限りある時間のなか、今ここに 三流のたのしみ。

 

たちもり三郎の雑稿

 

 

 

目次

 

 

 7■ 私は何か。が、わかっている大谷翔平ができる偉業
 
 
 6■ Here & Now
    

 

 5■ 独楽とF=ma
   

 

 4■ 加賀の芭蕉

 

 

 3■ 秋(とき)

 

  ● 諸葛孔明の秋(とき)

  ● 高杉晋作の秋(とき)

  ● 「実り」と秋(とき)

  ● 秋という漢字の成り立ち

  ● 万物が衰え始める時の秋

  ● 時間との関係

 

  ● 大事な時、大切な時、特に重要なことのある 時期、「秋(とき)」

 

  ● 吉川英治の『新・平家物語』の斎藤別当実盛と「秋(とき)」

 

  ● 「元服」、今日的制度へのリニューアル

 

 

 2■ 金沢大乗寺と加賀コミューン
 

 

 1■ 板屋兵四郎と兼六園にも注がれた辰巳用水

 

  ① 寛永時代金沢最初の大火「法船寺焼」

 

  ② トライアングルのクロスファンクション

 

  ③ 辰巳用水計画の課題

  ④ 辰巳用水工事の概略

  ⑤ 名勝兼六園と辰巳用水事業

 

  ⑥ トータル的に俯瞰して捉えた創造的、有効的、効率的な実践

 

  ⑦ 板屋兵四郎の技能

 

  ⑧ 日本四大用水の一つ。その測量、土木技術や工法の優秀性

 

  ⑨ 水守り

  ⑩ 死の謎

 

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 7■ 私は何か。が、わかっている大谷翔平ができる偉業

 

 

 

岩手県 奥州市出身 身長193cm 体重102kg 米リーグ ロサンゼルス・ドジャース 背番号17指名打者 大谷翔平 (30歳)が、令和 6(‘24)年920(日本時間21日)52号本塁打&52盗塁。両部門の米Jリーグ史上最多記録を本拠地ドジャー・スタジアムで更新した。

 

今季ドジャースに移籍した大谷選手の記念すべき初ホームランは、4月4日に行われた開幕9試合目のジャイアンツ戦。開幕から自己ワーストの“40打席ホームランなし”と調子が上がらない中でも、「自分らしくまずいればそれだけでいい」というロバーツ監督の言葉で気持ちが楽になったと、本拠地であるドジャー・スタジアムに快音を響かせた。

 

令和 6(‘24)年 5月には、5日に1本、6日に2本、7日に1本と3試合連続ホームランを記録。15日にオラクル・パークで行われたジャイアンツ戦では、海に飛び込む“スプラッシュヒット”とはならないものの、12号となる場外ホームランを放った。

 

6月には、大谷翔平選手が今年も“6月男ぶり”を発揮、4月と5月の本塁打数はそれぞれ7本だったが、6月は1ヶ月の間に12本のホームランをマークした。

 

… 。

 

先ずは、喫緊の記録、大谷翔平 偉業達成までの軌跡を列挙してみる。

 

8月18日、大谷翔平選手 39号ホームラン

8月19日

8月20日

8月21日

8月22日

8月23日・日本時間24日 本拠地・レイズ戦。4回に40盗塁目を決めると、3―3の9回2死からサヨナラ満塁本塁打で史上最速40本塁打 - 40盗塁の快挙。本塁打と盗塁の同日達成はMLB史上初の快挙。

8月24日 メジャー史上6人目のシーズン40本塁打、40盗塁の「40-40」をサヨナラ満塁ホームラン41号で達成。残り33試合を残し前人未到の『50-50』を含む大台到達への期待が高まる。「41 - 40」、… 2安打2打点をマークした。しかし、チームは延長戦の末に敗れて、連勝が「5」で止まった

 

8月25日  

8月26日

8月27日

8月28日 

8月29日 この日のオリオールズ戦では、デコピンが始球式に登場。マウンドに上がったデコピンは、キャッチャーを務めた大谷選手のもとへ見事にボールを届けた。今シーズン42号となるホームランを含め、盗塁も2つマークしてシーズン42に伸ばした。

42号となるホームランを含めて2安打1打点、チームの勝利に貢献した

8月30日 43本塁打、43盗塁を達成

 

米アリゾナ州フェニックスのチェイス・フィールドであったダイヤモンドバックス戦に「1番・指名打者」で先発出場し、メジャー史上初となるシーズン43本塁打、43盗塁、通称「43―43(フォーティースリー・フォーティースリー)」を達成した。

 

この、8月30日(日本時間31日)に打ち出した記録の頃、世間でこのペースであれば、今シーズン中に、MLB史上初となる48本塁打・48盗塁の「48-48」はもとより、「5050」は間違いなく達成するであろうと、話題の焦点はこのことに集中した。

 

大谷翔平の大きな目標は、今シーズンMLB30球団のトップの座を自らの参加で達成する経験を実体験して味わいたいところにあるだろうし、そのためにはメジャーリーグベースボールナショナルリーグ西地区で所属するチームのロサンゼルス・ドジャースが地区優勝で、個人記録を追う前に、それに、ドジャースチームの一員として、選手として、全米プロ野球選手として、スポーツ史上最高額の約1.5倍・約1015億円のプレー契約者として、右肘の靱帯損傷でボールが投手として投げられず、打者に専念せざるを得ない者として、指名打者として、打順の位置の責務を果たす者として、残り試合が少なくなった今日、果たすべき役割に貢献することにある筈である。

 

その大谷翔平は、8月30日に43本塁打、43盗塁を達成し終えた。そして皆が共有する目標の一つは、残り試合数僅かの段階で、前人未到の大台・MLB初で、野球史に新たな記録を刻む夢の「50ー50」が達成できるのはいつか、であった。

 

この大記録を大谷翔平自身が考えない訳がない。それを意識すればするほど、その大記録の達成日は遠のくに違いない、

大谷翔平には、他の偉大な選手を超えるとてつもないオーラがある。プレッシャーを感じることもなく、前人未到の目標達成は軽くやってのけるのではないか。プレッシャーなど微塵もないかもしれない。その軽くやってのけることは、誰も真似できないだけに、少しも参考にならない。

 

だが、今シーズンのこれまでの彼の実績からして、彼なら軽くやってのけるとも思えるし、あるいはまた、大谷翔平と言えども30歳の人間である。1015億円というスポーツ史上最高額のプレー契約者として期待がのしかかっているだろうから、日々刻々、彼は内外からの強力なプレッシャーを感じている筈である。

その大谷翔平と云えども、プレッシャーを感じていないとは言えないであろう。

 

だが、大谷翔平も同じ病で悩むことはないのだろうか。

あることを前提にしたとしても、大谷翔平の活躍は破格である。

 

その超人的活躍をする大谷翔平の活躍は、子供から大人まで野球愛好家のみにとどまらず、全世界の多くのファンが、否、ファンでない一般の人もこの記録に固唾を飲んで見守っている。

 

8月31日(日本時間9月1日) 敵地・ダイヤモンドバックス戦に「1番・指名打者」でフル出場し、初回先頭の1打席目に今季5本目で、通算11本目となる先頭打者本塁打を放った。5打数1安打2打点でチームは4連勝。82勝54敗となってシーズン勝ち越しが決まり、2位のダイヤモンドバックスとは6ゲーム差となった。大谷が所属したチームがシーズンで勝ち越すのは7年目で初だ。

8月は12本塁打、15盗塁がともにMLB全体でトップ。12本塁打はジャッジ(ヤンキース)と並ぶトップで、15盗塁はラミレス(ガーディアンズ)の14盗塁を上回って単独トップだ。MLB公式サイトサラ・ラングス記者の「X」によると、本塁打数と盗塁数がいずれもMLB全体トップに立つのは、1967年4月のL・ブロック(カージナルス)以来57年ぶりで、1920年以降では6人目。ブロックは通算3023安打で、149本塁打、938盗塁をマークした。

すでにメジャー史上初となる「43― 43」(43本塁打&43盗塁)をマークしている大谷。月間打率は2割3分5厘だったが、MLB屈指のパワーと、スピードを見せた8月だった

 

そこで思ったことであるが、

プレッシャーを感じていない超一流の選手である大谷翔平の姿は、見たくもないし、他人事ながら見せたくもない。何一つ参考にならない。

超人的活躍をする大谷翔平の活躍を通じて、特に小中学生たちに、プレッシャーの強力な重圧を感じつつ、もがき苦しむ大谷翔平の姿を、見せてあげたい。大目標に挑みながらも、達成へのプレッシャーに打ちのめされるであろうその姿を、苦しみながら突き進むその姿こそ子供たちに見せてあげたい。そう思うのである。

ずば抜けた才能の持ち主であっても、前人未到の壁は、挑戦者に大きく覆い被さるであろう。挑戦者に相応しくとも、精神的に重圧があるはずのなか、目の前の、越えなければいけない目標に向かって、ひたむきに励む大谷翔平の姿にこそ、老若男女を問わず学ぶものがあるが、ほとんどの人が、それを目にしたことがなく、だから素人の一般人であるのかもしれないが、この世に生を受けた者としてのあるべき姿が見えることは意義深い。それは何と言っても、これから発育する子供たちにとって、大きな意味となる筈であるから。

 

8月17日(日本時間18日) 大谷翔平選手 38号ホームラン 、敵地セントルイスでのカージナルス戦に1番指名打者で出場し、五回に4試合ぶりの本塁打となる38号ソロを放った。 これで日本人初のメジャー全30球団からの本塁打を記録。

8月18日、大谷翔平選手 39号ホームラン カーディナルス戦で2試合連続となる39号ソロホームランを打ち、2年連続3回目のシーズン40号に王手をかけました。

ところが大谷翔平は、やはり 7割失敗する 3割打者である。8月18日、39号ホームランを達成し、9月6日 44号ホームランを打つ間の成績は、僅かあるものの、特段目立った記録は出せていない。8月19日~9月 5日までの間こそ、大きな記録で話題となっていないこの期間の大谷翔平の姿を皆は直視するべきではないか。プレッシャーを感じているのか、いないのかは傍目ではわからないが、勝負に行っている大谷翔平の姿は、大いに見る価値がある、と思う。8月19日 ・ 8月20日 ・ 8月21日 ・ 8月22日 ・ 8月25日 ・ 8月26日 ・ 8月27日 ・ 8月28日 ・ 8月29日 ・ 8月31日 ・  9月 1日 ・ 9月 2日 ・ 9月 3日 ・ 9月 4日 ・ 9月 5日は、目立ったことはなかったのか。ここに大谷翔平選手の苦悶が隠されているのであろうか。見過ごしてしまっている。

 

 

その後、記録は以下のように推移した。

 

9月 1日 

 9月 2日 

 9月 3日 

 9月 4日 

 9月 5日

 9月6日  44号ホームラン

 9月7日 ガーディアンズ戦で5試合ぶりとなるソロホームランを打って今シーズンに、メジャー史上初45-45達成 45本塁打46盗塁100打点を達成。

地区優勝を争うダイヤモンドバックス戦で44号先頭打者ホームランを打つなどチームの4連勝に貢献した

これで大谷選手は大リーグで初めてホームラン、盗塁の数で共に「45」以上を記録した選手となった

 

 9月 8日(日本時間9日)、ガーディアンズ戦で2試合ぶりにホームランを打ち、自己最多に並ぶシーズン46に到達した。これでホームランと盗塁の数がともに「46となり、2つをあわせた大リーグの記録を更新し続けている

 

 9月 9日(日本時間10日)

 9月10日(日本時間11日)

 9月11日 47号ホームランを打ち、シーズン自己最多の46本塁打を更新した。

本拠地ドジャー・スタジアムで行われたカブス戦で初回から打球速度約190キロの弾丸ライナーをスタンドに運び、47号ホームランを打ち、自身が持つ日本選手のシーズン最多ホームランの記録を2021年に更新し、シーズン自己最多の46本塁打を更新した

 

 9月12日

 9月13日

 9月14日

 9月15日

 9月16日

8月19日~この日までの間、大谷にしてみれば、上のように空白が目立っていた。スランプだったのかと当時勝手に思っていたが、豈(あに)はからんや、この頃大谷選手は、自分の記録はほとんど意識せず、チームが勝利するために専念していたようである。自分は今、何をすべきか、がわかっていて、それに淡々と集中して、実現して行った。これができるのであるから、大谷は凄い。だから愛される。嫌いだと思っている人は居るのだろうか。素直な気持ちで「忘己利他」をスマートに実現するところに、その素地が生まれるのだろう。

 

 9月17日(日本時間18日) マーリンズ戦でMLB史上初となる48本塁打・48盗塁の「48-48」を達成

 

 9月18日(日本時間19日)  49盗塁

 

 

 9月19日(日本時間20日) 敵地フロリダ州マイアミでマーリンズ戦の第4打席で49本塁打51盗塁の「4951」として「50ー50」に王手をかけた。

同日、シーズン50本塁打50盗塁の「5050を達成した。この達成はMLB初で、野球史に新たな記録を刻んだ前人未到の大台

「50―50」まであと2本塁打、1盗塁に迫っていた大谷は、米フロリダ州マイアミであったマーリンズ戦の一回と二回に盗塁を決めて51盗塁とし、六回に2点本塁打を放った。偉業に王手をかけて迎えた七回、2点本塁打を放った。

この日、6打数6安打3本塁打、2盗塁、10打点という派手な活躍で、 大谷は九回にも3点本塁打を放ち、51本塁打、51盗塁51ー51」となった。自己ワースト40打席HRなしからのMLB史上初の“51ー51”

 

ベーブ・ルース以来の二刀流戦士、史上初の「50-50」到達など、これまで不可能とみられていた偉業を次々と成し遂げ、米球界に多くの金字塔を刻んできた大谷。残り試合数を考えれば、「実現困難」との声が多く挙がるのは否定できないが、もしかしたら今の大谷なら...その可能性を期待してしまうほど、大谷のポテンシャルは計り知れない。

 

10打点はドジャース記録で、自己最多3本塁打も自己最多(1試合2本塁打は18回)と、記録ずくめ。50-50はもちろん、メジャーで唯一無二のマイルストーンである。

 

9月20日

9月21日

ドジャースタジアムでのロッキーズ戦に 1番指名打者で出場し、2試合連続の本塁打となる52 2ランを放ち、52盗塁目となる二盗を決めた。4打数 3安打 2打点で、6―4の勝利に貢献した。

大谷翔平投手(30)が、両部門同時に史上最多を更新する「5252」とした。5回2死二塁の第3打席で驚異的な悪球を打って、2試合連続の52号逆転2ランとした。さらに7回1死一塁の第4打席では一塁への内野安打で出塁すると、二盗に成功した。これで今季の盗塁数を52個目とした。盗塁と本塁打を1試合で記録したのは、今季14試合目。並んでいた1986年のリッキー・ヘンダーソン(アスレチックス)を抜いて、1900年以降では単独で史上最多となった。

 

ドジャース大谷翔平投手(30)が52本塁打、52盗塁の「52-52」に到達した。5回の第3打席でバックスクリーン左へ2試合連発となる52号逆転2ランを放つと、7回には内野安打を放ってから二盗に成功。これで今季52盗塁とし「52-52」を達成した。

 

52号本塁打は地上から3・86フィート(約118センチ)の地点で、見逃せば間違いなくボール球。MLBのラングス記者によると、大谷の本塁打では21年5月17日インディアンス戦でヘンジスから打った通算60号の4・19フィート(約128センチ)に次いで、2番目の高さ。

 

本塁打はナ・リーグトップ独走だけでなく、ア・リーグ最多のジャッジ(ヤンキース)に1本差と迫った。両リーグ1位となれば初めて。昨季は44本で初のア本塁打王も、両リーグ1位はナのオルソン(ブレーブス)の54本。大谷は全体4位だった。

 

盗塁と本塁打を1試合で記録したのは今季14試合目。並んでいた1986年のリッキー・ヘンダーソン(アスレチックス)を抜いて、近代野球の1900年以降では単独で史上最多。

 

大谷は前日に3本塁打6安打10打点2盗塁、この日は1本塁打3安打2打点1盗塁。2試合合計で9安打&12打点は、打点が公式記録となった1920年以降で史上初。2試合で4本塁打&3盗塁も史上初。

 

大谷は、この2試合だけで打率を1分上げ、2割8分7厘まで落ちていた打率を2割9分7厘とした。残り8試合で1試合あたり4打数を想定すると、3割到達には32打数12安打(打率3割7分5厘)のペースが必要だが、3割クリアで日本人初のトリプルスリーなるか

 

試合終了時のインタヴュアーが、記録が続いていることの質問にたいし大谷は、「記録を意識するとプレッシャーを感じるので、無心でやっている」と答えた。

これを聞いた通訳がインタヴュアーにそれを伝え、聞いたインタヴュアーは少し笑顔を見せて、インタビュを終えた。

通訳とインタヴュアーは、この「無心」について、それ以上踏み込むことはしなかったが、大谷翔平 (30歳)が、バッターボックスに立つときのいつも、「無心」になっていたその結果の記録であったことを、この、インタビュで知った。

 

 

無心とは何か

「無心とは、常識や論理が無意味で無価値の境にある心」鈴木大拙がこのように定義する

道元の「心身脱落」、良寛の「心身総脱落」と、同意語であろうとは思う。

 

それにしても、大谷翔平だからこそ、無心になれるのだろう

 

 

カージナルスのヌートバー外野手が 9月18日、大谷が前日、自身の打撃について「構えた時にあまりいい未来が見えてこない」とスランプについて語った。そのことを聞いたヌートバーは「もし、彼がスランプなら、他の選手は何て呼べばいいのかな」と笑い、「調子はよさそうだし、今日も同じように変化球を芯で捉えて右翼に本塁打を放った。彼のような男に、本当のスランプはないよ」と語った。


 

 

9月22日   コロラド・ロッキーズと対戦。 大谷翔平は9回に53号ホームランを放った。 「5352」。北米プロ野球MLBは現地時間9月22日、公式戦16試合を実施した。

 

9月23日 今季3度目、通算10度目となる週間MVP(16~23日)を受賞したと発表した。大谷は7試合に出場し、32打数16安打(打率.500)、6本塁打、17打点、7盗塁をマーク。出塁率(.543)と長打率(1.125)を足し合わせたOPSは1.668という圧倒的な成績で、この期間に史上初の「50本塁打-50盗塁」を達成した。
 

9月24日(日本時間:9月25日) ジャイアンツ戦に先発出場したが、4打数ノーヒットに終わり、チームの連勝も「5」で止まった。

9月25日(日本時間26日)、ドジャース・大谷翔平投手が本拠地・パドレス戦に「1番・指名打者」で出場。6回に中前適時打で出塁すると今季56個目の盗塁を決め、イチロー氏の持つ日本選手最多に並んだ。これで更新し続けるメジャー記録を「53本塁打&56盗塁(53-56」とした。

 

9月26日

9月25日

現地時間9月27日(日本時間28日)

ドジャースの大谷翔平が、敵地でのロッキーズ戦に「1番・DH」で先発出場。3‐1で迎えた2回一死一・二塁の第2打席で右前への適時打を放ち、すかさず二盗に成功。今季57盗塁を決め、2001年にイチローがマークした56盗塁を超える日本選手のシーズン最多記録を更新した。これで「5357」を達成した。

 

9月28日(日本時間29日)、 

ドジャース・大谷翔平投手(30)が敵地・ロッキーズ戦に「1番・DH」で先発出場。6回に日本人選手最多をさらに更新する58個目の盗塁をマークした。7月22日の失敗を最後に、35回連続成功となった。

 

9月29日(日本時間30日)

ドジャース大谷翔平投手(30)の24年レギュラーシーズンを終了。59盗塁をマークし、野手に専念した今季、イチロー氏がマリナーズで01年に達成した日本人最多盗塁記録「56」を更新した。

この日の大谷は1-1の8回1死一塁から右前打で出塁。ロッキーズが守備のタイムを取っている間に、二走の34歳バーンズへ「走れ!」と言わんばかりに、身ぶり手ぶりを交えて盗塁をアピール? 直後にダブルスチールが成功し、今季59個目の盗塁に成功した。

来季は二刀流復活のために盗塁数は減少することが見込まれるが、「打者大谷」のポテンシャルを見せつけた24年レギュラーシーズンだった。

 

ナ・リーグのレギュラーシーズン全日程が9月30日(日本時間10月1日)に終了し、ドジャース・大谷翔平投手は54本塁打130打点本塁打王、打点王の2冠を手にした。また、59盗塁はメジャー2位。116年ぶり3人目の偉業を達成した。

 

 

10月 6日米大リーグ・地区シリーズ ドジャース対パドレス第 2戦を前にしてドジャース大谷翔平は、記者の質問にたいし、ダルビッシュ有投手(38)のプレッシャーついて語った。ダルビッシュと云えどもプレッシャーがある意であった。

そして迎えた第 2戦の二人の勝負の結果は、以下のとおりとなった。

パドレスのダルビッシュ有投手(38)が6日(日本時間7日)、地区シリーズ(S)第2戦の敵地・ドジャース戦に先発し、「1番・DH」で出場した大谷翔平投手(30)を3打数無安打に封じるなど、7回3安打1失点と好投して勝利投手となった。大谷に対しては、多彩な変化球を使って的を絞らせない老練な投球で翻弄(ほんろう)。田中将大に並ぶ日本人最多のポストシーズン(PS)5勝目を挙げた。

 

 

 

 

 

 

 6■ Here & Now

 

禅語に「而今(にこん)」 というのがある。

 

時は絶え間なく流れ去る。今という時間も容赦なく過去に

なる。

過去は戻ってこない。来ないがその上に今があり、

明日も明後日も今のうえにある、

と言いたいところであるが、

明日のことは誰も分からない。

 

分からない明日を当てにせず、今を生きる。

 

どのように生きるべきか。

その答えが、而今という禅語にある。

 

それは、

「今のこの瞬間を生き切る」

とか。

 

似たことばに
 
「今、ここに」。・・・ 
 
がある。英語で言えば Here & Now 
となるらしい。
 
 
「生かされているこの瞬間を大切に」と、
理解している。
 
 

何を大切にするのか。

自分のためにではなく、人のためにらしい。

 

難しいテーマだが、

時折思い出して、軌道修正していきたい。

 

 

(6■ Here & Now)

 

 
 

 

 5■ 独楽とF=ma

 
 
独楽は、
勢いを増せば増すほどに澄んで立つ。
微動だもせず、
唯ひたすらに一点に絞って集中する。

 

 
澄んで動かない様は、
静止しているかのように錯覚する。
まるで、
動いていないかのように覚えるが、
どっこい、生き生きと、
そして
はつらつとしている。

 

しかも無理がなくムラがない。
動きに無駄がない。
 
生きるには、
成長するにはこうありたいと思わせる。
 
 
企業は元来システム上、
衰退するようにできている。

 

が故にその前提の下、
理念や事業目的、方針に向けて、
ひたすら微動だもせず、
澄んで立ちながら勢いを増すことで
事業を発展させ成長を続けること
を目指す組織体でありたい。

 

独楽はそう思わせる。
 
そこには、
より高い成果を生み出す人々の
努力が基底にあって、
それで得た知恵が仲間に共有され、
それが引き継がれる健全な組織体が
発展に貢献する ・・・ 
企業組織もこうありたいと、
独楽の澄んだ動きを見てそう思う。

 

 
この実現のためには、
まず活動のテーマと解決に関する知識、
知見を必要とする。

 

それは、真摯な試行錯誤の経験と、
スキルを磨くことに働き、
より大きな結果を出すためには、
更に高い適性能力が求められる。

 

換言すれば、企業が成果を生み出すには、
結果を出す知識、経験、スキル
が根底にある。

 

独楽はその塊であると見る。
 
企業は組織体であるから、
推進プロジェクトとしての
適性能力はビジネス体質と体力
に現れている。

 

知識、経験、スキルは、
テーマ解決に必要なクロスファンクション
で実現させるから、
推進プロジェクトは
それを
チームワークで目指す
ことになる。
 
ここまでが動く前の独楽の塊である。
 
その独楽に力を加え、回転させる。
企業も
そうしなければただの集合体でしかない。
 
スピードを加速させると、
力は増強し回転が高まる。
組織体もこうありたいと独楽を見て、
そう思う。
 
 
 
独楽は更に教えてくれる。
知識、知見は遠心力が働き、
不要なものは外され、
必要なものが回転軸に向けて
求心力が高まり、
目的と目標達成に向けて
の強い達成意欲を感じさせる。

 

 
この回転よるコンセントレーションが、
スパイラルとの往還の関係をもつことを。
独楽のそれを見ると、
成果という一点に集中している
ことに気づく。
集中して動いているその姿こそ
独楽の塊である。
健全な組織体とは、
このようなものを指すのであろう。

 

 
営利企業の目指す成果(目的・目標)は、
質の高いお客による
リピートの売上げを拡大し、
安定した大きな利益を得、
競合他社に勝利しシェアを高めるために、
需要の喚起・拡大策を講じつつ
顧客づくり(拡大・育成と固定化)
であるが、
このために
経営資源(ヒト・モノ・コト・カネ・
時間・情報・システムなど)を
最小のコストで活用し、効果を最大にする。

 

合わせて、
あるべき姿と現状のギャップを事実でおさえ、
願望達成のため
障害要因を取り除き改善を加え、
価値のある具体的な方策を講じる。
これらを見据えて、
人間ならではの知恵で
仕事をクリエイトするその集団で、
エネルギーを込める ・・・。

 

大きな成果を生産性を高めて得るには、
テーマは絞って集中させること
が肝要であろう。
独楽の回転が一定のパワーとスピードが続く限り、
 
澄んで立ち続けるのと同じように。
 
 
いわば加速度をつけた
エネルギッシュなパワーで当たり、
成長を持続させる
その結果においてのみ
ビッグな成果(目的・目標)成果は
得られるものであろう。

 

終わるまで常に成長をし続ける。
これが
尽きることのない事業繁栄の秘訣である。
適性能力で澄んで立ち、
そのパワーに値する更なるパワフルな
エネルギー(達成意欲)が必須条件
であるはずである。
 
 
まさに独楽がそうであるように、
事業もまた
このニュートンの第二の法則
 
F=ma
 
の不変の法則が証明してくれている。
事業も人も、身命の存する限り、
これを基底にして
これに当たることではないか。
 

(5■ 独楽とF=ma)

 


 
 

  4■ 加賀の芭蕉

 
 
元禄2年7月25日、
芭蕉が小松を出発しようとしたところ、
 
多くの蕉門の門人たちに引き止められて、
予定を変更し、
 
多田八幡を訪ねて、その2日後も訪れ、
 
 
むざんやな 甲の下の きりぎりす
 
の句を奉納した。
 
 
その小松にやって来る前
芭蕉は、
 
金沢に7月15日
(現在の8月29日)~23日まで
 
宮竹屋伊右衛門、俳号小春(しょうしゅん)
の父
宮竹屋喜左衛門俳号竹雀(ちくじゃく)の
経営する旅篭に滞在している。
 
 
川原町(現在、片町)の
宮竹屋は薬種商で、
屋敷は、
片町のスクランブル交差点の位置に
あったが、
 
今は途絶え、
現在「芭蕉の辻」と刻まれた標注が立ち、
 
屋敷内の茶室は俳号をとって「小春庵」
と言っていたが、
金沢の料亭「つば甚」に移築され現存している。
 
 
 
元禄2年7月16日。快晴。
 
金沢在住の門人の竹雀が、
駕篭を差し向けて出迎え。
 
竹雀の営む片町の宮竹屋で
加賀蕉門の門人ら多数と会う。
 
24日の朝、野々市、松任、小松へと向けて
出立するまでの8日間ここに滞在した。
 
門人たちの熱狂的な歓迎振りが
うかがえる。
 
 
 
金沢に来た目的は、
 
金沢在住の俳人の
仲間である「喜左衛門こと俳号竹雀」と
「小杉一笑」を訪ねることにあったが、
 
竹雀と牧童
(後に
芭蕉と那谷寺まで旅を共にする
立花北枝の兄)らが急いでやって来て、
 
昨年の1688年12月6日
一笑の死(享年36歳)を初めて知らされた。
 
 
追善句会を催し、
「塚も動け我が泣く声は秋の風」
と慟哭の句を詠んだ。
 
 
翌17日。日中は快晴だった。
 
芭蕉は宮竹屋の近くの犀川に吟行し、
西の空を仰いで構想し、
 
北枝(のち蕉門十哲の 一人)の庵の
源意庵に招かれて納涼の句会の席で
 
 
あかあかと日はつれなくもあきの風 
 
 
と詠んだ。
 
夜になって雷雨。深更になって雨上がる。
 
 
弟子の 河合曾良は体調悪く休息。
 
一人宮竹屋に残ったようで、
随行日記には多くを語っていない。
 
北枝(加賀小松生)は、
 
 
石山の石より白し秋の風
 
 
と詠んで名高い
高野山真言宗別格本山那谷寺(なたでら)
まで同行している。
 

(4■ 加賀の芭蕉)

 


 
 
 

3 ■ 秋(とき)

 
 
 

諸葛孔明の秋(とき)

 

 
秋長けて装うて眠る男体山
 
 
「涙を揮いて馬謖を斬り ・・・ 云々
で有名な
 
諸葛孔明の、
 
「魏を討つべし」と
帝に上奏した『出師(すいし=出兵)の
(ひょう)』に
 
 
此れ誠に危急存亡の秋(とき)なり ・・・
 
のくだりがある。
 
緊急事態が目前に迫っていて、
生き残るか滅びるかの、
かなりきわどい瀬戸際に立たされているとき
 
と解されている。
 

(3■ 秋(とき)●諸葛孔明の秋)

 

 

高杉晋作の秋(とき)

 
 
この秋(とき)は、
 
高杉晋作が残した
「まさにこれ邦家(日本)存亡の秋 ... 」
にも見られる。
                    
 
(内憂外患わが洲に迫る 
まさにこれ邦家存亡の秋(とき) 
まさに回天回運の策を立てんとす 
親を捨て子を捨つるまた何ぞ悲しまん
 
(内憂外患迫吾洲 正是邦家存亡秋 
将立回天回運策 捨親捨子亦何悲)
 
 
師吉田松陰の教え
 
「死して不朽の見込みあらば
いつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらば
いつでも生くべし」
 
に影響されていると思われる。
 
 
このように、
 
覚悟、決断、決意、決着を付ける、
英断あるいは座標軸転換の「とき」
にこの「秋」の文字を用いるようである。

 

(3■ 秋(とき)●高杉晋作の秋)

 

 

●「実り」と秋(とき)

 
「秋(とき)が来た」とか、
「秋(とき)は、今」という風に。
 
 
やはり、
「実り」と深い関係がありそうだ。
 

(3■ 秋(とき)●実り」と秋)

 

 

● 秋という漢字の成り立ち

 
 
秋という漢字の成り立ちは、
 
収穫した麦を乾かしている様子を表わす
会意文字だそうである。
 
古字は「龝」であるが、
その旧字は龜の下に「火」があった。
 
このように秋は元々、
「禾」と「龜」と「火」を合わせた文字。
 
 
 
のぎへん(禾)は、
「穀物・麦」を意味し、
 
龜は害虫を表わし、
火をもって「乾かす」と解し、
 
略して秋は、
「収穫した麦を乾かす」としていた。
 
 
生きて行くうえで重要な食物が
不安定で不足していた時代の
「稔り」とか「収穫」は、
 
現在では
想像もできないものであった
にちがいない。
 
 
 
秋は穀物をはじめ
収穫物をとり集めるとき。
夏の間に伸び広がった万物が
ぐっと縮むとき。
 
一年で
最も重要な時期であることから、
重大な時機を表す。
 
収穫の秋がなければ
寒くて厳しい冬を過ごすことが
できない ・・・ 。
 
 
「秋」の字を使うことで
重要な意味合いを強調してあらわし、
 
が故に
「秋」の字を「とき」として
使ったのであろう。
 

(3■ 秋(とき)●秋という漢字の成り立ち)

 

 

● 万物が衰え始める時の秋

 
 
 
反面、
『心細い』ときも、
 
使われることがあるようである。
 
秋というのは、万物が衰え始める時
でもあるからだろう。
 
 
秋から冬へ
自らを衰退へ導くか、
冬を乗り越え次の春に芽吹き、
実りへと繋げるか ... と
篆刻作家中川古啓氏は
秋(とき)を語っている。
 
 
それぞれの果物の実る時期
が違うように、
わたしたち一人ひとり、
実りの秋は異なる。
 
北方謙三は、
「人には、
それぞれ与えられた秋(とき)がある」
と言っている。
 

(3■ 秋(とき)●万物が衰え始める時の秋)

 

 

● 時間との関係

 

こうしてみると、
 
秋(とき)と時間は、
切っても切れない関係にあるようである。
 
「秋の日はつるべ落とし」 
 
(秋になると
 
だんだん昼間が短くなって、すぐに夜がくる)
 
 
「秋」の時間は大切。
 
秋分の日を過ぎると
次第に昼が短くなって
夕方の暗くなるのが早くなり、
夜が長くなる。
 
よって、うかうかできない。
すぐに夜になるので、
秋の昼間は大事にし、
しっかり仕事や勉強をしなければならない
との教えでもある。
 

(3■ 秋(とき)●時間との関係)

 

 

● 大事な時、大切な時、特に重要なことのある時期、秋(とき)

 
 
大事な時、大切な時、
特に重要なことのある時期、
秋(とき)の意識と認識は、
 
このようにして生まれたのだろう。
 

(3■ 秋(とき)●大事な時、大切な時、特に重要なことのある時期の秋)

 

 

● 吉川英治の『新・平家物語』の斎藤別当実盛と「秋(とき)

 

「秋」を「とき」と読ませることがある。
 
吉川英治の『新・平家物語』(十一)の、
 
「源氏の内輪もめが幸いして、
都落ちした平家は
急速に勢力を挽回していた。
西海は一門の軍事力の温床、
瀬戸内には
平家の兵船が波を蹴たてて往きかい、
着々と反攻の秋(とき)を窺っていた。
わけて一ノ谷は天険の要害、
平家自慢の陣地だった。
加えて兵力では、
平家は源氏の何倍も優位にある。
しかし、地勢と時と心理とは、
まったく平家に不利だった。
義経軍の坂上からの不意打ちに
算を乱して敗走する ・・・ 」
 
云々ではじめてこの言葉を知った。
 
このように「秋(とき)」は、
「特に重要なことのある時期」の意らしい。
 
 
 
秋(とき)という言葉こそ出て来なかったが、
 
吉川英治の『新平家物語』を持参して、
記載された現場と思われる場所を訪ね、
 
そのくだりを探したことがある。
 
 
そこは、
 
石川県加賀市にある柴山潟と日本海とに
はさまれた起伏に富んだ砂丘の
 
篠原の古戦場の一角。
 
目的地は、
 
片山津温泉の北、
湖畔に近い手塚山を背にした松林の中
にあった。
 
一人の武将の墓である。
 
 
芭蕉が
小松の多太八幡宮神社にて詠んだ
 
「むざんやな甲の下のきりぎりす」
 
の兜の持ち主の墓である。
 
 
斎藤別当実盛。
 
平治の乱で
源義朝が失脚した後寝返って、
平宗盛に仕えた。
 
 
倶利伽羅で戦に大敗した平家の軍勢が
木曾義仲の軍団を
なんとかくいとめようと試みて失敗した
のが篠原の辺り。
 
炎天下、
七十三歳の実盛が錦の鎧直垂に身をかざり、
 
老いを侮られないようにと白髪を染め、
 
松の下に腰を落として敵を待ち、
 
見込みのありそうな若武者
手塚太郎光盛に手柄を立てさせ、
 
劇的な最期を遂げた。
 
 
彼にとって
ふる里であった北陸での終焉であった。
 
 
かつて実盛は、
 
平治の乱で源氏の武将で、
敗走する主君源義朝を助けて奮闘した。
 
義仲の父親である源義賢は、
 
義朝の長男・悪源太義平の手にかかって
討たれた。
 
追われる身となった二歳の義仲を、
 
実盛は自分の子供として一時手元に匿って
幼少期まで養育した。
 
敵の義仲にとって実盛は、命の恩人であり、
 
幼少期までは実盛に養育された
という因縁があった。
 
 
首を池で洗わせると、
墨で塗った黒い髪がみるみる白くなり、
 
幼い頃に命を救ってくれた実盛の首だ
とわかった。
 
義仲は
無惨な最期に
人目もはばからず泣き崩れたという。
 
そして
兜と鎧の大袖などを小松の多太神社に奉納し、
手向けた。
 
 
実盛にとって
 
最後の「特に重要なことのある時期」
すなわち「秋(とき)」であったろう。
 
わたしもそろそろ、
白髪を染めて手柄を立てさせる歳になってきた。
 

(3■ 秋(とき)●吉川英治の『新・平家物語』の斎藤別当実盛と秋)

 

 

● 「元服」、今日的制度へのリニューアル

 
 

ここで「元服」について触れたい。

中国古代の儀礼に倣った男子が肉体的、

精神的に

一応の発達段階に達したと認められたとき、

成人になったことを社会的に承認し祝う

通過儀礼の儀式として行われた。

通過儀礼としての成年式自体は

民族誌的にも普遍性をもつようである。

天皇、皇太子の例では

十一歳~十六歳ぐらいが通例で、

一般に元服の際に叙位、任官が行われる

ことから年齢が下がる傾向もあった。

天皇の元服は

正月1日より5日の間の吉日を選ぶ定め

であったが、

一般でもこれに倣って正月に行うことが多い。

また古くは夜に行われたが、

江戸時代にはおおむね日中に行われる

ようになっていた。

 

「元」とは首(こうべ)、

「服」とは冠の意とされ、

元服以前には童(わらわ)とよばれて

頭頂をあらわにしていた男児に、

成年の象徴としての冠を加え、

髪形、服装を改めることにあり、

これを期に社会的に一人前の扱いを

受けることになる。

 

遡っては、

聖徳太子元服の所伝もある。

聖徳太子は

574年の誕生であるから、

589 年十五歳前後のこととなる。

その後、推古 元(593)年 

敏達天皇の皇后であった推古が

即位し天皇となった翌年、

聖徳太子は摂政となる。十九歳であった。

 

7年後の推古 8(600)年 

第一回遣隋使派遣。

 

推古 9(601)年 

聖徳太子、斑鳩宮建立開始。

 

推古11(603)年 

冠位十二階制定・太秦に広隆寺建立。

 

推古12(604)年 

十七条憲法制定。

 

推古13(605)年 

斑鳩宮完成し聖徳太子移り住む。

 

推古15(607)年 

法隆寺建立される・四天王寺落成する・

第二回遣隋使(小野妹子等)を派遣。

孝徳天皇の

大化2(646)年1月

「改新の詔」発布される ... と時代は進み、

奈良時代(西暦672年~)を迎える。

元服と呼ぶのは奈良時代以後のようである。

 

 

そこで、

ブッダの教えの「十二縁起」

が日本に到来したのがいつかはしらないが、

わが国への仏教伝来は、

欽明天皇在位の552年(538年説もあり)

百済から公式に伝わる。

聖徳太子誕生の22年前、または

36年前のことであったから、

その時代に「十二縁起」の

⑹ 触(そく)~⑼ 取(しゅ)を意識して

の元服が儀式化されたと想像できなくもない。

 

冠礼としての成人式は、

日本古代では飛鳥時代の

682 (第40代天武天皇在位の天武11) 年に

規定された男子の結髪加冠の制以後、

冠帽着用の風習が普及した。

 

また、国史に見えるものとしては

和銅7(714)年の聖武天皇(十四歳で元服)

の記事が初めとされている記載もある。

682年のことであるから、

仏教伝来以降130年または144年後の

規定となるから、

あながち無縁ではないだろうと

憶測している。

 

もっとも、

天武朝に結髪加冠の制が定められてのち、

和銅7(714)年6月の

皇太子(のちの聖武天皇)元服の記事が

国史では初見(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)で、

貞観859~877年のころ

大江音人が唐礼によって制した定式が

以後範とされたと伝えられる記事もある。

 

公家、武家を通じて行われた。

江戸時代、結婚した女性が歯を黒く染め、

丸まげを結い、眉をそったことも元服と言った。

 

これを機に、

幼名から実名に替えることも

いつの頃からか習慣化された。

名が替わると人格も変わるから

これは大きな意味をもつ 。

社会的に一人前の扱いを受ける。

 

現代では

二十歳になっての成人式が

それにあたるのであろうが、

むしろ

十五歳の元服も現代版としてあってよさそうである。

ジャネーの法則によると、

人生80年としたときの折り返し点は

四十歳ではなく十歳

であるから、

もっと早くても良いように思える。

取り返しのつかない人だらけではないか。

 

この 5年~10間のギャップは大きい。

結婚できる年齢(婚姻年齢)は男性は十八歳以上、女性は十六歳以上(民法第731条「婚姻適齢年齢」)となっているが、

令和 4('22)年4月からの施行予定で

女性が結婚できる年齢が十八歳に引き上げられる。

このことにも関連するが、

人の一生で十歳から十六歳くらいの間は人間形成のうえで極めて重要な時期と見たとき、昔の十五歳前後よりも下げて、九歳から十二歳の小学生高学年の間には元服式の実現を提唱したい。

それに向けての

親や兄弟あるいは地域社会の大人たちも意識が変わるのではないか

 

 

 

ブッダの「十二縁起」における

⑴ 無明(むみょう)

⑵ 行(ぎょう)によって受胎し

⑶ 識(しき)を得て、胎内で

⑷ 名色(みょうしき=心身を発達)させ

⑸ 六入(ろくにゅう)または六処(ろくしょ)=感覚器官が育ってのち誕生し、

⑹ 触(そく)=二~三歳頃までモノに触れ

⑺ 受(じゅ)=六~七歳頃に苦楽を識別して感受し

⑻ 愛(あい)=十五歳頃から欲を生じ

⑼ 取(しゅ)=執着し始める、この間の一歳~十五・六歳くらいまでの家庭教育・学校教育・社会教育は、

抜本的に見直しても良いのではないかと、「十二縁起」は示しているように受け止めるのである。

 

これもまた「秋(とき)」である。

 

(3■ 秋(とき)●「元服」、今日的制度へのリニューアル)

 


 
 
 

 2 ■ 大乗寺と加賀コミューン

 
 
金沢市の
野田山丘陵のその一角に
大乗寺山(長坂山)があり、
 
その中腹に、
 
道元・懐奘のあとを継ぎ、
永平寺三世となった
徹通義介禅師を開山とする大乗寺がある。
 
永平寺の門葉の四代表寺院の一つで、
曹洞宗の永平寺から。
 
 
道元が
宋から帰国の際一夜で書きうつしたとされる
『一夜碧巌集』(国指定重要文化財)
がこの寺にあり、
 
のちに
曹洞宗大本山總持寺を開創した
瑩山紹瑾禅師や、
 
明峰素哲禅師も
ここ大乗寺最初の首座となり
修業されたという、
修行道場と伽藍を持つ禅寺らしい禅寺である。
 
このように、
北陸の金沢や加賀について特筆すべきことを列挙し出せば、
枚挙に暇がないと言えるほど、
本当に多すぎるくらい特別なことが多岐に亘り様々なのであるが、
 
だが
敢えて一つだけに絞るとすれば、
 
「加賀コミューン」
 
と、キッパリと答える。
 
 
はじめに述べた大乗寺山の山頂からの眺望は、
素晴らしい。
 
右手前に金沢市街地が見渡せるが、
ことに日本海までも見渡せる加賀平野の景色の眺めの良さは絶景である。
 
この中腹にある大乗寺よりも
さらに高い位置に、
この景色を見下ろすように銅像が建って居る。
 
蓮如上人像である。
 
曹洞禅の寺の上に、なぜ浄土真宗中興の祖があるのかと疑問を抱く人も多いと思われるが、
 
この像が謎解きの「加賀コミューン」と関係があるのだ。
 
 
「加賀コミューン」。
 
1488年から1582年にかけての一世紀にわたって、
 
日本史上に類例のない「共和国が存在していた」という事実である。
 
一向一揆とよばれる本願寺門徒によってつくられ自治した「百姓ノ持タル国」であった。
 
当然ながら、
この勢力は、
越中や能登で
戦国大名が育つ妨げとなった。
 
越前の朝倉氏や越後の上杉氏の
天下統一の野望をも打ち砕いた。
 
このアンチ中央の自治への強い志向は、
この地に住む人々の心の中に、今もなお潜在しているという。
 
蓮如上人(の銅像)は、
その加賀地方を見下ろし、
 
『白骨の御文章』を著したと言われる遠く吉崎御坊を眺望しておられる。
 
大乗寺は、
加賀コミューン崩壊115年後の1697(元禄10)年に現在の地に移転して来た。
 

良寛さ(ん) も、

良寛さの師・玉島円通寺の大忍国仙和尚と

その法嗣永平寺五十世 玄透即中も、良寛さが尊敬した大而宗龍禅師と大先輩の円通庵(田面庵)東岫有願も、

ここ大乗寺

二十六世月舟宗胡の法系下にある因縁の寺であった。

 

( 2 ■ 大乗寺と加賀コンミューン)

 


 
 
 
 

 1■ 板屋兵四郎と兼六園にも注がれた辰巳用水

 
 
① 寛永時代金沢最初の大火「法船寺焼」
 
 
江戸期を通じて金沢は大火に何度も襲われているが、
 
その最初の大火が「寛永の大火」。
 
寛永8(1631)年4月。
 
武士による放火で長町武家屋敷の南西、
法船寺門前の
民家(現在の中央通町11)から出火。
 

 

南西からの強風に乗って、
金沢の町を総なめにして城下を焼きつくし、
 
民家6000戸をふくむ焼失家屋1万戸以上
の大火となった。
 
金沢城にも火が掛かり全焼。
 
 
強風はもとより、
消火の水がないことも大きな被害に
拍車を掛けた。
 
特に金沢城中には井戸しかなく、
堀はあっても空堀で水は無し。
燃えるに任せる状態であったという。

 

寛永の大火は、
金沢における弱点をさらけ出した。
 
 
三代藩主前田利常は
あまりの惨状に、水の必要性を痛感した。
 
安全な新しい町づくりのために
用水路掘削と水道の整備を決断し、
この建設を計画することにした。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水  ① 寛永時代金沢最初の大火「法船寺焼」)

 

② トライアングルのクロスファンクション
 
 
しかし城は、
街が見渡せる高台の上にある。
言い換えれば水利の悪い位置にあった。
 
そこで利常が
前田家の総括奉行に任命したのが、
稲葉左近。
 
左近は
かつて公事場奉行や御算用奉行
(用水の建設資金調達の責任者)で
活躍した実績があった。

 

そして左近は、
工事の設計と監督に板屋兵四郎を抜擢し、
共に一連の大事業を成し遂げるのであるが、
 
兵四郎は
はじめ再三辞退したという。
 
調べた限りその理由は不明のままであるが、
おそらく
それほどこの工事の条件は難題であった
のではないかと見ている。
 
 
 
だが結局兵四郎は引き受けた。
 
何故なら、
解決できる人がこの人以外に居ない
ことで説得されたのではないかと
推測できるからである。

 

その証明は、
 
下記● 辰巳用水プランの課題
● 辰巳用水工事の概略
■ トータル的に俯瞰して捉えた創造的、
有効的、効率的な実践に目を通せば、
 
うなづけるはずである。
 
その板屋兵四郎を担当につけ、
更に陣容を固め、
資金調達等のマネジメントで手腕を発揮した
と思われる
稲葉左近の存在も大きい。
 
もちろん、
「寛永の危機」で
江戸幕府に嫌疑をかけられながらも、
噂には根拠がないと弁明し、
これが巧を奏して何とか事なきを得、
 
嫡子光高に、
将軍家光の養女(水戸光圀の姉)を
正室にむかえ、
徳川家との関係をさらに強くするなど
の手を打ちつつ、
工事着工から完了後まで
最高責任者として全責任を全うした
三代藩主前田利常の
力量も見落とせない。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ② トライアングルのクロスファンクション)

 
 
③ 辰巳用水計画の課題
 
 
三代藩主前田利常が
稲葉左近に指示し、
そして板屋兵四郎が陣頭指揮で行なった
用水路掘削と水道の整備工事は
「辰己用水」と呼ばれ、
その働きは、
その後
紆余曲折がありながら現在も生かされている
のであるが、
 
城内や金沢市内あるいは広大な農地に
注がれている大量の水は、
 
今から約370年前の江戸初期に
造られた用水で、
実に、手堀りの水路なのである。
 
現役の水路 として役立っているということが、
その技術水準の高さを証明している。
 
水を城中や堀、田畑に引き入れるのは
「川」からという考えは
至極当然で常識的なことである。
 
浅野川よりも水量豊かなのは犀川であるから、
この川を水源とすることは、
誰もが思いつくことであるが、
問題は、
幕府に対し
極秘裡に城中や堀に水を引き込む工事
を行うことであり、
 
また城や堀は高台に在る。
この高台へどのように流し込むかであった。
 
高低差のある地形を登らせるために
どうするかだ。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ③ 辰巳用水計画の課題)

 

④ 辰巳用水工事の概略
 
 
板屋兵四郎が実施した辰巳用水工事の概略は、
以下のとおりである。
 
犀川上流の
上辰巳(城の東南の方角/ 標高100m)に
取水源を求めた。
 
水路とする工事は、上辰巳から小立野台地、
兼六園、金沢城、
大手掘の延長約12Kmに及ぶ。
 
戦略的に急場の用をなすためには、
汲んでも汲んでも、
絶対に
水量を減ずることなく
十分さを確保しなければならない。
 
兵四郎は、
取入口を
犀川が直角に曲がる地形を利用して造り、
大量の水を
勢いがあるまま隧道に流し込ませている。
 
 
 
隧道は
落盤や用水保護のために軟弱地盤を避け、
固い岩盤を選んで屈曲させながらも、
水流を緩めないように配慮した。
 
そこから正確に200分の1の勾配をとった。
 
正確無比の勾配は
どのようにして計測したか。
 
それは
夜行なわれた。
 
松明を並べ、
その灯る炎の先端で計測したのだ。
 
犀川に沿った2.7 Kmの
導水隧道を掘り、
小立野台地に通水。
 
そこから5.2 Kmの
開水路で兼六園に注いでいる。
 
二重構造の下の暗渠は、
軟弱な地盤を避けながら複雑に掘り進めらた。
 
用いた導水管は、
松ヤニを使って接着してつなぎ合わせた
木管で、
4kmつなぎ合わせた。
 
防災用として行なった工事は、
幕府のチェックで
容易に視認できるように施した。
 
この明渠(めいきょ)の下に、
板屋兵四郎は秘密裡に、
新田開発を目的とした農業用水路
および城に引く軍略目的の水を、
暗渠として設計したのである。
 
つまり、
表に露出したふたのない用水路の下に
秘密の用水路を造り、
これを外から見えないように
カモフラージュしたのである。
 

 

必要な水量や流速を得るために
細やかな計算や工夫が
随所に施された水路構造が、
計算し尽くされているなど、
この辰巳用水には
極めて高い測量技術、土木技術が
駆使されている。
 
こうして水路は、
近郊の田畑を潤しながら市中を流れ、
いよいよ兼六園にさしかかると、
辰巳用水は
一方で広坂通りを下り尾山神社に向い、
直前で
まず西外惣構堀(にしそとそうがまえぼり)へ
向う分水が、
護国神社方向に向うなど、
目的と目標を果たすよう戦略的に仕掛けられて
分配されている。
 
表面に出ていた辰巳用水とは別に、
地下管を通して装って送られてきた流れは
兼六園の地に入った途端に、
表面に現れる。
 
そこに注がれた水は、
カキツバタなど季節に咲く花や
多彩な樹木が植栽し配した
曲水となり、
さざなみを打ちつつ、回遊式庭園をゆっくりと
これまで何もなかったかのように美しく流れ、
取水源からここまでの
用水の12Kmの実像を打ち消すかのように
演出している。
 
 
園地の南の山崎山の下をトンネルでくぐると
千歳台の曲水となって幾筋にも分かれながら、
 
多くは霞ケ池(標高53.6m)に集められ、
水はたっぷりと貯水される。
 
霞ヶ池から
地下の導水石管で幾筋にも分かれながら、
 
幕末に作られ日本最古(1861文久元年)
といわれる
逆サイフォン方式の噴水等に回りつつ、
 
最終的には瓢池に辿りついている。 
 
ここから、
今も清らかな水を涌き出している金城霊沢
(金沢神社に隣接)の水と一緒にして、
 
石川門百間堀下(標高42.2m)、
白鳥堀から内堀など空堀へと上げ、
 
さらに高い位置にある
城中二の丸(標高50.3m)まで
揚水し、満々と水がたたえられた。
 
 
 
兼六園から約10mの高低差の水圧を利用し
石川橋の土手の上に落とし、
南御門の三の丸の堀へ、
 
さらに50.3mの
二の丸へ水を上げている。
 
霞ヶ池には
「水落とし」と呼ばれる仕掛けがあり、
いざという時には霞ケ池の水を抜き、
 
蓮池堀(百間堀)の水位を上げる
ことができるようにしていた。
 
完成後の手直しや
木管から石管への交換などは
その後に行われている。
 
犀川上流からの取水口も
水量を増やすために
その後2度1855年(安政2年)に変更され、
 
現在の東岩の位置に付け替えられた。
 
現在でも一日におよそ1,400トンもの水を
金沢市内や兼六園に送り続けられている。
 
こうして寛永の危機を切り抜けて、
農地への用水路確保と
金沢城の防衛施設を完備した。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ④ 辰巳用水工事の概略)

 

⑤ 名勝兼六園と辰巳用水事業
 
 
兼六園の蓮池亭は、
44年後の1676年に、
そして
元老中松平定信によって
「兼六園」と命名されたのは
190年も下っての1822(文政5)年
十二代藩主斉広の頃であった。
 
兼六園が今に近い姿になったのは、
1837年十三代藩主斉泰のときであったが、
 
1822~1837年の藩財政の実情は
火の車状態であった。
 
その中、
「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の
六つを兼ね備えた名園」は、
強行して整備された。
 
財政の苦しさを顧みない末期の藩主たちの
定見のない浪費の繰り返しが、
名勝兼六園を生み出したことは
皮肉であり、

三代藩主利常、稲葉左近、板屋兵四郎らの

大事業を忘れているかのようであるが故に、

余計に辰巳用水の事業は光る。

 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ⑤ 名勝兼六園と辰巳用水事業)

 
 
⑥ トータル的に俯瞰して捉えた創造的、有効的、効率的な実践
 
 
 
複合的なテーマ構想を練って計画を立案し、
予算編成し、
現地土質や作業環境等の調査の実施、
 
傘下で携わる現場監督の人選と工事の
目的・目標の徹底、
計測、図面の作図と複製、テストの実施、
 
見積もり、上役への報告、
仮払金・前渡金申請、機材の確保、
資材調達、資材置き場の確保、
法務、
 
ローテーション組み、
方針と工事内容および手順と留意点の説明会、
機密保持の指示徹底、運営管理、
調整と統制、監理、
予算管理、出納と経理 ・・・ 
 
これらの準備を調え、工事人夫を
数千人工集めた。

 

投入された人工数は述べ約14万人。
これをいくつかの組に分け、
一日四度の食事を与えて、
毎日500以上が随所で作業分担し
同時進行で行った。
 
予想をはるかに上まわる難工事だったが、
板屋兵四郎は
この大工事を前代未聞のスピードで、
わずか1年未満で見事に完成させた。
 
しかも
当初の藩が目論んだすべての課題を
解決してのことである。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ⑥ トータル的に俯瞰して捉えた創造的、有効的、効率的な実践)

 

⑦ 板屋兵四郎の技能
 
 
この板屋兵四郎を知る資料は
数少ない。
 
大阪芝敷村から
小松に移り住んだ町人とも商人とも
言われているが、
稲葉左近の配下で
「下村」という姓の侍だとも言われている。
 
 
『三壺聞書』で解ることは、
 
「小松町人板屋兵四郎と云ふ者
算勘の上手にて」
 
と記されているように、
和算・測量・数学では知られた人物だった
ようである。
 
稲葉左近に重用され、
能登で塩田関係の小代官を勤め、
塩田開発に手を染めている。 
 
 
 
塩田の造成には、
水平面を決める緻密な測量技術が
要求される。
 
その技術を買われて、
1625年から輪島の尾山用水、
寛永7年(1630)には、
「白米の千枚田」の灌漑のために
大江・春日両用水の工事をなしとげるなど
治水などで頭角を現している。
 
ただし、
能登時代の名前は下村姓になっているが、
それ以上は定かではない。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ⑦ 板屋兵四郎の技能)

 

⑧ 日本四大用水の一つ。その測量、土木技術や工法の優秀性
 
 
これらの技術や工法を実践するには、
高度かつ正確無比な測量技術と土木技術が
必要だったはずである。
 
導水隧道の工法、地下導水石管の接着技法、
サイフォン(伏越の理)の応用技法は、
日本の土木技術の歴史の上で重要で、
 
日本四大用水、
信濃佐久・五郎兵衛新田用水(1630年)
金沢・辰巳用水(1632年)
江戸・玉川上水(1654年)
箱根用水(1670年)
と、語り継がれている。
 
完成時のままの
隧道がそのまま現在も使われているのは
辰己用水のみで、
 
隧道の長さも
明治以前の用水隧道として名高い箱根用水の
約3倍の4Kmに及んでいる。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ⑧ 日本四大用水の一つ。その測量、土木技術や工法の優秀性)

 
 
⑨ 水守り
 
 
幕末に造られた日本最古の噴水
ならずとも、逆サイフォン方式は、
保つべき水位を確認するには
容易で有効である。
 
この辰巳用水が
軍事的な目論見で造られた一面があり、
さらに
百万石を支えるための農業用水路であり、
城内の飲料水の確保という面からも、
 
異変を逸早く察知する必要があった
と思われることから、
 
水守り役が昼夜をわかたずその任務に当たった
と読んでいる。
 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ⑨ 水守り)

 

⑩ 死の謎
 
 
板屋兵四郎を指名した
御算用奉行・稲葉左近は、
辰己用水完成の数年後の
寛永17(1640)年に
切腹させられている。
 
罪状は汚職で、
辰己用水の工事費用捻出のためと称し、
また
幕府に無断で
大阪への米輸送路を整備して利益を捻出し、
一部を横領したというものだ。

 

だが、加賀藩は
表面的には幕府への配慮から
政治的に彼を処罰したとも言われている。
 
 
板屋兵四郎も同様に、謎が多い。
 
兼六園内の金沢神社の中に
板屋神社の境内の林に遥拝所があり、
そこに
板屋兵四郎のご神像が奉納されているが、
神像は昭和33年(1958)に
子孫と云われる人物が奉納したもので、
 
現在も土木や水道関係の業者が
工事前に安全祈願や工事成功の祈願に
参詣している。
 
つまり、
加賀藩が彼を神に祀ったという記述は
見当たらない。
 
板屋兵四郎も用水完成後、
工事の機密漏洩を危惧した藩によって
暗殺された
とか、
 
稲葉左近の下で働いていたため、
同じ罪状連座で粛清されたのではないか
という説や、
 
他に毒殺説も、
稲葉の切腹が兵四郎にすり替わった
のではという説もある。
 
 
また、
 
辰巳用水完成の5年後、
富山の常願寺川近くの用水工事の指揮をとったとか、
 
名前を変えてその後20年生きて
 
越中(富山県)の用水工事の指揮をとった
など諸説紛々で、
その晩年も謎に包まれている。
 
 
これだけの大工事を行いながら彼は、
辰己用水完成後しばらくして
加賀藩の史料から忽然と姿を消しているという。
 
実際、
加賀藩には傑出した業績はあるものの、
実行監督した人物の名が表に出ないことが多い
のも原因の一つで、
 
大藩を維持するために、
 
このような人々が活躍しては消えていく
ことを繰り返した
のかも知れない。
 

 

( ■ 板屋兵四郎と兼六園辰巳用水 ⑩ 死の謎)

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