良寛のすべて・良寛の世界・良寛の読み方の構成
『良寛さの軽やかな生き方と美の根源の読み方』を主題にして、
良寛さをもっと知りたいとの思いを馳せて集めたデータや情報を整理し、組み立てると以下のような構成になる。
人によってさまざまな切り口で良寛さは、これまで語られてきた。
それはそれで意義のあることであるが、表題に記したように、良寛のすべて・良寛の世界・良寛の読み方などで良寛さを読み取ろうとすれば、
以下の項目で集大成となるのであろう。
その構成を整理してみたが、出版されている文献を繙けば、こんなものでは済まないだろう。それほど良寛さは広くて高くて深いのだろう。
軽やかな生き方に、あるいは良寛美に至るまでには、実に大小強弱の課題が織りなして成り立ったと見ている。
良寛さの軽やかな生き方と美の根源を読むには、実に多大で多岐に亘る大小強弱の課題の織りなし方を繙く必要がある。
換言すれば、良寛さや良寛美を語るには、この必要性を充たしたうえででなければならないと思える。
良寛のすべて・良寛の世界・良寛の読み方などで良寛さを読み取ろうと の言わば「良寛ノート」のカテゴリー をA~Wで整理してみた。
良寛ノートのカテゴリー
この「良寛ノート」のカテゴリーは、以下のとおり。
A. 良寛讃美
. 良寛さの作品は何故、誰もがかくも 美しいと感じるか
B. 良寛さの逸話
C. 良寛さの魅力
. 良寛さはなぜ解かりにくいか
・ 良寛さが影響を受けた人やもの
. 良寛像
. 良寛さの虚像
. 良寛さの実像
. 良寛さ関連著書の「はじめに」
. 良寛さ関連著書の「あとがき」
. 良寛さという人物
D. 良寛さにおける寂味
. 良寛さの悟り
. 思想家の一面を持つ良寛さ
. 良寛さの言葉
. 良寛さの遊び心
. 良寛さの言動
. 良寛さ説法・説教
E. 良寛さの生涯
. 良寛さと交流のあった人
F. 越後出雲崎と背景
. 生家名主橘屋山本家
. 橘屋を取り巻く環境
. 良寛さんの母
. 名跡を継ぐ家長制度
. 良寛さの実父桂新次郎(誉章)
. 栄蔵の出自と誕生日
. 良寛さの継父重内新之助(以南)
. 幼少年期
・栄蔵の気質・性格
. 栄蔵・文孝の学習と教養
. 栄蔵・文孝の逸話
. 名主見習い
. 名主橘屋のもめごと
. 家系と教養
. 妹弟
. 七夕事件と友人の方を取るという選択
G. 出奔の原因
. 出奔決意までの7月17日までの
10日間の苦悶
. 出奔
. 出奔後、身を隠す
. 文孝が自ら決めた進路
. 若き文孝の求道
. 桂家と玉島円通寺
. 大忍国仙和尚
. 桂家と大忍国仙和尚
. 大而宗龍と大忍国仙和尚
. 国仙和尚と光照寺玄乗破了
. 桂家と日本で初めての図書館
. 偉業プロジェクト25年間貫いた大而宗龍と相見
. 光照寺での得度し大愚良寛さんの誕生
. 玉島円通寺へ出立
. 大乗仏教
. 仏法・仏道
. 曹洞宗の禅
. 玉島円通寺での修行
. 母の三回忌
. 大而宗龍のプロジェクトの大事業
. 印可の偈
. 第十世大忍国仙和尚示寂
. 第十一世玄透即中和尚普住
. 僧堂での修行を絶つ裏切り
. 復庵遵古が円通寺十三世となった
H. 諸方行脚・遍歴・漂泊
I. 以南隠居後、宗匠取得の俳諧行脚
. 以南の辞世
. 以南、死を調える
. 以南の入水
. 以南法要
J. 帰郷の決断
. 帰郷
. 帰郷後
K. 1797(寛政 9)年 良寛40歳( 帰郷期~晩秋 良寛、初めて五合庵に上る ) の頃
. 五合庵時代
. 奇行の数々
. 1798(寛政10)年 良寛41歳 ( 第 1期五合庵仮住まい2年目・川向こうの真木山に医を事としていた原田鵲齋の「尋良寛上人」の詩に、いつ草庵を訪ねても結跏趺坐ばかり、さながら古禅林を想わせる、と伝えている ) の頃
. 末弟の朝廷での国学者香が父と同じ桂川で客死
. 1799(寛政 11)年 良寛42歳 ( 第 1期五合庵仮住まい3年目 ) の頃
. 1800(寛政12)年 良寛43歳 ( 第 1期五合庵仮住まい4年目 ) の頃
. 1801(寛政13、享和元)年 良寛44歳 ( 第1期五合庵仮住まい5年目 ) の頃
L. 1802(享和 2)年 良寛45歳( 第 1期五合庵仮住まい6年目 ~ 5年間住み慣れた五合庵を出て、寺泊照明寺を頼り境内の真言宗密蔵院に仮住い~国上の真言宗本覚院へ仮寓 ~ 牧ヶ花の真言宗観照寺へ仮寓 ) の頃
. 転居時代
.(享和 3)年 良寛46歳 ( 牧ヶ花の観照寺仮住まい ~ 国上の真言宗本覚院へ仮寓 ~ 牧ヶ花の真言宗観照寺仮寓 ~ 7月 野積の真言宗西生寺へ仮住まい~ 国上の真言宗本覚院へ仮寓 ) の頃
. 1804(享和4、文化元)年 良寛47歳 ( 五合庵仮住まい・ 1月22日 ~ 翌年 2月まで五合庵定住 ) の頃
. 1805(文化 2)年 良寛48歳 ( 2月まで五合庵仮住まい ) の頃
. 1806(文化 3)年 良寛49歳 ( 五合庵仮住まい ) の頃
. 1807(文化 4)年 良寛50歳 ( 仮住まいの五合庵 ~ 西照寺の庵に仮寓 ) の頃
M. 1808(文化5)年 良寛51歳( (仮住まいの五合庵) ~ 西照寺の庵に仮寓 ) の頃
. 1809(文化6)年 良寛52歳 ( 第 3期五合庵仮住まい ) の頃
. 1810(文化7)年 良寛53歳 ( 第 3期五合庵仮住まい ~ 秋 牧ヶ花(国上村の大字)の観照寺庵に仮住 ) の頃
. 1811(文化8)年 良寛54歳 ( ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ) の頃
. 1812(文化 9)年 良寛55歳 ( 五合庵 ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ) の頃
.雲游すること二十年
. 1813(文化10)年 良寛56歳 ( ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ) の頃
. 1814(文化11)年 良寛57歳 ( 五合庵 ~ 冬は乙子神社側庵に下りて仮住 ) の頃
. 1815(文化12)年 良寛58歳 ( 五合庵 )の頃
N. 遍澄弟子となる
. 1816(文化13)年 良寛59歳 ( 五合庵(老朽化と朝夕の山道の登り降りが老身にこたえるようになり) ~ 冬 乙子神社境内の社務所に移り住む。以来、誰いうこともなく乙子神社草庵と呼ぶようになった ) の頃
. 仏法創造の開眼
. 乙子神社社務所時代
. 活発化した創作活動
. 1817(文化14)年 良寛60歳 ( 乙子神社境内の社務所 2年目 ) の頃
. 1818(文化15 文政元)年 良寛61歳 ( 乙子神社境内の社務所 3年目 ) の頃
. 1819(文政2)年 良寛62歳 ( 乙子神社境内の社務所 4年目 ) の頃
. 1820(文政3)年 良寛63歳 ( 乙子神社境内の社務所 5年目 ) の頃
. 1821(文政4)年 良寛64歳 ( 乙子神社境内の社務所 6年目 ) の頃
. 1822(文政5)年 良寛65歳 ( 乙子神社境内の社務所 7年目 ) の頃
. 1823(文政6)年 良寛66歳 ( 乙子神社境内の社務所 8年目 ) の頃
. 1824(文政7)年 良寛67歳 ( 乙子神社境内の社務所 9年目 ) の頃
. 1825(文政8)年 良寛68歳 ( 乙子神社境内の社務所 10年目 ) の頃
. 1826(文政9)年 良寛69歳 ( 乙子神社境内の社務所 11年目 ~ 島崎村の能登屋木村家屋敷内の庵に移り住む ) の頃
. 木村家時代
O. 貞心尼との出会い
. 1827(文政10)年 良寛70歳 ( 一時、地蔵堂に住む ~ 木村家屋敷内の庵 2年目 ) の頃
. 1828(文政11)年 良寛71歳 ( 3月 寺泊町の照明寺境内の密蔵院に仮住 ~ 木村家屋敷内の庵 3年目 ) の頃
. 1829(文政12)年 良寛72歳 ( 木村家屋敷内の庵 4年目 ) の頃
. 1830(文政13、天保元年)年 良寛73歳 ( 木村家屋敷内の庵 5年目 ) の頃
. 1831(天保2)年 良寛74歳 ( 木村家屋敷内の庵 6年目 ) の頃
. 良寛さの生前に、良寛さを世に知らせた人々
. 良寛さ歿
P. 良寛さの作品
. 良寛さの歌とその評釈
. 良寛さの旋頭歌とその評釈
. 良寛さの長歌・狂歌・俗謡・戯歌とその評釈
. 良寛さの俳句とその評釈
. 良寛さの詩とその評釈
. 良寛さの讃とその評釈
. 良寛さの文学の理念
. 良寛さの「表現」
. 良寛さの文法
. 良寛さの書とその評釈
. 良寛美
. 良寛さにおける美の感性
. 日本的霊性と美
. 良寛さの芸術
. 今ここに、良寛さが後世のすべての人に遺してくれたもの
. 良寛さの有形の形見
. 良寛さの無形の形見
Q. 良寛さの歿直後に、良寛さの作品を世間に紹介した人々
. 1835(天保6)年 貞心尼(40歳)、『蓮の露』筆写なる。良寛歿後 4年
. 貞心尼との贈答歌と『蓮(はちす)の露』
. その後、良寛さを世に知らせた人々
(本編のクロージングテーマ )
R 良寛さの読み方
S. 良寛さ年譜
T. 信頼度の高い参考文献・関係文献
U. 良寛関係用語概説
V. 良寛さについての研究家たち
W. 良寛さの基礎研究の重要性
以上をカテゴリーとしてテーマ項目を細分化すると、次の「目次」となる。
良寛ノート目次
A-05 良寛讃美
A-05-01 良寛さをこよなく思慕 ・ 敬慕する人びとと、それぞれの賛辞集
A-05-02 良寛さの作品は何故、かくも誰もが美しいと感じるか
B-01 良寛さの逸話
B-01-01 良寛さの470に及ぶ逸話をどう見るか
おびただしい数の良寛さの逸話
B-01-02 妙好人との比較にみる良寛さ
内向的 ・ 非社会的性格であった良寛さが、妙好人のような逸話と作品によって解放された
B-01-03 良寛さは奇僧か聖僧か
B-01-04 逸話の虚実
B-01-05 良寛さの逸話
良寛さの逸話 『吉田町・染戸家で紛失した当座帳を復元』
良寛さの逸話 『弟由之が紛失した過去帳を復元』
C-01 良寛さの魅力
C-01-01 思慕・尊敬する人の数が半端でない魅力の根源
C-01-02 多くの人を心から感動させる良寛さんの魅力
C-01-03 良寛さはなぜかくも優しいのか
優しさの根源
気質・性格による優しさ
知性による優しさ
禅修行による優しさ
徳性による優しさ
霊性による優しさ
C-01-04 羞恥の人
C-01-05 癡愚の人
C-01-06 愁いの人
語らざれば憂いなきに似たり
愁いの人は、己の中の真実に出逢う
C-01-07 孤独の人
胸を引き裂く孤独感
C-01-08 寡黙の人
C-01-09 優游
C-01-10 宗祖良寛さん
良寛さ研究者の多くが、良寛さを宗祖として崇めている
C-02 良寛さはなぜ解かりにくいか
C-02-01 謎が多い
良寛さは寡黙であったし、日記もないから、謎が極めて多い
良寛さの謎の数々
謎の人・解かりにくい人
C-02-02 良寛さの寡黙
真相は終始黙して語らず
語りたくない向きもある
C-02-03 記録や随筆などがない
良寛さは残したものに年号を一切記入せず月日を殊更大きくした謎
C-02-04 利害得失・是非善悪など二元対立問題の矛盾
『人間の是非は一夢の中』
C-02-05 仏法に起因
C-02-06 禅機を帯びているから
騰騰・優游・蕭灑
騰々任運
騰々の人生
騰々任運の境地に達する
任運騰々と他力
任せると任す
苦より任に至る過程
空観から任の心へ
信人任
騰々、天眞に任す
良寛さの「天眞に任す」・「任天眞」
雙脚等閒に伸ばす
捨てる
「髪を剃り、また髪を剃る」
C-02-07 紹介本の過ち
C-02-08 良寛さは弟子遍澄と貞心尼に代弁を促した
C-02-09 貞心尼から蔵雲和尚への書簡の意味するところ
C-02-10 以南は「ひそかに高野山に上られしちふ説もありしと也」の意味するところ
C-03 良寛さが影響を受けた人やもの
C-03-01 『秋萩帖』の影響
C-03-02 俗名:きし(維馨尼)の影響
C-03-03 王義之の影響
C-03-04 大森子陽の影響
C-03-05 小野道風の影響
C-03-06 懐素『自叙帖』の影響
C-03-07 『寒山詩』の影響
C-03-08 義提尼の歌の教えの影響
C-03-09 玄乗破了の影響
C-03-10 玄透即中の影響
C-03-11 弘智法印の影響
C-03-12 『古今和歌集』の影響
C-03-13 西行法師の歌『山家集』の影響
C-03-14 『三字経』の影響
C-03-15 釈迦の教えの影響
C-03-16 『十三経』の影響
C-03-17 『修証義』の影響
C-03-18 『小学』の影響
C-03-19 『正法眼蔵』の影響
C-03-20 仙桂和尚の影響
C-03-21 『荘子』の影響
C-03-22 曹洞禅の影響
C-03-23 尊円法親王『梁園客法帖』の影響
C-03-24 大而宗龍禅師の影響
C-03-25 大忍国仙和尚の影響
C-03-26 貞心尼との歌の贈答の影響
C-03-27 『伝光録』の影響
C-03-28 道教の影響
C-03-29 道元禅師の教えの影響
C-03-30 『唐詩選』の影響
C-03-31 陶淵明の影響
C-03-32 東岫有願和尚の影響
C-03-33 『修証義』の影響
C-03-34 念仏「南無阿弥陀仏」の思想の影響
C-03-35 『般若心経』の影響
C-03-36 復庵遵遵古和尚の影響
C-03-37 『法華経』の影響
C-03-38 『万葉集略解』の影響
C-03-39 『大和物語』の影響
C-03-40 『老荘』の影響
良寛さと老荘
道元の禅から老荘へ脱化する
C-03-41 『論語』の影響
C-04 良寛像
C-04-01 良寛さは深淵を抱いていた人
C-04-02 良寛さの自画像
良寛さの自画像は6点ある
C-04-03 良寛さの肖像画
良寛さの自画像6点とは別に肖像画がある
C-04-04 鈴木文臺が描いた良寛像
鈴木文臺が良寛さ歿後写本を広めた『草堂集』の序文で「全く世俗を超越し、ものにこだわらなぬ聖なる人物だ」と、高く評価した
C-04-05 相馬御風が描いた良寛像
C-04-06 心で描く良寛像
C-04-07 良寛さの「誠」
即身是仏への誠
C-04-08 日本人の読む空気と良寛さ
C-04-09 良寛さが醸し出す美の幻像と原像
C- 05 良寛さの虚像
§ 補足:
良寛さについて私たちが知っている一般的な知識の中に、ファクト(事実)ではなく、フィクション(作り事)が幾つもある。原因は、儒者などが都合よく道徳の教材にした。良寛さんのことを書籍などで伝える表現者の表現力が稚拙によるものもあったろう。良寛さの特に仏法上の本質が掴めていないまま鵜呑みにして書籍などで表現している者が居ることも、その著作を丸呑みして、事実確認を怠ったままさらに公刊を重ねていることも。また、良寛さ自身の沈黙によるものも手伝っていると思われる。
C- 05-01 地元儒者による道徳教材としての良寛伝
C- 05-02 伝記作家による虚構の作品
C- 05-03 仏法を理解できない詩歌専門家による詩歌の評論
C- 05-04 小説家による伝記
C- 05-05 虚構・虚像を真に受けての私をふくめての浅学の者の評価
C- 05-06 書や詩の贋作者と販売者
C- 06 良寛さの実像
C- 06-01 良寛さの実像
飛び抜けた知性の言動
良寛さのボキャブラリーの超豊富さ
語らない
語らない替りの意思表現
徳性の人
霊性の言動
C- 07 良寛さ関連著書の「はじめに」
C- 08 良寛さ関連著書の「あとがき」
C- 09 良寛さという人物
C- 09-01 素直で優しい人
C- 09-02 いきとしいけるものすべてを愛した良寛さ
C- 09-03 慈愛の人
C- 09-04 言葉を殊更大切にしている人
C- 09-05 人間の原初を生きた人
C- 09-06 漂泊の人
C- 09-07 愁(うれ)いの人
C- 09-08 詩歌と書に長けた人は多くいるが、良寛さは何故とてつもなく高いのか
C- 09-09 最も日本人らしい日本人
C- 09-10 大智の人
C- 09-11 大悲の人
C- 09-12 彼こそは永遠の人
C- 09-13 我朝仏学の薀奥(うんのう)を究めるもの空海以下ただ此の人あるのみ
C- 09-14 永平高祖(永平道元)以来の巨匠なり
C- 09-15 人間良寛
良寛さの人間形成
良寛さの到達点
良寛さの謹書 『身の上に 如何なる悪しき事ありとも 人を恨むまじ 真心さえ有るならば 遂には神仏も見なほし給ひなん』
人間良寛さの完成
女性から敬慕される人間味
D-01 良寛さにおける悟境
D-01 良寛さの寂味
D-01-01 天地の寂味と生の寂味に徹した良寛さ
D-02 良寛さの悟り
D-02-01 良寛さはたびたび悟りを繰り返している
D-02-02 良寛さの解脱
D-02-03 良寛さの開眼
D-02-04 良寛さの悟り・悟達
D-02-05 良寛さの悟境
D-02-06 道元の思想と実践の核心 観無常
菩提心(さとりに生きる真実のあり方)
D-02-07 悟りと念仏
D-02-08 迷いだの悟りだのという分別くさいことを問題にするのはもうあきた
D-02-09 衣裡の珠
D-03 思想家の一面を持つ良寛さ
D-03-01 良寛さの思想
良寛さの禅思想
人生無常・世間無常
良寛さの無常観
人間愛と厳しさと
本当の豊かさ
D-04 良寛さの言葉
D-04-01 禅における言語表現の問題
D-04-02 良寛さの『ことば』
良寛さ 清貧生きる言葉
D-04-03 良寛さにおいて言葉のもつ意味
言葉は、どこまで真実であり得るか
D-04-04 言葉と存在とのつながり
D-04-05 言葉と沈黙
D-04-06 「言葉をしみじみといふべし」
D-04-07 言葉の布施
D-04-09 「道ふ」
D-04-10 「くさき」と「めきたる」
D-04-11 良寛さの『戒語』
言葉の功徳
『戒語』九十ヶ條
D-04-12 良寛さにおける『愛語』
D-05 良寛さの遊び心
D-05-01 良寛さの遊びの精神
どのような気持ちで子供と遊んだか
良寛さにおける遊び
島木赤彦の童謡と良寛さ
赤彦の童心論
童心と教育論
D-06 良寛さの言動
D-06-01 良寛さの行動
D-07 良寛さの説法・説教
D-07-01 良寛さの説法
甥の馬之助折檻の涙
D-07-02 良寛さの説教
叔門の長男宛良寛さの忠告の手紙
E- 01 良寛さの生涯
E- 02 良寛さと交流のあった人
E- 02-01 親兄弟
曾祖父山本左門良胤 祖父山本新左衛門 母おのぶ 実父桂誉章 継父以南 兄ともたか6歳で夭折(知空童子) 妹長女むら子 弟二男山本由之 弟(三男)山本富蔵・夭折(理空童子) 弟三男山本宥澄 妹二女たか 弟四男山本香 妹(三女)智光童子 妹三女みか 妻歓(よし)離婚の説がある
E- 02-02 親戚・姻戚縁者
新木小自在 伊藤五兵衛 おゆう およい 覚賢和尚 桂東吾 桂東起子 小林正左衞門 島伊右衛門 高島久末 里う しか 実善和尚 渋谷酒左衛門 真教和尚 蓮正寺住職真教の妻スヨ 外山津多 曽根智現 てふ 富川伊右衛門 外山乙五郎 外山津多 外山文左衛門 外山弥惣右衛門 中川都良 中川蘭甫 中村権右衛門 本寿 弟由之妻やす子 五代目山田権左衛門修富(七彦) ゆう 山田重記 山本泰世 履善和尚
E- 02-03 竹馬の友・学友
維馨尼(いきように幼名:おきし) 出雲崎の俳人・七星 橘彦山 玉木礼吉 富取之則 富取翼夫 鳥井長兵衛 原田鵲齋(有則) 紅屋治五郎 松山大年 三輪左一(市) 山田杜皐(以南筋の遠い親戚でもある)
E- 02-04 子どものとき世話になった人
中村旧左衛門 中村リサ
E- 02-05 帰郷以前の知人
蘭谷万秀 玄乗破了 大而宗龍 国仙和尚 仙桂和尚 玄透即中和尚 近藤萬丈
E- 02-06 帰郷後の知人
青木八郎右衛門 青柳清作 安達一久 阿部千勢 阿部定緝 阿部定珍 阿部とい 阿部ます 阿部ワカ 新木与五右衛門勝富 新木与五右衛門富竹 新木与五右衛門富春 井伊直経 五十嵐華亭 五十嵐多仲 池田兵左衛門 石原半助 市島長民 井上桐麿呂 巌田洲尾 上杉篤興 梅沢門兵衛 遠藤きく 遠藤幸助 扇屋重兵衛 大越門平 太田錦城 大里伝兵衛 大関文仲 太田芝山 大谷地五右衛門 大村光枝 大森求古 大森子陽 大矢六郎左衛門 小川霞山(武田霞山、橘茂孝) 小黒小兵衛 小越仲珉 おとき 海津間兵衛 景山和尚 菓子屋の三十郎 龜田鵬齋 柄沢栄清 河井秋紀 観国和尚 観励和尚 義諦 義提尼 木村いよ 木村おかの 木村周蔵 木村利蔵 木村元右衛門 豆腐屋の九之助 久住小兵衛 久須美七左衞門 桑原祐雪 桑原祐順 解良喜右衛門 解良義平太 解良熊之助 解良叔問 解良新八郎 解良栄 解良孫右衛門 解良たみ 曹洞宗徳昌寺二十七世活眼大機和尚 小黒大忍 小玉理兵衛 小林与三兵衛(一枝) 虎班和尚 近山五右衛門 船頭の権三 西海土庄左衛門 斎藤源右衛門 斎藤清内 斎藤忠蔵 酒井角左衛門 坂口文仲 笹川彦山 佐藤吉郎右衛門 佐藤佐平次 佐藤三郎右衛門 佐藤寅次 佐藤仁左衛門 旧寺泊町野積・荒谷の左之助 国上村の祥二 旧寺泊町蛇塚の僧・証聴 神保杏村 神保 宣 鈴木相軒 鈴木桐軒 鈴木文臺 鈴木牧之 関川万輔(助) 旧寺泊町の医師宗庵 杣木勘助 僧大宣 高嶋常右衛門 竹内源右衛門 多治右衛門 田瀬甚左衛門 橘崑崙 玉木勝良 狂僧智海 近山五左衛門 智定尼 島崎の床屋長造 ちりきや由右衛門 貞心尼 貞室尼 天華上人 旧分水町牧ヶ花の医師藤江 富川大塊 富取庫之丞 富取長太夫 富取芳齋 富取北川 富取北川の妻 富取正誠 外山茂右衛門 鳥井直右衛門 内藤鐘山 村上藩主内藤信敦 内藤方廬 内藤久武(久敬か) 長岡関左衛門 中川立生 中村おむろ 中原久譲 南波茂左衛門 馬喰家の婆さん 馬場又吉 坡丈和尚 原田正貞 原田政吉 早川九二 早川樵巴 早川甚五衛門 半僧 半兵衛 盲目の文人・鄙一 平右衛門 平田弥兵衛 平原治郎兵衛 広瀬六右衛門 藤沢一齋郎(一齋) 兵蔵 茶屋の平八 藤井平左衛門(定清) 星彦右衛門 堀越与兵衛 本間源左衛門 本間三郎兵衛 長岡藩第九代藩主牧野忠精 丸山彦礼 溝口乙助 宮川禄齋 三浦屋幸助 村上藩士三条代官所録事三宅相馬 妙喜尼 三輪九郎右衛門 三輪権平 三輪権兵衛 三輪多仲長旧 酒造業むらまつ屋 本宮権左衞門 本宮伴六 森山老 燕長辰(長崎の)八十吉 八十八 山賀覚兵衛 山岸楽斎 山崎六右衛門 山田うめ 山田およし 山田権右衛門 山田権左衛門 山田善平 山本仁左衞門 柳下元左衛門 大工作太夫の妻ゆり 庸右衛門 吉野源右衛門 米沢屋宇平治 団子茶屋利右衛門 照明寺第十三世良恕上人 涌井金吾 渡辺常八
計202名
E- 02-07 道友
E- 02-08 幼馴染で法弟の庇護者で、そして道友の三輪左一
E- 02-09 道友の有願は良寛さの師でもあった
E- 02-10 道友・禅僧で23歳年下の大忍魯仙(了然古道人)
E- 02-11 道友・真言宗隆全和尚
F- 01 越後出雲崎と背景
F- 02 生家名主橘屋山本家
F- 02-01 橘屋の由来
F- 02-02 出雲崎の名主
F- 02-03 石井神社の神官
F- 03 橘屋を取り巻く環境
F- 03-01 時代的な背景
F- 03-02 佐渡の金山
F- 03-03 漁船と北前船
F- 03-04 代官所
F- 03-05 隣町尼瀬の名主・京屋
F- 03-06 出雲崎の町年寄り
F- 04 名跡を継ぐ家制度
F- 04-01 名跡の条件
F- 04-02 名跡を継ぐ手続き
F- 04-03 母おのぶの伯母「おその」の存在
F- 05 良寛さの母
F- 05-01 母おのぶ
F- 06 良寛さの父桂新次郎(誉章)
F- 06-01 二人の父親説の謎
F- 07 栄蔵の出自と誕生日
F- 07-01 なぜ出自が、良寛さの生涯を決定づけたか
F- 07-02 出生は宝暦4年か8年かの謎
F- 08 良寛さの父重内新之助以南
F- 09 幼少年期
F- 09-01 字(あざな)曲(まがり)の謎
F- 10 栄蔵の気質・性格
F- 10-01 栄蔵の気質・性格
F- 10-02 良寛さの「三嫌」
F- 10-03 良寛さの孤拙
F- 10-04 良寛さの逸話に見られる奇行との関係性
F- 11 栄蔵・文孝の学習と教養
F- 11-01 栄蔵が学んだ漢学・十三経
F- 11-02 儒教が栄蔵・文孝に及ぼした影響の謎
F- 11-03 道教が良寛さに及ぼした影響の謎
F- 11-04 橘屋の蔵書
F- 11-05 栄蔵・文孝が学んだ和歌・俳句
F- 12 栄蔵・文孝の逸話
F- 13 名主見習い
F- 13-01 名主見習い期間
新之助(以南)の名主見習い期間
文孝の名主見習い期間
弟由之の名主見習い期間
甥馬之助の名主見習い期間
F- 14 名主橘屋のもめごと
F- 15 家系と教養
F- 15-01 以南の教養
F- 16 妹弟
F- 16-01 妹弟と両親
F- 16-02 妹弟と良寛さ
妹弟のことを多く語らなかった謎
F- 17 七夕事件と友人の方を取るという選択
G-01 出奔の原因
G-01-01 出奔の原因
G-01-02 名主見習いの失敗
G-01-03 きし(維馨尼)との恋
甘酸っぱい、きし(維馨尼)との恋の謎
貞心尼との恋の違い
G-01-04 結婚を失敗し子供を失った
離婚の謎
娘が居た謎
G-01-05 処刑の立ち会いに堪えられなかった
処刑立ち会いの謎
獄門場跡
G-01-06 七夕事件
G-01-07 財物的豊かさで文化面に傾注し本業を置き去りにした弱みを、権力で抑え込んで解決を図ろうとすることにたいする嫌悪感
G-01-08 以南との確執
G-01-09 幼少期と家を飛び出すまでのこと
G-02 出奔決意までの7月17日までの10日間
G-02-01 家を飛び出す影響
G-02-02 家を飛び出すけじめ
G-02-03 出奔の決意と行動を起こす前の10日間の苦悶
G-03 出奔
G-03-01 弟由之への置手紙「家を譲る、僧侶で大成するまで故郷に戻らぬ、それまでは便りをしない」
G-03-02 出奔決行
出奔の謎
G-03-03 文孝(ぶんこう)の失踪
G-03-04 文孝の身を隠した場所
G-03-05 失踪にともなう代官所への届け出
G-03-06 以南が文孝を探した場所と以南の体面
G-04 出奔後
G-04-01 光照寺で剃髪説
光照寺での空白の四年間の謎
剃髪の謎
G-04-02 光照寺十一世蘭谷万秀(らんこくばんしゅう)
G-04-03 光照寺第十二世玄乗破了
G-04-04 良寛さの禅僧見習いの4年間は光照寺だったか
G-04-005 放浪説
G-04-06 文孝の立ち寄り寄宿先
G-04-07 第1次自分探しと根源的テーマ: 生きるテーマと生き方
自分探しの作業
生きるテーマと生き方
良寛さ、18歳から自分探しの32年間
40歳代の野僧良寛さんは、自分探し32年間の集大成として何を思索し苦悩して解脱したか
発見した自分探しの切り口
G-04-08 放浪中に学んだこと
G-04-09 桂誉章の蔵書
G-05 文孝が自ら決めた進路
G-05-01 なぜ文孝は進路を僧侶に求めたか
G-05-02 なぜ禅宗であったか
G-05-03 なぜ曹洞宗であったか
G-05-04 なぜ師に大忍国仙和尚と決めたか
G-06 若き文孝の求道
G-06-01 少青年期における真理の探究テーマをがむしゃらに希求
G-07 桂家と玉島円通寺
G-07-01 桂家屋敷に玉島円通寺に真似て円通閣という観音堂を造っていた実父桂誉章
G-07-02 円通寺内の境内社の秋葉神社をも屋敷内に建立していた桂誉章
G-07-03 円通閣という観音堂を造ったことと大忍国仙の来越は深く関わっていた
-07-04 四代目桂誉章は、北越にあって大忍国仙和尚の教化を直接受けていた
G-08 大忍国仙和尚
G-08-01 大忍国仙和尚
G-08-02 国仙の人生哲学
G-08-03 深い人間味の名僧
G-08-04 大忍国仙和尚の業績
G-08-05 大忍国仙和尚の遺偈
G-09 桂家と大忍国仙和尚
G-10 大而宗龍
G-10-01 良寛さんが尊敬した大而宗龍という高僧
G-10-02 和尚の位を捨てて隠居し野僧で活動を続けた大而宗龍
G-10-03 やさしい人間性の持ち主大而宗龍の鋭さ
G-10-04 大而宗龍の示唆するもの
G-10-05 遺偈に見る民衆と生きた大而宗龍
G-10-06 大而宗龍と大忍国仙和尚との関係
G -11 国仙和尚と光照寺玄乗破了
G -12 桂家と日本で初めての図書館
G-12-01 桂誉章は、日本で初めての図書館も造った
G-13 大而宗龍と相見
G-13-01 第2次自分探しと根源的テーマ
G-13-02 初めて見せた能動的な行動
G-13-03 大而宗龍と相見
良寛さは、いつ、どこから通かよって大而宗龍に相見(しょうけん)したかの検証
G-13-04 宗龍と禅問答
G-13-05 宗龍に弟子入り志願か
G-13-06 宗龍のはからいで大忍国仙大和尚か
G -14 光照寺で得度し、大愚良寛の誕生
G-14-01 修行見習い中・了寛
G-14-02 道号・大愚
G-14-03 法号・良寛
G-14-04 出家して沙門となる
G -15 玉島円通寺へ出立
G-15-01 母との永訣の「蛇崩れの丘」にて手を挙げて城闉(じょういん)に謝す大愚良寛
G -16 大乗仏教
-16-01 大乗仏教
-16-02 中国色のほとんどない日本が創造した日本的仏教の成立
-16-03 諸行無常
-16-04 諸法無我
-16-05 涅槃寂静
-16-06 四諦(したい=四つの真理 - 苦諦・集諦・滅諦・道諦)
-16-07 維摩経(ゆいまきょう)
-16-08 不二の法門(ふじのほうもん)
-16-09 空(くう)
-16-10 無心(むしん)
-16-11 禅
-16-12 仏法僧
G -17 仏法・仏道
-17-01 仏法
仏法
法(のり)のためにこぼす涙
-17-02 仏法を学ぶ
良寛さんの仏法・仏道・禅学
良寛さの漢詩や和歌に見られる禅思想、仏教思想の断片的な表現をどのように読み取るか
G -18 般若心経
-18-01 般若波羅密多
-18-02 呪陀羅尼(じゅだらに)
-18-03 発菩提心(はつぼだいしん)
G -19 法華経
-19-01 良寛さと法華経
良寛さの法華経観
良寛さの原点としての法華経
法華に生きる良寛さ
『法華経』に関する良寛さの書簡
『非人八助』の詩
-19-02 法華転と法華讃
「法華讃」に見え隠れする女人の影
G -20 曹洞宗の禅
-20-01 曹洞宗における代表的な宗典
正法眼蔵
「発菩提心」の巻の中にある「自分が悟りを得て救われる前に、まず他の人びとが救われるようにするという菩薩の行」の実践
『正法眼蔵』に見る生死一如の世界
『正法眼蔵』における『法華転法華』の意味
伝光録
修証義
般若心経
法華経観世音菩薩普門品偈
常不軽菩薩
良寛さと『常不軽菩薩品』
菩薩の本願「他者のために尽くさんとする」
懺悔文
開経偈
大悲心陀羅尼
普回向五観の偈
-20-02 道元禅
『法華転』、『法華讃』における道元禅受容
『法華転』、『法華讃』における道元禅の展開
-20-03 良寛さが読破した正法眼蔵と現在の正法眼蔵
-20-04 道元禅における「只管打坐(しかんたざ)」
-20-05 道元禅における「捨」
-20-06 道元禅における「離」
-20-07 道元禅における「任」
-20-08 道元禅における「轉」
-20-09 道元の利他度生
-20-10 名利の塵
-20-11 生死(しょうじ)
生死
親にみる生死の学び
良寛さんにみる生死の学び
良寛さん ‐ その死の一点
-20-12 道得
「而今の山水は古仏の道現成なり」
-20-13 道元禅の修行僧のルール
-20-14 僧堂伽藍の集団
-20-15 金沢大乗寺の月舟宋胡・卍山道白の法系を継ぐ円通寺開山德翁良高和尚の流れ
G -21 玉島円通寺での修行
-21-01 表日本・瀬戸内海の備中(岡山)玉島の円通寺
-21-02 備中(岡山)玉島の円通寺縁起
-21-03 法系と黄檗禅(おうばくぜん)
-21-04 13年間修行の黄檗禅
黄檗禅が良寛さんに及ぼした影響
-21-05 法系略図
-21-06 曹洞宗修行僧に課せられたルール
-21-07 食う寝る座るの僧堂伽藍での30人共同暮らし
-21-08 道元の教え・曹洞宗の教え
-21-09 曹洞宗における修行
-21-10 曹洞宗の結制安居
作務(さむ)
開枕、消灯、就寝
雲水としての日常(衣食住)と作法
座禅/ 只管打坐(しかんたざ)
勤行(おつとめ)
講座と法話
講義: 儀礼についての〔参禅の仕方・ルールの徹底〕
講座: 「正法眼蔵」
講座: 「般若心経」
講座: 首座法座
講座: 立身(首座法戦式)
読経: 真読(しんどく)
-21-11 曹洞宗の法階について
-21-12 立身出世について
-21-13 出世するコースのレールについて
-21-14 良寛さにおける曹洞黄檗念仏禅
-21-15 良寛さにおける南無阿弥陀仏
-21-16 衝天の士気の日々
ほとんどど寝食を忘れ衝天の士気で探究した禅で解決するテーマの数々
大忍国仙大和尚画像に「吾こそは大日本国国仙の真嗣良寛」の讃。この嬉々としたさま
-21-17 仙桂和尚の修行スタイル
-21-18 円通寺内における孤独
-21-19 第3次自分探しと根源的テーマ: 目指した禅僧としての求道
求道の人良寛さ
-21-20 曹洞宗の授戒会
G -22 母の三回忌
-22-01 母の死
母の訃報
母の死
-22-02 母の法要
母の三七日法要
母の四十九日法要
母の三回忌法要参列
母の七回忌法要
G -23 大而宗龍のプロジェクトの偉業
-23-01 大而宗龍の33回の結制安居と64回の授戒会開催27年間の軌跡
良寛さんが敬愛して止まない大而宗龍の快挙プロジェクト
-23-02 良寛さも仙桂和尚もこの結制安居に参じた
大而宗龍和尚の示唆
-23-03 第4次自分探しと根源的テーマ: 人としてどうあるべきか。僧侶としてどうあるべきかの良寛さの探求
大而宗龍和尚についての記述がほとんどないことの謎
良寛さは大而宗龍のプロジェクト同様の作業は不得手
G -24 印可の偈
G -24-01 修行13年後一等首座の位を授かる
G -24-02 円通寺内の庵主となる
G -24-03 同輩の義提尼(ぎていに)
G -25 第十世大忍国仙和尚示寂
G -26 第十一世玄透即中和尚普住
G -26-01 永平大清規への復古
G -26-02 円通寺清規
G -26-03 玄透即中との確執
G -26-04 玄透即中の厭迫の有無の謎
G -27 僧堂での修行を絶つ裏切り
G -27-01 形式主義を絶望的に嘆き、宗門の腐敗を激しく糾弾する
G -27-02 改めて永平大清規への古規復古運動と黄檗念仏禅の是非を問う
G -27-03 名僧知識にはならないと悟り、宗門での出世の道を捨てる
G -27-04 出世を諦め、清規を拒み、法継を絶ち、集団での修行を断ち、曹洞宗の寺を捨てた
G -27-05 生涯の転機とも言える、僧伽修行と法嗣との永訣という選択
道元の仏法僧の教えを放棄した良寛さ
G -27-06 曹洞宗の教えに反する行為
僧伽修行を捨て、法継を絶って祖師道元の意志を裏切った謎
G -27-07 越州沙門良寛さの懶(ものう)し
G -27-08 されど尚も求道の人良寛さは、自分探しを続ける
G -28 復庵遵古が円通寺十三世となった
H-01 諸方行脚・遍歴・漂泊
H-01-01 諸方行脚・遍参の謎
H-01-02 同輩の義提尼から歌づくりを教わるか
祖師道元の詩歌否定の意志を裏切った謎
H-01-03 行脚・遍歴における孤独
禅僧・僧侶を終始捨てなかった謎
ひとりで生きる道
H-01-04 了寛さ5ヶ年の諸国遍参の足跡
H-01-05 総本山永平寺に行かなかった謎
H-01-06 加賀の大乗寺に行かなかった謎
H-01-07 行脚中の自問自答の謎
H-01-08 良寛さにおける『荘子』の影響の謎
H-01-09 五合庵に落ち着くまでの間、歌はいつどこで修得したかの謎
H-01-10 国学者や思想家・教育家とならずに野僧に甘んじた謎
H-01-11 時代変遷の潮流を顕著に語らなかった謎
H-01-12 第5次自分探しと根源的テーマ: 野僧の生き方
H-01-13 諸方行脚・遍歴・漂泊を取りやめた謎
I-01 以南隠居後、宗匠取得の俳諧行脚
I-01-01 以南隠居後
I-01-02 以南、俳諧行脚
以南失跡の謎
以南と東北奥の細道の5年間
I-01-03 以南、師・暁台を頼って京へ行く
I-01-04 師・暁台の死
I-01-05 兄弟子・井上士朗を頼る
I-01-06 小林一茶との接触
I-01-07 以南認められず独吟に甘んじる
I-01-08 以南の限界と挫折
I-01-09 還暦を迎えて他郷での孤独
I-01-10 流浪・漂流の以南、長子を案じる
I-01-11 以南脚気を患う
I-01-12 以南、九州長崎に良寛を追う
I-01-13 なぜ良寛さは長崎に行ったのかの謎
I-01-14 脚気で帰郷ままならず
I-01-15 以南の頼り
I-01-16 以南の限界
I-01-17 以南の願いはただ一つ
I-01-18 以南死をほのめかす
I-01-19 妹弟が進んだそれぞれの道
長子 良寛さ 38歳 雲水野僧の諸方行脚・遍歴・漂泊5年目
長女 むら子 36歳 寺泊回船問屋外山文左衛門に嫁ぐ
二男 由之 34歳 名主橘屋山本家の当主。文法書を著す国学者。旅行記の和歌本著す歌人
三男 宥澄 29歳 山本家菩提寺真言宗円明院第十世住職
二女 たか 27歳 出雲崎の町年寄高島伊八郎に嫁ぐ
四男 香 25歳 禁中の学師菅原長親の勧学館塾頭。京都御所(朝廷)内での国文学者。歌集も詠む
三女 みか 19歳 出雲崎羽黒の浄土真宗浄玄寺曽根智現に嫁ぎ、のち尼僧
I-01-20 父入水の謎
I-02 以南の辞世
I-02-01 『天真仏』と「天真仏の仰せ」の謎
I-02-02 「天真仏の仰ニよりて 以南を桂川の流れニ捨つる」の前書きでの歌一首と俳句二句は、対であった。勝負を賭けた目的は二つだった。一つは以南のけじめ
I-03 以南、死を調える
I-03-01 以南の死を調える
基本コンセプト「天真仏」の設定
入水の現場に桂川を選ぶ
なぜ桂川であったか
俳句三大巨匠の一人小林一茶へ『株番』での告知を働きかける
長子良寛さの京・桂川へ引き寄せ
以南辞世の歌句を遺書として良寛さへ手渡す
上洛した遺児達によって父以南の二十一日目の法要追善法会をおこなう
出雲崎の円明院で、七七忌(四九日法要)をおこない、歌句を詠む
同郷の俳人や名古屋や京の俳人が参集し法要が営まれ、追善句会を盛大に興行
七七忌で詠んだ良寛さの句を含む追善句集『天真仏』の上梓
小林一茶の『株番』上梓
以南自殺の意味付け
I-03-02 以南自殺の告知原稿作成
I-04 以南の入水
I-04-01 以南とは会わない。帰郷しないのこだわり
以南上洛を知りながら以南との確執のこだわりは続いていた良寛さ
I-04-02 最後まで解決できなかった父子確執
I-04-03 その年、良寛さが5年間の行脚を止めて帰郷した理由
I-04-04 僧侶として大成するまで帰らないと誓った良寛さがなぜ方針を変えたのか
I-05 以南法要
I-05-01 三七日法要での良寛さの歌
I-05-02 四十九日法要での良寛さの句と歌
I-05-03 辞世の歌句と良寛さの句歌対比で読めること
I-05-04 辞世で先ずは以南を赦した
J-01 帰郷の決断
J-01-01 以南入水と帰郷は密接な関係性があった
J-01-02 帰郷決断の決め手
天真仏の仰せの解読で良寛さの帰郷が決断された
J-01-03 第6次自分探しと根源的テーマ: 染め色の訪れ
J-02 帰郷
J-02-01 帰路、善光寺に立ち寄った理由
曹洞禅の清算
J-02-02 求道の人良寛さは、自分探しを尚も続ける
J-02-03 帰路
J-03 帰郷後
J-03-01 生家には立ち寄らなかった謎
J-03-02 ふるさと越州に帰って来て、塩焚き小屋に仮住まい半年間の元名主見習いの了寛さ
J-03-03 なぜ拠点を曹洞宗の寺にしなかったかの謎
J-03-04 もはや宗派にこだわらない道僧の良寛さ
J-03-05 帰郷後における孤独な野僧
J-03-06 野僧暮らしの困窮の実際とあるべき生き方模索の謎
J-03-07 第7次自分探しと根源的テーマ: 野僧の大成
J-03-08 帰郷後交流のあった人々
K-01 1797(寛政 9)年 良寛40歳 ( 帰郷期~晩秋 良寛、初めて五合庵に上る ) の頃
K-02 五合庵時代
K-02-01 若いころから憧憬した修行の山へこもるこだわりの良寛さ
山にこもり、独居して自然に触れ、寒山拾得のような暮らしの憧れ
山にこもっての求道で、自分探し
K-02-02 五合庵を斡旋してくれた友人
K-02-03 五合庵縁起
K-02-04 前期: 第8次自分探しと根源的テーマおよび使命
思想家とならずに野僧に甘んじた良寛さ
K-02-05 五合庵での隠遁による面壁10年の修行
五合庵での修行
五合庵での暮らし
K-02-06 庇護者たち
庇護者として良寛さを支えた人々
四人の道友は良寛美を高めた
親しい友人たち、庇護者たちは良寛美を支えた
K-02-07 人生40歳代の10年間で何ができるか
40歳代の10年間を如何に生きるか、に影響したと思われることか
K-02-08 40歳代の野僧良寛さんが五合庵で漸く山にこもるような暮らしと修行の念願が叶っての10年間、後半の7年間でほぼ完成されたが、前半の4年間が勝負だった
時代背景の考慮を超えて、人として僧侶として如何に生きるべきかの本質を掴む
大而宗龍禅師の衆生済度の信念の深さと快挙示唆にたいし自分ならではで何ができるか
禅僧として、人としての生き方の方向を定めて礎を築いた玉島円通寺13年間のその集大成を成す
師国仙の示唆を実現する
玄透即中の示唆を逆手にとっての生かし方
13年間の禅堂における教えとその準備の4年間で学んだことを生かす道を求める
以南入水をムダにしない生き方
祖師道元の教えと天真仏の再考で方向を見出す
歩み方の否定と帰郷の選択の結果を成果として成す
帰郷することで果たすべき課題
僧伽修行と法嗣との永訣を選択した(34歳)ことと、僧侶として大成する道の答えを求めて諸国を
行脚した(37歳)生涯の転機とも言えることを成就する
五合庵を借りることができ、新たな覚悟を持った
困窮の実際とあるべき生き方の模索を両立させる修行は、生活を落ち着かせる課題の解決からの認識
末弟香の桂川で入水にたいする精神的な清算
二人の弟の死を無駄にしないための精神的償いをどうするか決める
生家名主と神官職橘屋の今も続く諸事件解決に向けて僧侶としての関わり方
達磨を手本に仏法者の生き方を希求
黄檗を生かした仏法者の生き方の形成
五合庵は良寛にとって何であったかの確立
ブッダのことばの改めてのおさらい
仏教の基礎学「俱舎論」を10日間講義した結果の検証と対策
五合庵は良寛さにとって何であったかの明確化
言葉で表現できない事柄の表現はどうすべきか
国上山山中の五合庵を法華経の道場とする
答えは法華経の教えを円通庵(田面庵)東岫有願は示唆した。これをどう具現化するか
自分らしい法華経の具現化発見
仙桂和尚の示唆が大きなヒントにならないか
仏教者良寛法師の形成と確立
良寛における日本的霊性の完成
答え発見の兆しの手がかりを見つける
良寛さならではの生涯の二つの大転機を五合庵でどのように乗り切るか
答えは僧堂で本当に得られるのか。五合庵を下りることにあった
道元の説く仏法僧とは異なる良寛さの仏法僧の確立
浮き草暮らしの事実を踏まえて自由に生きるとは何か
娑婆の騒々しさは本物を追求しているかの見直し
托鉢で布施を得るのと同じように庇護者に施物を与えてもらう受者は何もしないでいいのか
大悲と大智を踏まえた上での自己表現を菩薩行 としてできないか
交友と人間良寛の草創の方法
書の円熟
道友との関わり充実化
K-03 奇行の数々
K-03-01 数々の奇行の謎
K-03-02 寒山・拾得への憧れが現実味を帯びて来たか
K-03-03 良寛さ寒山詩の浸るころか
K-03-04 奇人・変人の良寛さ
K-04 1798(寛政10)年 良寛41歳 ( 第 1期五合庵仮住まい2年目・川向こうの真木山に医をこととしていた原田鵲齋の「尋良寛上人」の詩に、いつ草庵を訪ねても結跏趺坐ばかり、さながら古禅林を想わせる、と伝えている ) の頃
K-05 末弟の朝廷での国学者香が父と同じ桂川で客死
K-05-01 前年、大阪に遁れ、歌集を詠んだ
K-05-02 なぜ28歳の若さで死を選んだのか
K-05-03 なぜ入水したのか
K-05-04 なぜ桂川であったか
K-06 1799(寛政 11)年 良寛42歳 ( 第 1期五合庵仮住まい3年目 ) の頃
K-07 1800(寛政12)年 良寛43歳 ( 第 1期五合庵仮住まい4年目 ) の頃
K-08 1801(寛政13、享和元)年 良寛44歳 ( 第 1期五合庵仮住まい5年目 ) の頃
L-01 1802(享和 2)年 良寛45歳 ( 第 1期五合庵仮住まい6年目 ~ 5年間住み慣れた五合庵を出て、寺泊照明寺を頼り境内の真言宗密蔵院に仮住い ~ 国上の真言宗本覚院へ仮寓 ~ 牧ヶ花の真言宗観照寺へ仮寓 ) の頃
L-02 転居時代
L-03 1803(享和 3)年 良寛46歳 ( 牧ヶ花の観照寺仮住まい ~ 国上の真言宗本覚院へ仮寓 ~ 牧ヶ花の真言宗観照寺仮寓 ~ 7月 野積の真言宗西生寺へ仮住まい ~ 国上の真言宗本覚院へ仮寓 ) の頃
L-04 1804(享和4、文化元)年 良寛47歳 ( 五合庵仮住まい・ 1月22日 ~ 翌年 2月まで五合庵定住 ) の頃
L-05 1805(文化 2)年 良寛48歳 ( 2月まで五合庵仮住まい ) の頃
L-06 1806(文化 3)年 良寛49歳 ( 五合庵仮住まい ) の頃
L-07 1807(文化 4)年 良寛50歳 ( 仮住まいの五合庵 ~ 西照寺の庵に仮寓 ) の頃
M-01 1808(文化5)年 良寛51歳 ( 仮住まいの五合庵) ~ 西照寺の庵に仮寓 ) の頃
M-02 1809(文化6)年 良寛52歳( 第 3期五合庵仮住まい)の頃
M-03 後期: 第 9次自分探しと根源的テーマおよび自由
良寛さんが自分探しで学んだことと、影響を受けたもの
曹洞念仏禅と、荘子から良寛さんが体得したもの
M-04 1810(文化7)年 良寛53歳 ( 第 3期五合庵仮住まい ~ 秋 牧ヶ花(国上村の大字)の観照寺庵に仮住 ) の頃
M-05 1811(文化8)年 良寛54歳 ( ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ) の頃
M-06 1812(文化 9)年 良寛55歳 ( 五合庵 ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ) の頃
M-07 雲游(うんゆう)すること二十年
M-08 1813(文化10)年 良寛56歳 ( ~ 牧ヶ花の観照寺庵に仮住 ) の頃
M-09 1814(文化11)年 良寛57歳 ( 五合庵 ~ 冬は乙子神社側庵に下りて仮住 ) の頃
M-10 1815(文化12)年 良寛58歳 ( 五合庵 ) の頃
M-10-01 『正法眼蔵』九十五巻刊行開版
玄透即中が成すきっかけをつくった『正法眼蔵』九十五巻刊行開版情報を語らなかった謎
N-01 弟子遍澄
N-01-01 良寛さの、たった一人の弟子
N-02 1816(文化13)年 良寛59歳 ( 五合庵(老朽化と朝夕の山道の登り降りが老身にこたえるようになり) ~
冬 乙子神社境内の社務所に移り住む
以来、誰いうこともなく乙子神社草庵と呼ぶようになった頃
N-03 仏法創造の開眼
N-03-01 道元の戒めを破って詩歌づくりや書を生き方と生活に取り入れた謎
N-03-02 国上山を下りた謎
N-03-03 道元禅を超越するに至った謎
N-03-04 仏教創造者として至った謎
N-03-05 山を下りた。その大地に答えがあった
良寛さんの自分らしい答えの仏法僧
良寛さ生涯の転機とも言える三つ目は、山を下りることだった
良寛さにおける『法華経』の影響
経中の諸仏を市井の隣人とした良寛さ独自の法華経観
良寛さの道元禅を超越した菩薩行
仏教の大意の「大悲」と「大智」を良寛さんはどのように具現化するかの謎
仏教の大意である「大悲」 ・ 「大智」を踏まえた菩薩行と自己表現および人に役立つことの発見
もはや言葉を失って立ち竦むことがなくなった良寛さの取った行動
仏教創造者としての良寛さ
N-04 乙子神社社務所時代
N-04-01 禅僧ではなく仏教者・法師を終始捨てなかった謎
仏教者良寛さ
N-05 活発化した創作活動
N-05-01 良寛さ56歳から74歳までの創作活動加速化
N-06 1817(文化14)年 良寛60歳 ( 乙子神社境内の社務所 2年目 ) の頃
► このころ乙子神社境内の社務所に移り住む説がある
N-07 1818(文化15 文政元 )年 良寛61歳 ( 乙子神社境内の社務所 3年目 ) の頃
N-08 1819(文政2)年 良寛62歳 ( 乙子神社境内の社務所 4年目 ) の頃
N-09 1820(文政3)年 良寛63歳 ( 乙子神社境内の社務所 5年目 ) の頃
N-10 1821(文政4)年 良寛64歳 ( 乙子神社境内の社務所 6年目 ) の頃
N-10-01 東北行脚の謎
N-11 1822(文政5)年 良寛65歳 ( 乙子神社境内の社務所 7年目 ) の頃
N-12 1823(文政6)年 良寛66歳 ( 乙子神社境内の社務所 8年目 ) の頃
N-13 1824(文政7)年 良寛67歳 ( 乙子神社境内の社務所 9年目 ) の頃
N-14 1825(文政8)年 良寛68歳 ( 乙子神社境内の社務所 10年目 ) の頃
N-15 1826(文政9)年 良寛69歳 ( 乙子神社境内の社務所 11年目 ~ 島崎村の能登屋木村家屋敷内の庵に移り住む ) の頃
N-16 木村家時代
O-01 貞心尼との出会い
O-01-01 良寛さ初めて訪れて不在だったため手毬を置いて帰る
O-01-02 貞心尼
O-01-03 滝沢ハルの証言
O-01-04 遍澄との距離
O-01-05 貞心尼との恋の謎
O-01-06(「貞心尼よ ...」)「霊山の釈迦の御前で契りし事は世が隔つとも約束を忘れるな」
O-01-07 良寛さ歿後に『蓮(はちす)の露』公刊
O-02 1827(文政10)年 良寛70歳 ( 一時、地蔵堂に住む ~ 木村家屋敷内の庵 2年目 ) の頃
O-03 1828(文政11)年 良寛71歳 ( 3月 寺泊町の照明寺境内の密蔵院に仮住 ~ 木村家屋敷内の庵 3年目 ) の頃
O-04 1829(文政12)年 良寛72歳 ( 木村家屋敷内の庵 4年目 ) の頃
O-05 1830(文政13、天保元年)年 良寛73歳 ( 木村家屋敷内の庵 5年目 ) の頃
O-06 1831(天保2)年 良寛74歳 ( 木村家屋敷内の庵 6年目 ) の頃
O-07 良寛さの生前に、良寛さんを世に知らせた人々
O-07-01 大忍魯仙による紹介
O-07-02 橘崑崙による紹介
O-07-03 (大関文仲 ‐ 良寛さん禅師伝)
「 ... まことに困りいり候 失礼千万 以上 四月十一日 良寛」の書簡で公刊を断念
O-07-04 小池世貞 ‐ 良寛さん詩集『草庵集』を写す
O-07-05 解良栄重 ‐ 良寛さん禅師奇話
O-07-06 阿部定珍よる紹介
O-07-07 僧徳昌寺虎斑よる紹介
O-07-08 大村光枝よる紹介
O-07-09 菅江真澄よる紹介
O-07-10 岩田洲尾よる紹介
O-07-11 上杉六郎 ‐ 良寛さん歌集
O-07-12 上杉篤興よる紹介
O-07-13 小田島允武よる紹介
O-07-14 僧神龍絅 ‐ 北越古今詩選(良寛さの詩三首)
O-07-15 橘崑崙 ‐ 北越奇談
O-07-16 高岡亭翠柳・桐原居士よる紹介
O-07-17 内藤鐘山による紹介
O-07-18 丹羽思亭- 良寛伝
O-07-19 鈴木文臺による紹介
鈴木文臺- 喫烟詩話
鈴木文臺- 詩 寄良寛禅師
鈴木文臺- 詩 訪良寛禅師居
鈴木文臺- 撰 題良寛上人横巻
鈴木文臺- 撰 草堂集序並附言
鈴木文臺- 良寛上人遺墨跋
鈴木文臺- 良寛和歌題言
O-07-20 弟・由之はなぜ編集して上梓しなかったのか
O-08 良寛さ歿
P-01 良寛さの作品
P-01-01 良寛さが僧侶でありながら布教せず、創作に踏み切り、2,000点もの作品作りに専念した謎
P-01-02 詩歌など作品の数2,000以上
P-01-03 友情から生まれた詩歌
P-01-04 美術、芸術の「術」と「何必(何ぞ必ずしも)」
土波後作
日々日々又日々 日々
P-02 良寛さの歌とその評釈
P-02-01 良寛さの歌の成り立ち
円通寺で7歳年下の維馨尼(いきように)から手ほどきを受ける?
良寛さの歌は帰郷の旅の辺りから詠んだものが遺っている
P-02-02 良寛さにおける歌
P-02-03 良寛さの歌1300首
P-02-04 良寛さの歌風
P-02-05 西行の『山家集』の影響
P-02-06 良寛さと万葉集
良寛さの歌の万葉調
良寛さ万葉調の系譜
万葉集の影響が強い良寛さの歌
七夕の歌
P-02-07 良寛さと古今集
P-02-08 良寛さと大和物語
P-02-09 生活歌人の心の響き
P-02-10 響き
P-02-11 枕詞の多用
P-02-12 感動のある良寛さの歌
P-02-13 音律美のある良寛さの歌
P-02-14 良寛さの歌
「いざうたへ」の歌
「かたみとて」の歌
「むらぎもの心は和ぎぬ」の歌
山かげの岩間をつたふ苔水の、の「の」
P-02-15 初期の歌歌評
P-02-16 五合庵時代の歌歌評
P-02-17 季節歌と叙景歌
P-02-18 人事の歌の歌評
P-02-19 釈教の歌の歌評
P-02-20 晩年の歌の歌評
P-02-21 老境の歌の歌評
P-02-22 貞心尼との贈答歌の歌評
P-02-23 良寛さの歌と斎藤茂吉の歌
P-03 良寛さの旋頭歌とその評釈
P-03-01 施頭歌の歌評
P-04 良寛さの長歌・狂歌・俗謡・戯歌とその評釈
P-04-01 良寛さの長歌約90句
P-05 良寛さの俳句とその評釈
P-05-01 良寛さの俳句
炊くほどは風がもてくる落葉かな
P-05-02 良寛さの約100句
P-05-03 良寛さの以南の俳句
P-05-04 良寛さはなぜ俳句が少なく、もっぱら和歌中心であったかの謎
P-06 良寛さの詩とその評釈
P-06-01 良寛さの詩にみる良寛さんの隠れた真意の謎
P-06-02 良寛さ詩の成り立ち
良寛さの漢詩は青年期からずいぶんと習作している
P-06-03 良寛詩の風光
P-06-04 寒山詩の出会い
終日乞食罷 帰来掩蓬莱扉
P-06-05 漢詩の「只聞く」と和歌の抒情の相違
P-06-06 良寛詩の本質
P-06-07 詩に対する考え方の類似
P-06-08 心情や心境の類似を良寛さん詩から読み取る
死に対する感覚
自由の心
儚さ
草庵に独居して古人の書を親しむ
酒に遊んで仏法も意に介しなく陶然たるさま
つながざる舟のこころ
世評に超然たる姿勢
懶の心境
真源は窮まらず
幽寂の地に住む喜び
女性の無常を想う
表現形式の類似
P-06-09 良寛詩の破格さ
P-06-10 良寛詩の秘密
P-06-11 良寛さにおける詩
魂の叫び
禪における視覺型と聽覺型
P-06-12 良寛の詩の五類型
P-06-13 良寛詩の弱点
P-06-14 良寛詩別データ
P-07 良寛さの讃とその評釈
P-07-01 法華讃
P-07-02 良寛さの法華讃
P-08 良寛さの文学の理念
P-09 良寛さの「表現」
P-10 良寛さの文法
P-10-01 文法を自得した良寛さ
良寛さの遺稿の梵語による五十音図
良寛さの遺稿の神代文字による五十音図
良寛さの文法
貞心尼に贈った歌に見る良寛さの文法
P-11 良寛さの書とその評釈
P-11-01 良寛さの書とその評釈
P-11-02 良寛さの書
P-11-03 良寛さの習字法
P-11-04 良寛さの字の書き方
良寛さの逸話 『良寛さの習字』
P-11-05 良寛さの習字の打ち込み方
若き鈴木文臺が見た手習いに打ち込んだ痕跡
P-11-06 良寛さの字句の相異や脱字
P-11-07 良寛さにおける書
良寛書の筆勢
P-11-08 良寛さの書法の変遷
晩年の書
P-11-09 良寛書の特質
P-11-10 良寛書に影響を与えた書
「王導の書」
「黄山谷の七仏偈」
「尊円法親王の梁園帖」
P-11-11 良寛書における三つの魅力
P-11-12 三心一体の書 文字以前の書
P-11-13 人柄そのものの良寛さんの書
P-11-14 良寛書の天衣無縫の書
P-11-15 良寛書の細楷の実相と美学
P-11-16 良寛さの錯然の美と道力の真の結合
P-11-17 良寛書の音楽性
良寛書のリズム感
手鞠歌が聞こえる書
P-11-18 良寛さの書線と構成
独自の書風
P-11-19 良寛さと揮毫
高名な人物からの書の依頼は断る傾向があった
無理やり書を強要される良寛さ
P-11-20 良寛さ揮毫の署名が一つとして同じものがない
P-11-21 脱字・重字の名人
P-11-22 良寛さ遺墨の性格
P-11-23 良寛書の行きつくところ
P-11-24 良寛さ晩年の書
P-11-25 「何必」をめぐる良寛書
P-11-26 良寛書と魯山人の書の暗合
P-11-27 晩年の「ねせもの」
P-11-28 良寛さの偽書横行
良寛さ生存中の評価
晩年の「ねせもの」
歿後の評価の高まり
贋作の見分け方
-11-29 名品を味わう
良寛書 『嗟見講経人』(五言律詩)ああ 講経の人をみるに
良寛書 『朝々献華 暮々焼香』(過去帖書入偈井歌 偈)朝々に華を献じ
良寛書 『あひう江を 可きくけこ さし寿せそ たちつてと ・・・ 』(良寛の五十音の理)暮々に香をたく
良寛書 『愛語』
良寛書 『安女能不流日』
良寛書 『あきはぎ帖 一帖ノ内』(臨書)
良寛書 『秋萩帖臨書切 あきはぎの 安幾破起乃』
良寛書 『安起裳也々 能己理春久奈耳 ・・・ 』 あきもやや のこりすくなに
良寛書 『安幾毛也々』 (和歌短冊 一幅ノ内) あきもやゝ
良寛書 『安幾能安女能』 (短歌四首) あきのあめの
良寛書 『秋夜弄月詩』
良寛書 『安之悲幾能 尓之能也真弊尓 ・・・ 』 (和歌一首) あしひきの にしのやべに
良寛書 『安之悲起能 也萬能當遠理乃 ・・・ 』 (紅葉刷り和歌幅) あしひきの やまのたをりの
良寛書 『あづさゆみ はるさりくれ』
良寛書 『安末つ堂ふ ひ』
良寛書 『安免波也三奴 己能与 ・・・ 』 (良寛・定珍和歌幅) あめはやみぬ このよ
良寛書 『雨乃隆流 日波安者 礼奈利 良寛ほう』 (扇面) 雨のふる日は あはれなり
良寛書 『嵐窓記』
良寛書 『安理所美能於幾都』 (書簡 由之宛歌) ありそめのおきつ
良寛書 『あはせのせんたく出』 (書簡 宛不明)
良寛書 『家在荒村全無壁 展転傭任且過時』 (漢詩屏風六曲一双)家は荒村に在りて全て壁無く
良寛書 『維馨尼宛 正月十六日夜 』 (詩歌消息)
良寛書 『居諸荏苒春為秋 僧舎蕭』
良寛書 『一巻ノ内 をやまたの か』 (詩歌)
良寛書 『一箇繡毬』
良寛書 『以悲己布東 和礼 古能也東耳 春 ・・・ 』 (良寛・定珍和歌幅) いひこふと われ このやどにす
良寛書 『行囊米乏不知貧』 (宮川禄斎筆良寛像賛) 行囊の米 乏しくも貧を知らず
良寛書 『巌根 巌根欲穿深夜雨』 (草書一行)
良寛書 『いんきんたむし再』 (書簡 守静老宛)
良寛書 『恭しく香積精舎に於いて無縁供養を聴き 遥かに此の作有り』
良寛書 『うちつけに いひ〔を〕たつとには あ』
良寛書 『烏藤朽夜雨 袈裟老暁煙』 (漢詩屏風)烏藤は夜雨に朽ち 袈裟は ぎょう煙に老ゆ
良寛書 『宇都利由久』 (短歌四首) うつりゆく
良寛書 『雲女能者波 意未佐閑理難利』 (和歌三首) うめのはな いまさかりなり
良寛書 『恵爾之安礼ば』
良寛書 『於久也萬能 久佐起乃無多尓 ・・・ 』 おくやまの くさきのむたに
良寛書 『御水飴所』 (看板)
良寛書 『おもひ和非』 (和歌消息) 一幅ノ内 おもひわび
良寛書 『およしさ宛 ぬのこ一 今度候』
良寛書 『遠也万堂能 可』 (短歌井五言詩 一巻ノ内) おやまたの か
良寛書 『おれがの』 (鴨長明『夢遊集』への良寛さんの書き込み)
良寛書 『有女有女照女』 (七言絶句 一巻ノ内)女あり 女あり 字はしょうじょ
良寛書 『戒語』
良寛書 『覚一 銭四百文』 (おむろ宛証文)
良寛書 『菓子屋三十郎宛 白雪羔少々』 (書簡)
良寛書 『可勢波幾与之 川起波 ・・・ 』 (良寛・定珍和歌幅) かぜはきよしつきは
良寛書 『閑多美東天難爾能己數良無』
良寛書 『曽従先師遊此地 廻首悠々二十年』 (漢詩屏風)かつて先師に従って此の地に遊ぶ 首を廻らせば悠々二十年
良寛書 『かなたには』 (長唄)
良寛書 『閑奈堂耳者 毛美知遠』
良寛書 『寒山拾得図』
良寛書 『閑勢波幾餘之』
良寛書 『閒庭百花発』
良寛書 『祇園庵殿堂建立落成し 偈して以て 賀し奉る』 (寛政の良寛さん書)
良寛書 『聴於香積山有 無縁法事随喜作』
良寛書 『幾天見礼者 和』我布留散〔東〕』
良寛書 『許能美也能裳』
良寛書 『堯告舜曰人心是危』
良寛書 『対君々不語 々々意何悠』 (漢詩屏風六曲一双)君に対して君語らず 語らざれどもこころ何ぞ悠なる
良寛書 『対君々不語 々々意何悠哉』 (漢詩屏風)君に対して君語らず 語らざれどもこころ悠なるかな
良寛書 『幾美可也東能』
良寛書 『公門暫拄錫』 (五言律詩 一巻ノ内)きみとにしばらく錫をかく
良寛書 『君看雙眼色 不語似無憂』 (五言対句)
良寛書 『くがみの おほとの まへの 』
良寛書 『九夏三伏日』 (五言詩)
良寛書 『久斜乃以報爾 祢散目天 ・・・ 』 (良寛・定珍唱和和歌幅) くさのいほに ねざめて
良寛書 『裙子短□褊衫長』 (漢詩屏風)くんす短かく 褊衫長し
良寛書 『偶入釈門被袈裟 撥草瞻風有年斯』 (詩歌 双幅) たまたま釈門に入りて袈裟を被い 撥草瞻風 ここに年有り
良寛書 『雲知都天耳』 (和歌三首)
良寛書 『渓聲良是長廣舌』 (七言詩 投機偈 貼交屏風ノ内) 渓聲 まことに これ長廣舌
良寛書 『廻首五十余年 是非得失一夢中』 (漢詩屏風六曲一双) こうべを廻らせば五十有余年
良寛書 『古悲之久者 当都袮天』 (自画像賛) こひしくば たづねて
良寛書 『乞食到市朝ほか五首』 (漢詩屏風)
良寛書 『東風吹微雨』 (五言古詩) こち 微雨を吹き
良寛書 『己東家羅東』 (扇面和歌) こどもらと
良寛書 『古東毛羅東 者』 (和歌) こともらと は
良寛書 『此間暑気甚候 如何』 (書簡 斎藤老宛)
良寛書 『このごろは甚不快に候間わざ□人 ・・・』 (書簡)
良寛書 『古能遠可迩 都萬幾己里天無 ・・・ 』 このをかに つまきこりてむ
良寛書 『このころ出雲崎 にて』 (書簡 由之宛)
良寛書 『此度御 返申』 (書簡 ぬのこ一)
良寛書 『此春は あわもり』 (書簡 宛不明)
良寛書 『此夜此情聊自得 他時他晨向誰吟』 (漢詩二篇 二幅) 此の夜此の情 聊か自ら得たり 他時他晨 誰に向って吟ぜん
良寛書 『己能与良〔羅〕能』 (長歌) このよらの 貼交屏風ノ内
良寛書 『このよらの いつか』 (書簡 由之宛)
良寛書 『是はあたりの人に候 其ハ 他国へ』 (書簡 叔問老宛 一巻ノ巻)
良寛書 『歳晩仮一庵』 (五言律詩) 歳晩 一庵を仮る
良寛書 『昨日異今日 今晨非』
良寛書 『昨夜丑時分丸薬』 (書簡 宗庵老宛)
良寛書 『昨夜窓前風雨急』 (七言対句 双幅)
良寛書 『寒気之時節如何』 (書簡 解良熊之助宛)
良寛書 『寒夜空斎裡 ・・・ 』 (五言律詩)
良寛書 『散爾川呂有 以毛可 ・・・ 』 (毬の歌)
良寛書 『三世諸仏無仏性』 (七言対句)
良寛書 『詩井歌』
良寛書 『しけの病』
良寛書 『自〔辞〕白華老納会』 (七言律詩) 白華老納のゑを辞してより
良寛書 『自少出家今己老』
良寛書 『邪無思』 (横三字)
良寛書 『十字街頭乞食了 八幡宮辺方徘徊』 (七言絶句) 十字街頭 じきを乞いおわり 八幡宮辺りまさに徘徊す
良寛書 『十字街頭乞食罷 八幡宮』 (七言絶句)
良寛書 『従〔出〕白蓮精舎会』 (七言律詩)
良寛書 『平丹寅 荒村破院実難論』 (十二時歌屏風 一隻ノ内) 平丹寅 荒村の破院実に論じ難し
良寛書 『袖裏毬子直千金』 (漢詩屏風六曲一双)しゅうりのきゅうし直千金
良寛書 『袖裏毬子打又打 』 (七言絶句扇面) しゅうりのきゅうし 打ちまた打ち
良寛書 『粛々天気寒』 (五言詩・短歌)
良寛書 『生涯懶立身』 (五言絶句三幅対の内)
良寛書 『唱導詞 澆風扇天下』
良寛書 『暑に如何遊候や』 (書簡 叔問老宛 一巻ノ巻)
良寛書 『春寒如何被遊』 (書簡) 能登屋元右衛門宛 貼交屏風ノ内
良寛書 『春夜蒼茫二三更 春』
良寛書 『心月輪』 (鍋蓋刻字)
良寛書 『心水何澄々 望之不見端 一念』
良寛書 『偶剃鬚髪作僧伽』 (漢詩屏風) たまたま鬚髪を剃って僧伽となり
良寛書 『古手類たんごや 』 (碑字) たんごや
良寛書 『貼交屏風ノ内 白雪羔少々御恵 たまはりたく候』 (書簡 菓子屋三十郎宛)
良寛書 『貼交屏風ノ内 判会嗔如楊柳絲』
良寛書 『都幾閑計乃』 (和歌三首)
良寛書 『貞心尼宛消息』
良寛書 『貞心尼に代てよめる』 (短歌)
良寛書 『定珍宛 見事なる茄子みやか並盆』 (書簡)
良寛書 『定珍老 良寛 哀傷のみうた拝見致 不覚 落涙 ・・・ 』 (定珍宛書簡)
良寛書 『定珍老 良寛 御不幸のよし 陰なから承 信 落涙いたし候 ・・・ 』 (定珍宛書簡)
良寛書 『てまりひとつおむ おくりくだされ』
良寛書 『天良登末利耳』(長唄)寺泊に居りし時よめる 和歌長巻ノ内
良寛書 『天上大風』 (凧文字)
良寛書 『天地』
良寛書 『道好亭』 (額字)
良寛書 『燈下読書図自像賛』
良寛書 『頭髪蓬々耳卓朔』 (七言絶句) 頭髪ぼうぼう 耳たく さく
良寛書 『投機偈 貼交屛風ノ内』
良寛書 『堂萬幾者留 以乃』
良寛書 『土波後詩 日々日々又日々 日々夜々寒烈肌』
良寛書 『奈閑幾起与尓』 (和歌) なかきき(よ)に
良寛書 『奈閑幾起予尓』 (和歌) なかきよに
良寛書 『南無天満大自在天神』
良寛書 『汝貞清貧 千秋希莫遷』
良寛書 『似竹 似葦 似藤 麻 一段風光 ・・・ 』 (竹自画賛)
良寛書 『忍 修身』
良寛書 『ぬのこ一 此度御』 (およひさ宛書簡)
良寛書 『拝永平高祖録有感作』
良寛書 『走知能許遠』 (扇面和歌 一幅ノ内) はちのこを
良寛書 『母去って悠々 父もまた去る 悽愴哀惋 なんぞ頻々』
良寛書 『判会嗔如楊柳絲』 (七言二句 貼交屏風ン内) 判会(樊噲)の嗔は楊柳の絲の如く
良寛書 『般若心経』 (写経)
良寛書 『人含道齢命報』
良寛書 『人も三十四十遠 越天者 お東ろへゆくものなれば』 (書簡 すもり老宛)
良寛書 『一二三いろは 双幅』
良寛書 『非面毛春尓』 (過去帖書入偈井歌) ひめもすに
良寛書 『病中吟』 (五言律詩)
良寛書 『一二三 いろは』
良寛書 『仏に香花をそのふへし』
良寛書 『布袋 孤鉢千家の飯 布袋一身軽し』
良寛書 『風気稍和調』 (漢詩屏風) ふうき やや和調
良寛書 『不知幾春冬』 (自来円通寺)
良寛書 『冬夜長』 (七言・五言詩三篇)
良寛書 『報無乃數起』 (俗謡扇面)
良寛書 『盆の過ぎたに 力にないに』良寛さんの書 『万春羅遠能』 (和歌短冊 一幅ノ内) ますらをの
良寛書 『万葉集』 (良寛さんの書き込みがある)
良寛書 『みつえう之能身』
良寛書 『みみつらに 美々川羅耳』 (和歌)
良寛書 『みやまおろしの 美也末於呂之能』 (琴歌)
良寛書 『美報東気能』 (短歌) みほとけの
良寛書 『美々川羅耳』 (和歌) みゝつらに
良寛書 『無我』
良寛書 『武之乃年毛』 (短歌四首) むしのねも
良寛書 『黙稱』
良寛書 『也萬閑気能 以王祢毛理久留 ・・・ 』 やまかげの いわねもりくる
良寛書 『山田杜皐宛 地しんは信に』 (書簡)
良寛書 『弥万当川能』 (旋頭歌) やまたつの
良寛書 『逝布久礼能遠可遠数幾天』 (短歌四首) ゆふくれの をかをすきて
良寛書 『ゆめさめて聞くは蛙の遠音かな 』
良寛書 『雪の中に人を被遣』 (書簡 宛不明)
良寛書 『夢左一覚後彷彿 』 (七言絶句二篇)
良寛書 『与能難可耳 於奈之古々呂能 ・・・ 』 よのなかに おなじこころの
良寛書 『世の中にまじらぬと にはあらねどもひとり あそびぞわれは まされる』
良寛書 『与毛春閑羅和可々東耳奈久幾 ・・・ 』 (きりぎりすの歌 よもすがら)
良寛書 『読永平録』 (七言詩)
良寛書 『をやまだの』 阿部家 (短歌・五言詩一巻の内)
良寛書 『籬菊纔残三両枝』 (漢詩屏風六曲一双) りぎくわずかに残る
良寛書 『良寛上人御遷化諸事留帳』
良寛書 『和我己非者 富久獘天東之与遠』 (俳句短冊) わがこひは
良寛書 『和我也東遠』
良寛書 『和我己非者 布久へ亭』 (俳句) 瓢水指 わがこひは ふくへ て
良寛書 『我従〔来〕此地』
良寛書 『和可曽天波 南美多尓 久知奴 左与不計天 ・・・ 』 (良寛・定珍和歌幅) わがそでは なみだに くちぬ さよふけて
良寛書 『和礼堂能無 ・・・ 』 (菅公像画賛)
良寛書 『吾与筆硯有何縁』 (漢詩屏風六曲一双) 吾と筆硯と何の縁かある
P-12 良寛美
P-12-01 良寛さの美
P-12-02 良寛さが醸し出す美の原像
東岫有願は良寛美に貢献した
原田鵲齋は良寛美に貢献した
江戸の国学者で歌人の大村光枝は良寛美に貢献した
儒者で友人の龜田鵬齋は良寛美に貢献した
P-12-03 良寛さ贋作の幻像
P-12-04 良寛さの作品に見るあまりにも高い美の謎
多くの人を心から感動させる力の謎
P-12-05 良寛さと作品の美を創り出し得た心根と生き方の謎
P-12-06 良寛さの作品創作の目処
P-12-07 良寛美のキーワード
P-12-08 良寛さの生き方と良寛美に至る20の出発
良寛さの生き方
日本人が必死に求めつづけた生き方とは
道元の「閑居寓作」と良寛さ
良寛の出発 ⑴ 少年栄蔵は、越州の滅びゆく名主橘屋の長子として家族に期待された
良寛の出発 ⑵ 自分探しと求道で曹洞禅に触れ、18歳から4年間修行
良寛の出発 ⑶ 備中玉島 ・ 円通寺僧堂で道元曹洞禅の雲水修行。禅僧として34歳までの12年間目指した本格的な仏道修行・求道の修得
良寛の出発 ⑷ 僧堂で行った食う寝る坐るの曹洞禅伽藍(がらん)で13年間寝食を忘れての自分探しの修行
良寛の出発 ⑸ 13年の修行の結果、師・国仙和尚から授かった一等首座の位と悟りの印可の偈の示すもの
良寛の出発 ⑹ 十一世和尚玄透即中の改革への確執と始祖道元を裏切る良寛
良寛の出発 ⑺ 道元の教え仏法僧と法嗣を永久に捨て、曹洞禅円通寺を去って諸方行脚・遍歴で求道
良寛の出発 ⑻ 始祖が許さなかった和歌を3歳年下の法弟義提尼から手ほどきを受ける
良寛の出発 ⑼ 尋師問答で門を叩き続け、托鉢で過ごした諸方行脚・遍歴 5ヶ年間
良寛の出発 ⑽ 亡き以南の遺志と、祖師道元禅との決別での帰郷決意に至る求道者良寛
良寛の出発 ⑾ 帰郷を許さなかった始祖の教えを裏切って故郷で乞食する野僧了寛の脱道元禅
良寛の出発 ⑿ 天真の仏となる生き方探しの日々
良寛の出発 ⒀ 宗派へのこだわりを捨てた了寛
良寛の出発 ⒁ 良寛さならではの大転機。五合庵での求道。山にこもり、始祖達磨と黄檗を手本に仏教者の生き方を寒山拾得的に模索
良寛の出発 ⒂ 自然と一体化し、自分に素直に生きる。自分らしい法華経の実相を体得する
少年時代の師、大森子陽の影響
民衆と生きた大而宗龍禅師からの強い影響
深い人間味の名僧、国仙の影響
良寛さと祖師道元の影響
良寛さの仏法・仏道・禅学との関係性
良寛さの悟りとの関係性
良寛さの観無常との関係性
良寛さの原点としての法華経との関係性
仏教者良寛さ
良寛さと老荘との関係性
良寛さと宗教の意味と「良寛宗」
良寛さにおける宗教の大意との関係性
自然と一体化する良寛さ
自然体で接する心
良寛さの幸福観との関係性
詩『生涯、身みを立つるに懶(ものう)し、騰々(とうとう)、天真(てんしん)に任す』に見る幸福観
思想家的な一面を持つ良寛さの生き方に見る関係性
良寛さの思想との関係性
良寛さの生き方との関係性
良寛さの説教との関係性
良寛さの言動との関係性
良寛さの遊びの精神との関係性
良寛さの言葉との関係性
良寛さの行動との関係性
良寛さにおける「聞く」との関係性
良寛さにおける遊びとの関係性
女性から敬慕される人間味との関係性
自然と一体化する良寛さの人間的完成と普通の人としての生き方
良寛の出発 ⒃ 自己実現の方法と人に役立つことの発見
良寛の出発 ⒄ 若いころから憧憬した修行の山を下りての求道
良寛の出発 ⒅ 他者のために尽くす生き方をする仏教者良寛の形成
良寛の出発 ⒆ 良寛が醸し出す日本的霊性の美創造
良寛の出発 ⒇ 作品という大きな有形の形見と後世へ遺した大きな無形の形見で人々に問いかけ続けている
P-13 良寛さにおける美の感性
P-13-01 良寛さの文化的素養
P-13-01 良寛美と「自分探し」
P-14 日本的霊性と美
P-14-01 日本的霊性
P-14-02 日本的霊性と美
黄檗禅と作品の美は日本的霊性に通じる
P-14-03 良寛さにおける日本的霊性・宗教性・超宗教性の生き方と美
良寛さにおける宗教性と超宗教性の日本的霊性直覚と顕現化の謎
儒教・仏教・道元禅・黄檗禅・道教・荘子・法華経を踏まえての超日本的霊性顕現化の謎
人格者 ・ 法格者を超えた良寛さの放つ美
P-14-04 良寛さの感性・知性・徳性と霊性のバランスでの美
P-14-05 ここまでの良寛さを知って、改めて良寛さの作品に触れることで見えてくるもの
P-15 良寛さの芸術
P-15-01 詩歌を詠むことの道元の戒め
P-15-02 良寛さは何故道元戒め破ったばかりか能動的に詩歌づくりや揮毫を為したかの謎
P-15-03 良寛さの極限までの生き方と良寛さのギリギリの感覚による作品からの感動との相関
P-16 今ここに、良寛さが後世のすべての人に遺してくれたもの
P-17良寛さの有形の形見
P-17-01 良寛さが後世のすべての人々へ遺した大きな有形の形見
P-18 良寛さの無形の形見
P-18-01 後世へ遺した良寛さの大きな無形の形見
日本人の原型で、心のふるさと
人として最後はここの、生き方を見せてくれた
最後はあそこだの人自己実現を図る
人には優しくする
自然をいつくしむ
言葉の遣い方に気をつける
素直に生きる
自分らしく生きる
人に役立つことをする
次の世代の青年のために、つなぐものを遺す
生死(しょうじ)を超えた出発
P-18-02 私たちは如何に生き、死を以って如何なる大出発とするか
生死事大無常迅速
他は是れ吾にあらず。いまここにある自己
P-18-03 良寛さにたいする私。良寛さの形見を糧として生きる
Q-01 良寛さの歿直後に、良寛さの作品を世間に紹介した人々
Q-02 1835(天保6)年 貞心尼(40歳)、『蓮の露』筆写なる。良寛歿後 4年
Q-03 貞心尼との贈答歌と『蓮(はちす)の露』
Q-03-01 『蓮(はちす)の露』
Q-03-02 貞心尼のその後
Q-04 その後、良寛さを世に知らせた人々
R-01良寛さの読み方
R-01-01 良寛さの読み方の文献選択
R-01-02 良寛さは禅師か、和尚か
良寛さの法位は、一人前になる瑞世の手前の首座。和尚は瑞世を経て与えられる法位
大正15年9月建碑、良寛堂の「良寛和尚生誕之地」の碑を書いたのは、永平寺貫首日置黙仙禅師
R-01-03 野僧良寛が五合庵の初めの4年間で大徳、禅師と敬慕されるほどの人物になった理由
R-01-04 寡黙の良寛さが用いる言語とその表現をどう読むか
R-01-05 良寛さをどう読むか
良寛さをどう読むべきか
良寛さの読み方
R-01-06 良寛書の作品「般若心経」や「愛語」はなぜ楷書で書かれたか
R-01-07 良寛さの抜群な暗記力
R-01-08 良寛さの完成度の高い作品創りはいつ生まれたか
R-01-09 良寛さの「伝える」
R-01-10 良寛さの「言うまたは道うあるいは語り」
R-01-11 良寛さの「聞く」
良寛さにおける「聞く」
耳聾漢
眼と耳
良寛さの音楽性、リズミカル
『唯聞ク落葉ノ頻リナルヲ』
見とめ・聞きとめの問題
芭蕉と蕪村
良寛さの『遍舟の興』
R-01-12 良寛さの「音楽性」
S. 良寛年譜
S-01-01 年譜による言動と時代背景
S-01-02 年譜
S-01-03 良寛さ年譜の空白
T. 参考文献・関係文献
T-01-01 年譜と目次構成を一通り終えたことから始める草稿の参考文献は下記の中からプライオリティの高い順に着手開始
U. 良寛関係用語概説
V. 良寛さについての研究家たち
W. 良寛さ基礎研究の重要性
勉強のテーマを整理してみると今のところこのように列挙される。
・・・ 上記AからはじまってWまでの項目は、今後も増え続けることになるだろう。完成までの道のりはほど遠いが、やってやれないことはないだろう。
「S. 良寛年譜」は、当ホームページメニュー「良寛年譜」と題して掲載した。他に類がない年譜で、例えば同時代に生きた以南と一茶と大而宗龍プロジェクトと平賀源内の活躍ぶりで比較してみた。
「A. 良寛讃美集」~「R 良寛さの読み方」までの本編および「V. 良寛関係用語概説」や「W. 良寛さについての研究家たち」に就いては、基本は「項目」列挙にとどめるが、漸次、「A. この答は機会を見て発表」の項で、問題提起形式で補筆・修正していく。
参考文献も、今後書き加えていく。
軽やかな生き方は五合庵の途中から山を下りた人生後半のことだったようで、前半は、それはそれは苦渋に満ちたその中で、自分探しを繰り返し自分のものにしながら、なぜ生まれてきたのか。どのように生きるべきか、僧侶として何を為すきか、自分ならではの生き方とは、どのようにすれば良いのか、18歳で出奔しておよそ50歳くらいまでの間、世間ではそれぞれ生計を立てながら模索するこれらテーマを、禅僧として考え続けたようである。
そして僧侶としての悟りと、人間修行に集中して得た答えが、「人としての理想的な生き方と、それを基に醸し出した美」が生まれた。
これは生計を立てる職業を持つ普通の人には出来ようがないと思えるのであるが、替りにやってのけてくれたのであるから、ありがたい。
振り返って見ると、やはり良寛さというお方は、とてつもないお人である。
それほどに、「おれがの良寛さ。」は、奥が深いし、須弥山のようにあまりにも高い。
しかも宇宙の果てへ向けて、劫(こう)というとてつも長い旅に出立された。
今はその向こうから、灯りをかざしてくださっている。
相変わらず衣をまとっただけの質素なお姿。装飾品など一切所持されていない。
菩薩を超えて如来になられようとしている。
ひょっとしたら阿弥陀如来かもしれない。否、大日如来かな。
それでいて、
いつも黙って傍にいらしてくださる良寛さ。/