに流行すると言われていたとおり、この年500万人が参加し、伊勢神宮を参拝

 

この年から藩政改革に乗り出す藩が目立つようになる。なかでも、逼迫した財政の立て直しと、外国船の頻繁な来航から海防政策に力を入れる藩が多くあった。

 

水戸藩では9代藩主徳川斉昭が、藤田東湖をブレーンとして改革に着手。全領地に及ぶ検地や藩校弘道館の開館による文武両道の奨励、特産品の育成などを目標とした。しかし、この改革に保守派が強い抵抗を示したため藩内は2派に分裂し、結果として改革は失敗に終わっている。

 

肥前藩(佐賀県)では、鍋島直正が10代藩主に就任したのちに改革を始めた。質素倹約、殖産興業などを積極的に行った結果、直正就任当時に2万貫以上あった借金を、1837(天保8)年には8、200貫に減少させた。

 

また直正は、オランダとの直接交易により得た利益で西洋の武器や蒸気船を大量に購入して西洋科学技術の研究を進めるなど、国力の増強にも努めている。

 

500万両もの借金があった薩摩藩(鹿児島県)では、10代藩主島津斉興の後見人として政権を握っていた8代藩主の重豪が財政改革に着手。

 

自らの代わりとして調所広郷を改革の指導者に任じた。黒糖を藩の専売制にしたほか、町人からの借金を250年掛けて返済するという強硬な手段により、財政立て直しに成功する。1844(弘化元)年には50万両の備蓄ができたと言う。

 

この3藩での改革はやがて諸藩に影響を与え、同じように財政難にあえいでいた各藩で藩政改革が行われた。

 

吉田松陰誕生

大久保利通誕生

薩摩藩、調所広郷の改革、砂糖の専売、琉球貿易など

 

 

良寛年譜/  良寛さ入寂

 

 
 
 
■ 1831天保2年 良寛74歳       

[ 木村家屋敷内の庵  6年目 ]

 

正月 木村家草庵に由之、貞心尼ら良寛さを見舞う

 

正月 4日、由之再び与板より島崎に馳けつける

 

良寛の遺言、ありのままに受け入れるの「阿」の一声のみ

 

正月 8日 陰暦正月 6日。午後 4時 島崎木村家にて良寛さ歿。

 

子宝に恵まれなかった佐渡から養女に入った良寛さの母おのぶの伯母が、橘屋山本家に養女になったのは、ちょうどこの100年前のことであった。

 

野辺おくり(隆泉寺の木村家墓地に葬る)

 

三輪廻船問屋の開基寺曹洞宗徳昌寺二十七世活眼大機和尚が秉炬(ひんこ)師となる。

 

秋、釈証願、「良寛禅師碑銘並序」を記す

 

旧暦8月7日新暦 9月12日 十返舎一九歿  享年66

 

長州藩の百姓6万、強制買上に反対し一揆を起こす

 

鈴木文臺、『呈良寛禅師』

 

鈴木文臺、『哭良寛禅師』を著す

 

良寛年譜/  良寛さ歿後 1年

 

 
 
 
■ 1832天保3年 良寛歿後 1年 
 

 

良寛年譜/  良寛さ歿後 2年

 

 

 

■ 1833天保4年 良寛歿後 2年   

 

天保の大飢饉(風水害により奥羽・関東飢饉)始まる

 

米価高騰・諸国で米騒動起きる(江戸、大坂、小浜、広島など各地で米価高騰・米買占めに対して騒動、打ちこわしが起きる)

 

 広重「東海道五十三次」

 

証聴による「良寛禅師碑銘並序」を記した墓碑が島崎隆泉寺墓地に建立される。

 

 

 

■ 1834天保5年 良寛歿後 3年   

 

正月13日 二男由之(ゆうし)歿 享年73

 

7月 大関文仲歿す。享年54。晩年は盲目になっていた。

 

水野忠邦が老中に就任

福沢諭吉誕生(~1901)

 

 

良寛年譜/  良寛さ歿後 4年

 

 

 

■ 1835天保6年 良寛歿後 4年   

 

5月1日 貞心尼(40歳)『蓮の露』筆写なる

 

諸国で飢餓

滑稽本・人情本の流行

 

江戸時代後期の南画家田能村竹田歿(大阪中之島の岡藩蔵屋敷にて歿す。享年59)

 

 

良寛年譜/  良寛さ歿後 5年

 

 
 
 
■ 1836天保7年 良寛歿後 5年   

 

 7月11日 円通寺で良寛さに和歌の影響をもたらし、共に国仙から印可の偈を受けた義提尼歿す。享年77

 

天保の大飢饉

 

良寛年譜/  良寛さ歿後 6年

 

 

 
 

 

■ 1837天保8年 良寛歿後 6年   

 

大塩平八郎の乱が起こる(陽明学者で元与力の大塩が農民と挙兵して豪商を襲う)

 

アメリカ船モリソン号を浦賀で砲撃

 

 

 

 

■ 1838天保9年 良寛歿後 7年   

 

長州藩、村田清風の改革

緒方洪庵適々斉塾を開く

中山みき、天理教を開く

 

 

 

 

■ 1839天保10年 良寛歿後 8年   

 

水野忠邦が老中首座に就任

 

守旧派の鳥居耀蔵と伊豆韮山の代官で洋式砲術家の江川太郎左衛門英龍に江戸湾備場巡見を下命。


鳥居耀蔵と江川太郎左衛門英龍の両者間に対立があり江川を援助した渡辺華山などが洋学興隆のあるのを非とする鳥居耀蔵らから弾圧を受ける「蛮社の獄」が発生した

 

 

 

 

■ 1840天保11年 良寛歿後 9年   

 

上州出身の国学者である飯塚久利は桂家を訪れ、新津駅桂樹苑三十景和歌を詠んだ。

 

長州藩村田清風、改革に着手

高島秋帆、幕府に「西洋砲術意見書」を提出

 

 

 

 

■ 1841天保12年 良寛歿後10年   

 

「旦飯野(あさいの)神社考」を著す

 

老中水野忠邦が前将軍家斉派の若年寄などを追放、大老井伊直亮を罷免するとともに、自派の人々を要職に任命。

 

水野忠邦が家慶の幕政改革命令を受ける形で「天保の改革」(~1843)に着手。

 

幕府は株仲間の解散を命令

 

 

 

 

■ 1842天保13年 良寛歿後11年   

 

滝沢馬琴『南総里美八犬伝』表す

高島秋帆に広く砲術伝授を許可する

 

清国に勝利をおさめた英国に日本進攻計画があることが伝えられた。異国船打払令が外国との間にいたずらに紛争を引き起こす危険があるとして、これを緩和し、侵略などの意図のない難船などには薪水を補給するという「薪水給与令」を発布

 

 

 

■ 1843天保14年 良寛歿後12年   

 

28年がかりで書きあげた全180回、98巻106冊の大長編小説『橘物語』は、『北越雪譜』の鈴木牧之(ぼくし)と交友関係にあって上州出身の国学者飯塚久利は桂家を訪れ、誉正の話や資料をもとにして良寛さのことをまとめ『橘物語』を書いた。

 

水野忠邦は印幡沼開拓工事と江戸大坂周辺の私領の替地令を下命

 

水野忠邦は金銀座の貨幣発行停止を下命

水野忠邦に対する反対運動高まる

 

水野忠邦が老中罷免となる。ここに天保の改革は失敗に終わる

 

 

 

 

■ 1844天保15弘化元年 良寛歿後13年   

 

水野忠邦が老中首座に復帰。しかし昔日の積極性も権威もなくなっていた

 

■ 1845(弘化2)年 良寛歿後14年   

 

 

■ 1846(弘化3)年 良寛歿後15年   

 

 

■ 1847(弘化4)年 良寛歿後16年   

 

孝明天皇即位

森有礼(もりありのり)誕生(1847~1889)

 

 

■ 1848(弘化5、嘉永元)年  良寛歿後17年   

 

遍澄46歳のこの時、眼病にかかる

 

鈴木文臺、「草堂集序並附言」を撰す

鍋島藩、反射炉を作る

 

■ 1849(嘉永2)年 良寛歿後18年   

 

 

■ 1850嘉永3年 良寛歿後19年   

 

弟子遍澄(48歳)は眼病の中、散乱・散逸した 良寛さの作品を手間と時間を費やしてかき集め整理し、良寛詩を最初に蒐集した。

その目的は、それらを蔵雲和尚に託すためであった。

 

遍澄、この年まで付近の子弟の教育を行ったりして地蔵堂願王閣主を24年間努めたが、眼病がすすんで島崎(現長岡市)に帰るため、願王閣主を去る

 

 

■ 1851(嘉永4)年  良寛歿後20年   

 

6月 鈴木文臺(56歳)篤学にたいし長岡牧野候からを賞状および銀を賜る

 

 

島津斉興(なりおき)が隠居し、長男の斉彬(なりあきら)が新藩主となる(43歳)

佐久間象山が江戸小挽町に洋式砲術塾を開く。幕府および諸藩も砲術修行者に保護援助を与えるまでになってきた。

 

 

■ 1852(嘉永5)年  良寛歿後21年   

 

鈴木文臺(57歳)「良寛上人遺墨跋」を作る

 

東印度艦隊の提督ペリーがノーフォーク港を出発して日本向かう。

 

良寛年譜/  ペリー浦賀に来航し強硬に開国要求。国論は2分

 

 

 

■ 1853嘉永6年 良寛歿後22年   
 

 

3月 庇護者原田正貞歿。享年65

 

鈴木文臺(58歳)、燕町東樹氏のために「天上大風」の由来を作る

 

鈴木文臺、牧野候の儒官に登用され、二人扶持を賜る

 

アメリカのペリーが浦賀に来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ペルーが黒船四隻を率いて浦賀に入港し、開国を迫る。

 

坂本竜馬が江戸に上り、桶町の千葉貞吉道場へ入門。住んでいたのは江戸の土佐藩邸。武市半平太も土佐藩邸にいた。

 

ペリーの強硬に国論は、「尊王攘夷」と「佐幕開国」に2分された。

 

黒船が江戸湾内に深く侵入。あわてた幕府は、同夜国書受領に決する。

 

久里浜で米国国書受け取る。

 

ペリーは国書に対する返答を受け取るため来年再び渡来することを述べ、再渡来時の準備と称して、江戸湾内の測量などを行い、羽田沖まで侵入するなど示威行動を行った上で、6月12日にようやく江戸湾退去。

 

福井藩主松平慶永(よしなが)が水戸斉昭を世子家定の補佐にすべきを陋中阿部正弘に建言。

 

幕府諸侯に前例のないこととして、米国国書和解を示して意見を徴す。

 

露国使節プチャーチンが長崎に来航し、通商を求める。

 

幕府将軍家慶の死去発表。

幕府対米方針をブラカシ策と決定発表

 

 

 

■ 1854嘉永7安政元年 良寛歿後23年  

 

ペリーは軍艦9隻を率い、江戸湾小柴沖に再渡来へ入港。ヘリーが神奈川沖に艦を進める(幕府は浦賀を主張したが拒否された)。日米交渉開始。阿部正弘が松平慶永に米要求受諾のやむなきを事情説明。ついに日米和親条約が締結。

 

西郷(28歳)、藩主斉彬の参府にしたがって初めて江戸に赴く。

 

斉昭が幕府の弱腰を不満として辞意を申し出る。

 

日米和親条約12ヵ条を締結調印(ペリー提示の修好通商条約は拒否)し、即時下田港を、1955年3月より箱館港を開港することになる。215年ぶりの開国であった。

 

西郷、水戸藩邸へ藤田東湖を訪ねる。以後、度々東湖と時事を論ずる。

 

幕府は外交機密書類を町人身分の長崎通詞や天文方手附の人間に任せるより、海防掛自体で処理する必要があるとの意見が強まり、筒井政憲、川路聖謨、古賀増などを異国応接掛に任命。

 

日英和親条約が長崎で締結された

西郷、橋本左内の来訪を受ける

日露和親条約が長崎で締結された

 

桂家当主誉正の妻、歌人桂とき子歿。とき子は由之から歌道を学んだ。

 

 
 
 
■ 1855安政2)年 良寛歿後24年   

 

オランダより汽船スンビン号が寄贈され、ペルスライケン以下の教官も派遣され、長崎で第一回の海軍伝習がはじまることとなった。

 

幕府は勝義邦(麟太郎・安房・号海舟)に異国応接手附蕃書翻訳御用を下命。

 

幕府は浦賀奉行や大船製造掛などに、その配下より伝習要員を選出することを命ずるとともに、学問所教授方出役矢田掘鴻(景蔵)、小普請組勝義邦らを士官要員として伝習に参加させた。また諸藩にも伝習希望者の参加を許可。

 

長崎にて第一回の伝習が開始される

 

安政の大地震(死者7000人以上)。水戸藩では藤田東湖、戸田蓬軒という斉昭の両腕ともいわれた名士が圧死。以後、水戸家は藩内に波乱の絶え間がない混乱期を迎える。

 

斉昭の幕府への強い影響力を排除するため、開国論者の堀田正篤(まさひろ)が老中に再任され、しかも阿部正弘に代わって老中首座に就任。

 

将軍・家定は30歳を越えて子がない。結婚も2度ほどしたが、病弱の将軍を残して2人の夫人は先に病没。老中・阿部正弘に3人目の夫人を迎えることを思いつく。島津家の一門、島津安芸の娘篤子(あつこ)を将軍の夫人にしょうと計画。のち篤子は近衛家の養女となり、京より将軍家へ嫁に入る筋書で動いた。

 

 

 

■ 1856安政3年 良寛歿後25年 

 

鈴木文臺(61歳)、三宅氏のために「良寛和歌題言」を作る

 

西郷、島津斉彬より密書を託されて、水戸に使いに赴く。

 

タウンゼント・ハリスが総領事として伊豆下田に上陸し、玉泉寺を領事館とした。ハリスの下田時代、唐人お吉を妾にした。

 

 

 

 

■ 1857安政4年 良寛歿後26年

 

遍澄(55歳)失明

 

斉昭が海防参与の辞任を願い出る

 

斉昭派の大きな支持者の阿部正弘が病死(39歳)

 

ハリスが総領事として江戸に入り、将軍家定に拝謁。翌年(1858)1月に下田に戻った。

 

萩藩の吉田松陰、松下村塾を開く

 

福井藩主松平慶永ら、徳川慶喜を将軍に推す

 

 

良寛年譜/ 良寛さ歿後27年 乙子神社の良寛詩碑成る

 

 
 
 
■ 1858安政5年 良寛歿後27年 

 

乙子神社の良寛詩碑成る

 

幕府は日米条約の調印の勅許を請うため、老中堀田備中守正睦を京都に派遣したが拒否される。

 

幕府と結んだ紀州藩は彦根藩(35万石)主・井伊直弼を大老職につける。

 

井伊大老は勅許を待たずに神奈川でハリス(米)と日米修好通商条約締結。

 

この後、各国と修好通商条約を調印したが、これらを総称して「安政の(仮)条約」と呼ぶ)に調印。

 

アメリカ駐日総領事ハリスの10数回に及ぶ粘り強い交渉におされ、幕府は一方的な最恵国待遇、領事裁判権(治外法権)、自主権のない関税制度(後に輸出品は一律5%、輸入品は一律20%に設定)などを内容としたものであった。

 

幕府が外国奉行を設ける

 

オランダ、ロシア、イギリスとの間に修好通商条約

 

井伊の独裁を責めた松平慶永、尾張慶勝、水戸斉昭らは幕命をもって謹慎を命ぜられる。同日、家定死去。

 

島津斉彬死去

 

フランス修好通商条約

 

浪人志士の逮捕が始まる(安政の大獄の始まり)

 

安政の大獄を逃れ、西郷と月照が薩摩大崎ケ鼻に入水

 

西郷、奄美大島の島流しの命を受ける。

 

幕府による日米修好通商条約の調印に対して,孝明天皇は水戸藩に対して密勅を下し、幕府に対抗する姿勢を示した。

 

そこで大老井伊は、幕府の施策を批判した梅田雲浜(小浜藩士・攘夷派)や橋本左内(越前藩士・適塾出身の蘭学者で開国派)らを逮捕し、徳川斉昭・島津斉彬・松平慶永ら一橋派の有力大名や攘夷派の公家たちを処罰するなど、徹底した弾圧をおこなうことによって政治権力の分裂を防ごうとした。安政の大獄(1858~1860年)

 

 

 

 

■ 1859安政6)年 良寛歿後28年  

 

 

シーボルトがオランダ商事会社員として長崎に再来日。幕府は外交顧問とした。翌1860年帰国。

 

西郷隆盛は奄美大島竜郷村に島流し(山川港から出帆)

 

安政の大獄が最高潮。吉田松陰、松平春嶽の某臣・橋本左内が斬首。安政の大獄終わる

 

 

 

■ 1860安政 7年 良寛歿後29年 

 

 

勝海舟を船将(指揮官)とする軍艦咸臨丸が米へ随行。福沢諭吉(27歳)は軍艦奉行木村摂津守喜毅の従者として乗り組む。

 

日米条約(安政の条約)批准のため、幕府は使いをワシントンに送る。正使は新見豊前守正興、村垣淡路守範正ら。

 

高輪の東禅寺にあるイギリス公使館(公使はオールコック)が浪士に襲われる。イギリスは東洋艦隊を、それにつづいてドイツもフランスもみな軍艦を品川沖に集め。そしてそれぞれ陸戦隊が上陸したため、高輪の町は外国兵でいっぱいになった

 

 

 
 
 
■ 1861安政8年 良寛歿後30年 

 

 

藤本鉄石(四十五歳)、古東領左衛門(四十四歳)、尊王討幕の同志として血盟。

 

内村鑑三誕生(1861~1930)

 

幕府は第2回目の使節を派遣。目的は攘夷運動の激化にともなう混乱を理由に開港の延期を求めようというもの。正使・外国奉行兼勘定奉行・竹内下野守保徳、副使・河津伊豆守、外国奉行・松平石見守康直、御目付・京極能登守高朗らが選ばれた。これには、福地源一郎(桜痴)(21歳)、福沢諭吉などが随行。使節はフランスではオランダからシーボルト(68歳)を呼んで助力を乞うた。イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの諸国を歴訪。

 

西郷、召還の命を受ける

 

 

 

■ 1862安政 9年 良寛歿後31年

 

新渡戸稲造誕生(1862~1933)

 

坂本竜馬、土佐を脱藩

 

幕府の遣欧使節団がパリに到着。正使は竹内下野守、副使は松平石見守、目付は京極能登守、ほかに10人ほどの吏僚、および3使の家来衆が10人ばかり。通訳官は福沢諭吉。

 

島津久光が9000人を伴い鹿児島を発し、京へ向かう。

 

寺田屋騒動(薩摩藩士同士の切合い)。襲撃側は奈良原喜三郎など。

 

久光、幕府へ政治改革23ヶ条を突き付け、呑ます。久光は得意満面で再び500余人の行列を調えて江戸を発して京へ向かう。この行列が神奈川宿の生麦村へ差し掛かったところへ(午後3時頃)、乗馬中の4人が現れて、行列を横ぎろうとした。生麦事件発生。これを久光の駕籠脇にいた奈良原喜八郎が切りつけ、先頭のイギリス人を殺傷、トドメは有村武次。残りの3人のうち背中に深手をおった2人は神奈川のアメリカ領事館へ危急を告げた。夫人は髪を切られただけで横浜居留地に逃げ帰った。安政条約によって横浜外人居留地から10里以内は外人遊歩区域として認められている。その区域内で白昼殺傷された。

 

イギリス公使が幕府に自国兵駐留を申し入れる。

 

長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、井上聞太ら13名の長州藩尊王攘夷の志士たちが、品川の将軍がここで参勤交代する外様大名を送迎した御殿山に新築中だったイギリス公使館に焼打ちをかけた。

 

 

 
 
 
■ 1863安政10年 良寛歿後32年 

 

慶喜、入洛

長州は攘夷に踏み切る

尊王攘夷派の挙兵

 

生麦事件から尾を引くイギリス艦隊が鹿児島を砲撃する

 

下関戦争(萩藩がアメリカの商船を下関海峡で砲撃した)

 

 

■ 1864安政10)年 良寛歿後33年

 

英、蘭、仏、米連合艦隊、下関を砲撃

 

山内容堂、土佐勤王党を弾圧。以蔵は捕縛され土佐に送られる。武市半平太も捕まる。竹市半平太は切腹。

 

新選組による池田屋に集合した志士30余名のほとんどを斬殺するか捕縛し、勤王派に大打撃を与えた襲撃事件(池田屋騒動)。

 

長州藩が禁門変で敗れる。久坂玄瑞(25歳)死亡。

 

朝廷は征長命令を下す

 

長州の下関に対して英米仏蘭連合艦隊が攻撃。長州の沿岸諸砲台は上陸占領され破壊された

 

西郷、勝海舟と会見

 

牧野候命じて、鈴木文臺(69歳)を士班(小組格)に列し、米俸若干を賜る

 

 

 

■ 1865(元治元年12月4日 - 元治2年4月6日、慶応元年4月7日 - 慶応元年11月14日)年 良寛歿後34年

    

長州では、脱藩していた高杉晋作が九州より帰藩し、下関を拠点とする奇兵隊・遊撃隊ら諸隊と萩の藩庁の正規軍が正面衝突したが、諸隊が長州藩の要衝である下関の会所を占領、保守恭順派の椋梨藤太一派の排斥の激を藩内に飛ばす。クーデターである。2月末までには藩論を一変させ、ここに倒幕政権ができあがった。

 

坂本龍馬は薩摩藩の後援を得て、長崎に亀山社中(日本で最初の株式会社、総合商社といわれる)を結成、藩際交易、外国貿易に活躍 。

 

江戸幕府の滅亡

 

天誅組の変の最中、八月十八日の政変により幕府と朝廷との和解は実現したが,朝廷のもとで雄藩が国政運営を協議するという新しい政治のあり方は失敗に終わった。

 

これ以降の政治史の一つの軸は,朝廷での主導権を握った幕府と雄藩連合による新しい政府をつくろうとする薩摩藩などとの主導権争い。もう一つの軸が,民衆のなかの世直しを求める動きであった

 

 
 
 
■ 1866慶応2年 良寛歿後35年       

 

長州藩木戸孝允、小松帯刀らはひそかに上京して、薩摩藩邸で西郷隆盛らに会い、坂本竜馬等の斡旋により薩長同盟成立。

 

幕府軍艦が長州藩国境の周防大島郡を砲撃し、第二次征長戦の火蓋が切られた。芸州口、石州口、小倉口はともに長州藩が圧倒的に優勢で、領外の戦いだった。いったん上陸された大島も、たちまち回復した。幕府軍、各地で敗走。

 

長州軍により小倉城落城。高杉晋作指揮下の長州奇兵隊が幕府側の小倉城下に乱入し、小倉藩城主小笠原豊千代丸は城に火をはなって退却。

 

慶喜が15代征夷大将軍になる

 

孝明天皇崩御(36歳)。天皇毒殺の犯人は岩倉具視説]が流れた。孝明天皇は幕府を支持していたからだ。だが今では疱瘡による病死と考えられている。新帝明治天皇はこのとき16歳

 

 

■ 1867慶応3年 良寛歿後36年    

 

1月10日 慶喜が15代征夷大将軍になる。(1868年1月3日解任)

 

御蔭参り「ええじゃないか」広がる

 

夏目漱石誕生(1867~1916)

 

祐宮睦仁親王(明治天皇)践祚(せんそ)

 

高杉晋作死去

 

大政奉還のアイデアを坂本竜馬が出す(船中八策)

 

10月14日 大政奉還、十五代将軍 徳川慶喜が政権を返上する。江戸幕府の滅亡。

 

「王政復古」を宣言し、京都新政府成立。

 

王政復古により摂政・関白・将軍を廃し総裁・議定・参与の三職を置く。

 

良寛年譜/  弟子だった遍澄活躍。貞心尼九拝して蔵雲和尚に上梓を依頼

 

 

鈴木桐軒、鈴木文臺兄弟により遺稿編集のことが企てられていた。しかし貞心尼は、これをも断った。何故か。「受戒得度せぬ人、または如来の八大人覚を聴かざる徒に遺稿を手工(たく)ませると、師の道徳(風光)を害(そこな)うからだ」と。

 

だが貞心尼 は、たまたま越後出身の謙巌・蔵雲和尚(前橋竜海院二十九世)に相見

良寛和尚に感銘を受けた蔵雲和尚に上梓かたをお願いした。

 

弟子遍澄は、散乱・散逸した良寛さの作品を時間と手間を費やしてかき集め、それを蔵雲和尚 に託した

 

このときは既にかなり目が不自由であったという。

 

この間の消息を伝えた書翰に、「序文の事、あふせの如く、俗人又は師(其人を)を知らぬ者(知らずして)の書きたるは、中々に徳を損じ、無きにはおとる事も御座候。されば君、師の道徳を知りて其詩を開板し、世に長く残さんと思召す御心ざしの深き事、何人か及ぶべき  貞心尼九拝 竜海院方丈様御もとへ 」

 

の書簡に、蔵雲和尚は、

「まことやおふせのごとく、ちかごろは僧俗ともに道を守らず、見るもきくもかたはらいたき事のみにて 行く人のたえてなければ やへむぐらしげりて道もわかれざりけり」

と返事。

 

 

良寛さ初の出版

 

こうして、慶応3年春 珠山蔵雲和尚編『良寛道人遺稿』江戸・尚古堂刊となり、これが良寛和尚初の出版で、世に認められるきっかけをつくった。

 

慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉 坂本龍馬(33歳)、中岡慎太郎(30歳)が暗殺される

 

良寛年譜/  良寛さ歿後37年 ~ 歿後97年

 

■ 1868(慶応3年12月7日 - 慶応4年1月1日/明治元年1月1日(新暦1月25日) - 11月18日(一世一元の詔で慶応4年1月1日/明治元年1月1日に遡って改元する前は慶応3年12月7日 - 慶応4年9月8日)年 良寛歿後37年 

 

 

■ 1869(明治2)年 良寛歿後38年 

 

 

■ 1870(明治3)年 良寛歿後39年 

 

鈴木文臺歿。享年75

 

 

■ 1871(明治4)年 良寛歿後40年 

 

 

 
■ 1872明治5年 良寛歿後41年 

 

2月11日 貞心尼「不求庵」でこの世を去る。

亀田鵬齋を喪った直後の69歳の良寛さと初めて会ったのは29歳のとき。

その時から46年目に良寛の許へ旅立った。享年74

 

福沢諭吉『学問のすすめ』初版本刊行 福沢諭吉・小幡篤次郎共著

■ 1873(明治6)年 良寛歿後42年 

 

■ 1874(明治7)年 良寛歿後43年 
 

村上藩主内藤信親歿

 
■ 1928(昭和3)年  良寛歿後97年

 

1928年1月17日

モスクワで、ソヴィエト連邦秘密警察が、レフ・トロツキーを逮捕、1月31日にカザフ共和国・アルマアタに流刑

 

1月23日 

日ソ漁業条約が締結され、日本は旧日露漁業条約で得ていた広範な北洋漁業権を保持することができることが認められる

 

2月1日 

日本共産党が非合法下で、党機関誌「赤旗」を創刊する

 2月20日

第16回衆議院議員総選挙(最初の普通選挙)

 

2月25日

ワシントンD.C.のチャールズ・ジェンキンス研究所が連邦無線委員会(FRC)より認可を受け、世界で初めてのテレビ所有者となる

 

3月15日 

3.15事件  共産党員の大量検挙が始る

 

3月16日 

台北帝国大学官制公布

 

3月26日

中華民国杭州で世界初の国立アカデミーとなる中国美術学院が設立

 

日付不詳

コミンテルンで昨年からの検討された「日本問題に関する決議」いわゆる28年テーゼが採択された

 

4月7日 

中国で蒋介石の北伐が再開される

 

4月10日

治安警察法により労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散命令

 

4月12日
イタリア・ミラノでベニート・ムッソリーニに対する爆弾テロ発生。周囲にいた17名が死亡

 

4月12日から14日

アイルランドのダブリンとカナダのグリーンリー島の間で世界初の大西洋横断飛行が行われる

 

4月19日 

田中内閣の閣議が第2次山東出兵を決定する

 

4月20日 

歩兵中佐小泉恭次が率いる天津派遣部隊が済南に入城する

 

5月1日 

蒋介石率いる北伐軍が済南に入城する

 

5月2日 

第六師団長福田彦助指揮下の1300人が済南に入城して守備を固める

 

5月3日 

中国、日本軍と蒋介石率いる革命軍の間で戦闘が開始される(済南事件)

 

5月7日 

田中内閣の閣議が第3次山東出兵を決定する

 

5月9日 

閣議が第3師団に動員令を下し、15000の兵を青島に送る

 

5月14日

台中不敬事件おこる

 

5月15日

タイで、日本軍の山東省派兵に抗議して日本製品のボイコット運動が始まる

 

5月19日

カンボジアのポル・ポト派ゲリラ(クメール・ルージュ)組織の最高責任者になるポル・ポト(Pol Pot)誕生

 

5月21日

ガーナで黄熱病研究中の野口英世が、黄熱病に感染して死亡する。53歳

 

5月23日

ブエノスアイレスのイタリア大使館に爆弾が投げ込まれ、22人が死亡、43人が負傷

 

5月26日

第1回全国日本学生陸上競技大会が開催される

 

5月27日

インドネシア国民同盟が、大会でインドネシア国民党と改称する

 

6月4日

午前5時半ごろ、奉天に引き上げる途中の張作霖(54)を乗せた特別列車が関東軍高級参謀の河本大作大佐らによって爆破される(張作霖爆殺事件)。張作霖は死亡する。

 

6月9日

国民革命軍が北京に入城し、北伐が完了する。

6月10日

オーストラリアのキングスフィールド・スミスが、初の太平洋横断飛行に成功する

 

6月15日

中国国民政府が、不平等条約の改訂を各国に要求する

 

6月18日

ノルウェーの探検家アムンゼンが、墜落したイタリア飛行船の救援活動に参加して北極に向かう飛行機とともに消息を絶つ。55歳

 

6月20日

ユーゴスラビア議会でプニシャ・ラチッチが野党議員三人を射殺し、その他二人を負傷させる

 

6月29日

緊急勅令で治安維持法が改正公布され、死刑・無期刑を追加弾圧体制が強化される

 

7月2日

イギリスで、女性参政権を認める法律施行

 

7月3日

全府県警察部に特別高等警察設置

 

7月17日

メキシコのアルバロ・オブレゴン大統領がホセ・デ・レオン・トーラルに暗殺される

 

7月19日

中華民国国民政府が日華通商条約の廃棄を通告

 

7月22日

北原白秋が、20年ぶりに故郷柳川に帰り大歓迎を受ける。しばらくして「この道」を書く

 

7月28日

アムステルダムで第9回オリンピック大会が開催される。この大会では三段跳びの織田幹雄(24)が日本に初の金メダルをもたらし、鶴田義行(26)が200m平泳ぎで優勝、女子陸上800mでは人見絹枝(22)が銀メダルを獲得す

 

7月25日

アメリカ合衆国、中華民国から撤兵

 

7月30日

アメリカで、イーストマンが初の色彩映画を制作する

 

8月2日

エチオピアとフランス間に20ヵ年の友好条約が締結される

 

8月27日

日本を含む15か国が署名したパリ不戦条約調印。日本では「人民の名に於て」の字句が政治問題化

 

9月9日

「大阪毎日新聞」が電送写真を初掲載する

 

9月19日

ディズニー製作の、ミッキー・マウスが歌うトーキー・アニメ映画「蒸気船ウィリー」が完成する

 

9月30日

イギリスの細菌学者フレミングが、アオカビから抗菌性の物質を抽出し、ペニシリンと名付ける

 

10月1日

陪審法施行

 

10月8日

中国、蒋介石が国民政府主席に就任する

 

10月13日

殷王朝の遺跡の殷墟の発掘が始まる

 

10月26日

赤十字国際規約の採択により、赤十字社が正式に設立

 

11月1日

大礼記念行事としてラジオ体操の放送が開始される

 

11月3日

漫画の神様・手塚治虫が大阪に誕生

 

11月5日

NHKの全国放送網が完成する。翌日からの天皇即位礼の中継放送のため、急ぎ開通させる

 

朝日新聞社の社屋側面に電光ニュースが登場する

 

11月10日

迪宮裕仁(つぐのみやひろひと)親王(28歳)の即位の礼が京都御所で行われる

第124代 昭和天皇即位

 

 

良寛さ歿後36年の1867(慶応3)年の項で触れたことの繰り返しになるが、

貞心尼 はそのとき、

たまたま越後出身の謙巌・蔵雲和尚(前橋竜海院二十九世)に相見し、

良寛和尚に感銘を受けた蔵雲和尚に上梓かたをお願いした。

この間の消息を伝えた書翰に、

「序文の事、あふせの如く、俗人又は師(其人を)を知らぬ者(知らずして)の書きたるは、中々に徳を損じ、無きにはおとる事も御座候。されば君、師の道徳を知りて其詩を開板し、世に長く残さんと思召す御心ざしの深き事、何人か及ぶべき  貞心尼九拝 竜海院方丈様御もとへ 」

 

この書簡の返事に蔵雲和尚は、

「まことやおふせのごとく、ちかごろは僧俗ともに道を守らず、見るもきくもかたはらいたき事のみにて 行く人のたえてなければ やへむぐらしげりて道もわかれざりけり」

と。

こうして、慶応3年春 珠山蔵雲和尚編『良寛道人遺稿』江戸・尚古堂刊となり、これが良寛和尚初の出版で、世に認められるきっかけをつくった・・・ あれから60年以上も経ったこの年、そして鈴木文臺が没して58年も経っていたこの年の、・・・ 

 

良寛さから公刊を許されなかった鈴木文臺が、遍澄さよりも6年前に、良寛さ歿後39年の明治 3年、鈴木文臺は他界。享年75 であった。

その故人に

良寛さ歿後97年 の1928(昭和3)11月10日 時の政府から従五位を贈られ


 

道徳の教材としてや政治的に利用されるような利用のされかたをもっとも恐れて避けてきた生前の良寛さであったが、19歳ころから良寛さに魅かれて、生涯テーマのモチーフにし創作し、良寛さからは出版を断られていたが、結果は、裏切ってまでして多くの著作を世に送り出してきた鈴木文臺の功績にたいしてであった。

 

それが贈られる直前の 6月 4日 、

奉天に引き上げる張作霖を乗せた特別列車を関東軍高級参謀河本大作らが爆殺が発生した。

 

良寛さが66歳のとき経世家佐藤信淵は、

世界の中心である日本が、文字通りの世界の中心となるための秘策を提示する 「混同秘策」を成立させ、

満州をまず攻め取れと提案した。

 

このころから日本の軍国主義が動き出していた。

 

時の儒学者たちが五合庵の良寛さに寄ってたかって利用したように、

多くの人の手によって「人間良寛」が明確に浮き彫りになってきた歿後97年経ったこのとき、

恰好なネタとして利用するため故人鈴木文臺に従五位を贈り、時の政府は人心を惑わした、と思っている。

 

もちろん、鈴木文臺には問題はない。ないどころか、鈴木文臺も利用されたのである。仕掛けられたと思うのだ。

 

素直でやさしい国民が必要だったのだろう、またもや良寛さを持ち出して虚像化、神格化を企んだのかもしれない。

 

日本は、この頃から関東軍の力が大きくなって行って、敵を中国から連合国にまで拡大していったことは周知のとおりである。

 

 

11月14日

大嘗祭挙行

 

11月23日

同志社大学で火災。天皇が京都滞在中であったため、総長が引責辞任

 

11月28日

高柳健次郎が浜松高等工業学校でブラウン管方式によるテレビジョンの公開実験を行う

 

中国で国民党改組派が結成される

 

11月30日

社会党の委員長になる土井たか子誕生

 

12月7日

イタリア国会で、ファシスト党の最高機関のファシズム大評議会が国家最高機関となり、ファシスト党の独裁が確立する

 

12月22日

カルカッタで、インド人の自治の実現のための全政党による全国大会が開催される。マハトマ・ガンジーが、穏健派と急進派の調停役を務める

 

今年度 1928(昭和3)年  良寛歿後97年

ノーベル平和賞 該当者なし

 

良寛さを利用して、あらぬ方向に向かうのではなく、良寛さを活用して、世界から尊敬されるような国づくりの創造からではないだろうか。

行き過ぎた科学技術文明の舵を切り替え、古ぼけた資本主義から脱却し、顧客ファーストの強い経済を立て直し、あらゆる変化に適合するためイノベーションを繰り返し、時代はいつも成長期が支え、四季の自然の美しさを取り戻し、公害もなく、資源は再生され、培われた文化的な巧の技が映え、旬の美味に包まれて、健康的な笑顔の絶えない温かな家庭を蘇らせることはできないものか。

人と人との交わりは一人ひとりの醸し出すしぐさから、互いを高め合う教養を範として人間味豊かな社会はつくれないか。

世界から「クール(かっこいい)」と言われ、羨ましいとか、そうでありたいとか、尊敬されるとか真似されるとかの存在感の高い国になろうとするとき、一人ひとりがどのように生きるか。それを目指す一つの模範は良寛さの生き方ではないだろうか。

 

 

 

良寛さ年譜について

 

 

良寛さの読み方や、作品の中に占める良寛さならではを掴むには、良寛さの実像を探る必要があると思われる。

 

だが、良寛さ自身、自分のことや家のこと、あるいは家族や親戚のことなどほとんど書き残していないことと、特に生存中出回った良寛伝や良寛さの作品の紹介本などに良寛さは「迷惑千万」と、もろに態度を表す ことを手紙で抗議したり、越後の儒者鈴木文臺には、著すことを直接断っているなど、今日知る私たちの良寛人物像は虚像が多く伝えられている。

 

そのような中、良寛さを知るために、先ずは年譜を整理してみたいと思い立ち、この年譜から見えてくる良寛さの実像を探ってみたいと思って書き出している。

 

おれがの「良寛さ年譜」は他に類がない『年譜』と自負している。

 

はじめは、良寛さ誕生の24年前に遡ったところから書き出した。

 

生家名主の橘屋山本家は、母おのぶの伯母おそのに子宝が授からなかった話から始めた。

 

そして良寛さに兄が居たことも触れた。

特に、1762(宝暦12)年、栄蔵(のち良寛さ) 5歳の時スタートした大而宗龍プロジェクトは、四半世紀を費やして、新潟県・富山県・山形県・栃木県・群馬県・東京都・千葉県・神奈川県・長野県・岐阜県をエリアの33会場でそれぞれ三か月間掛けて延べ1,751名の禅僧を育成し、合わせて、在家および一般人の開催64 回に参加した授戒会で述べ10,460人の檀信徒を創り出し、盤石な曹洞宗に寄与したその情報を掲載し、若き良寛さの修行と重ねた。

 

また、同プロジェクトのピリオドが打たれた1788(天明 8)年の項では、「大而宗龍和尚プロジェクト27年間の徒歩移動による所要時間試算」を掲載。

 

継父以南とは、特に平賀源内の活躍ぶりで比較してみた。

 

更に年譜は 、良寛さ歿後97年の 1928(昭和3)年まで書いた。もちろん 良寛さに関係した内容である。